続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

紙芝居。

2017-06-24 07:45:52 | 日常

 7月15日の実演のために練習しなくては、と手招きで来てもらった少女たち、昨夕はチャイムを押して「紙芝居見せて下さい」と、嬉しいお願い。(やりますとも! やらせてください)

 何人かの小学生の瞳、真剣に話し手と画を見ている。(おもしろいのかな?)
 TVやゲーム全盛の時代にこのようなアナログ・・・。この至近距離(恥ずかしいよ)

 ふと気づく、この娘たちにエネルギーをもらってる自分に。
(ようし、やるぞ! もっと面白いお話を作っちゃおうかな・・・(ヾノ・∀・`)ムリムリ。

 勇気って大切だね、勇気を出して声を掛けなかったら、こんなうれしい気持ちになっていないもん。(わたしも子供帰りしている?)


デュシャン『9つの雄の鋳型』②

2017-06-24 07:02:12 | 美術ノート

 『9つの雄の鋳型』

 確かに9つの異なる形が描かれている、鋳型といわれれば、鋳型のようでもある。ならば、(雄)というのもそうに違いないと肯定を重ねていく。
 しかし、雄であることの証明は外観からは判断しかねることが多い。決定的な精巣の根拠は露わになりにくい箇所に隠れている。ゆえに、雄であることは自発的な告白を待つしかなく、雄と言われれば雄であると信じざるを得ないし、否定する根拠もない。

『9つの雄の鋳型』を見た人は、これに当てはめるという9つの雄の鋳型を想像する。類似・推測は広範囲に及ぶかもしれないが、正確な一致は困難である。なぜなら一般的な雄(男)の形に合致せず、この物は何かを知る手がかりさえ掴めないからである。
 逆説的に《このような論拠をもち、常識的なデーターに該当しないように描いた》と見れば、むしろ納得できる絵図である。

 9つという意味ありげな数字、鋳型という決められた形であるがどのような形にも対応する型、そこに(雄)というイメージを混入させている。

 結論から言えば、《有りそうで無い》物の結集である。確かに有るかもしれないが、意味の論点に行き着かない代物、意味を見出そうとすれば意味を消失するしかないという不思議な提示である。

 存在と非存在の間を浮遊する指摘の提示は、凝視という時間を要するものである。


(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)


『城』2675。

2017-06-24 06:24:53 | カフカ覚書

それでも、わたしが縉紳館で手に入れることができたものは、お城とのある種のつながりです。わたしが自分のしたことを後悔していないと申しあげても、どうか軽蔑なさらないでください。


☆わたしがハロー(死の入口)に着いたのも終わり(本当の死)との信ずべき結合(つながり)なのです。わたしのしたことに称賛がなくても軽蔑なさらないでください。


デュシャン『折れた腕の前に』②

2017-06-23 06:51:33 | 美術ノート

 『折れた腕の前に』

 この雪かきシャベル、どう見てもおかしい。レディ・メイドという観点から不信を抑えようとするけど、やはり不具合は明白である。
 持ち手の軸はシャベルの中央に位置しなければならないし、シャベル(鉄に亜鉛メッキ)に付いた軸(木製)が、細い角柱では折れ易い。軸には頑強なネジ止めが見えるがシャベルとの接着面にはそれが見当たらない。持ち手の金属部分の曲がり具合(135度)にも疑問が残るし、シャベルの両脇には多少の壁(?)があるのが一般的である。
 これはこのように意図して造ったレディ・メイドであるに違いない。

 雪かきシャベルとして微妙に不合理な造形は、シャベルとして使用し続けることが困難であり、木製の軸はいずれ《折れる》可能性を孕んでいる。
 折れた腕の前にある雪かきシャベルは、いずれ折れる時間を孕んでいる。
 折れた腕、というのは当然それ(雪かきシャベル)を使用する人の腕であり、折れた腕の(人)の前にあるシャベルということだと理解する。
 タイトルは見えない(非存在)の人を想起させ、その関係性を問うている。

(不具合のある)雪かきシャベル vs 折れた腕を持つ人は対等であるが、どちらにも不具合があり、使用不可の無為に通じる。
 この哀しい空気、役に立たないことの無言の悲痛…存在しているが意味を見いだせない関係。

 デュシャンは常に無に帰すサークルに嘆息している。存在(有)を通して、非存在(無)を見つめている。


(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)


『水仙月の四日』73。

2017-06-23 06:41:32 | 宮沢賢治

「さあ、しつかり、今日は夜の二時までやすみなしだよ。ここらは水仙月の四日なんだから、やすんぢやいけない。さあ、降らしておくれ。ひゆう、ひゆうひゆう、ひゆひゆう。」


☆教(神仏のおしえ)は実(まこと)也。
 字は弐(二つ)を推しはかる。潜(ひそむもの)と合わせ、詞(ことば)を化(形、性質を変えて別のものになる)で考える。


『城』2674。

2017-06-23 06:24:02 | カフカ覚書

ついに最後のとどめを刺されるようあ気の毒な結果になってしまいました。父は、もうほとんど二年近くまえから、さっきごらんになったとおりの容態です。それでも、どうやら母よりも父の容態のほうがmだいいのです。わたしたちは、毎日母の最期を待っているありさまです。その母の命がまだもっているのは、まったくアマーリアのたいへんな努力のおかげです。


☆突然の厳しい強制だとわかります。このような事情は父(宿命)より母(気分)の方が当たっています。アマーリア(伝説)のおかげで、超人的な感謝が続いているのです。


デュシャン『折れた腕の前に』

2017-06-22 06:51:41 | 美術ノート

 『折れた腕の前に』

 持ち手の軸がシャベルの中央でなく右に寄っているのが気にかかる。レディ・メイドであれば肯くしかないが、均等に力が入らない限り不具合が生じ破損に至るのではないか。

 折れた腕を持つ人の前にこの雪かきシャベルは無用の長物である。
〈使用される物〉と〈使用する者〉は対等の関係にあり、一方に不具合(折れた腕)があれば、その関係は成り立たない。
〈使用される物〉は〈使用する者〉の支配下にあるように錯覚しているが、欠損はその効用を無に帰し、関係は断たれてしまう。

 折れた腕の前にある雪かきシャベルは、(折れた腕の人)の幻を立たせ、そのとき雪かきシャベルは、タイトルとの関係において初めて意味を失うのである。タイトルがなければ(有用な雪かきシャベル)であるものを、タイトルによって(無用の雪かきシャベル)に変容されている。

 タイトルが対象の目的を変化させ、見えない人(幻)を立たせる。
 言葉が状況を演出させ、幻惑の空想を呼ぶ。そして見えない景色を見せるが、しかし無為徒労に帰す虚無感に導くという仕掛けである。
 在るように見えるが、無いのである。

(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)


『城』2673。

2017-06-22 06:25:31 | カフカ覚書

それに、父は、何度も縉紳館へ出かけては、そこで夜をあかしたりしたために、もしかするとわたしにたいすう同情がそれに輪をかけたのかもしれないのですが(もっとも、父にまだ同情心を起す力がのこっているかぎりにおいてのことですけれども)


☆それに父は何度もハロー(死の入口)に出かけ、来世に泊まり込みました。多分わたしを思い(それだけの力がまだあればの話ですが)