続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

R.M『説明』

2021-01-26 06:21:26 | 美術ノート

   『説明』

 前述の作品との相違は、背景に連山が見えることと、人参が多少劣化していることである。つまり、ここには時間がある。無空、久遠というのではなく、物理的な時間がこの絵の中に起動していることを認めないわけにはいかない。

 時間とは何か、人参の劣化、腐植から空へ帰していく時間。ガラス瓶の方は酸化現象は起こらず、高熱や激震がない限り形の変化は悠久の時間を要するかもしれない。
 ガラス瓶と人参の持つ時間の対比、背景の自然(連山)においてもすべては時間の中に存在するという宿命があり、その関係性は物体の持つ性質によって大きな差異が生じる。
 不穏な空、風雨、嵐、雷の予感を孕んでいる。
 形を変えるものは《時間》ばかりではなく、《空間》の事情にも左右される。

 総ての物体は現象であり時間と空間の中に、ガラス瓶でさえ呑み込まれていくに違いない。
 しかし、その自然現象の中においても、ガラス瓶(無機質)に人参(有機質)が合成化合されることが断じてあり得ない。

 自然現象を歪め圧する奇体(企み)が(画という二次元)には現出可能であることの証明である。画の可能性、実験、説明である。


 写真は『マグリット』展・図録より


『城』3579。

2021-01-26 06:08:48 | カフカ覚書

そのためにだれの助けも慰めも要りません。ましてあなたの助けや慰めは要りません。わたしは、この若さですでに人生というものを知っています。わたしの不幸は、人生についてのわたしの知識を裏書きしただけのことです。しかし、問題は、あなたにあるのです。わたしは、あなたのありのままの姿を見せてあげようとおもったのです。わたしの希望がことごとく挫折してしまったいまでも、これだけはしておかなくてはならないと考えたのです、と。


☆そもそも誰かある人の慰めなどの救済など必要でないと、彼女は言った。この若さで人生を知り、不運を認めることも分かっていたのです。でも、問題はKにあり、以前のままの姿を望み、希望がことごとく砕かれた今も必要だと思うのです。


『飯島晴子』(私的解釈)桐咲いて。

2021-01-25 06:55:34 | 飯島晴子

   桐咲いて輓馬の胴に詰るもの

 桐咲いて、初夏である。しかしここでは《切り裂いて=死》を暗示している。
 輓馬は家族の一員であり、働いてくれた輓馬の死に〈労い〉と〈感謝〉〈愛情と惜別の念〉を、その霊体に詰めるというのである。決して切り裂くものでもない。(北海道の画家、神田日勝の作品をイメージしたのかもしれない)

 桐咲いてはトウ・ショウと読んで、盗、章。
 輓馬はハン・バと読んで、判、罵。
 胴に詰るもの(胴詰物)はドウ・キツ・ブツと読んで、憧、詰、打。
☆盗んだ章を判(区別する)。罵(ののしり)憧(たたき)詰(責め)打(たたく)。 

 桐咲いてはトウ・ショウと読んで、套、章。
 輓馬はバン・バと読んで、番、場。
 胴に詰めるもの(胴詰物)はドウ・キツ・ブツと読んで、動、吃、物。
☆套(被った)章(文章)は、番(組み合わせる)と、場(場所・空間)が動き、吃(感じる)物(事柄)がある。


R.M『説明』

2021-01-25 06:31:28 | 美術ノート

   『説明』

 なぜそうであるかを解き明かすこと。
 ガラス瓶と人参、そしてガラス瓶と人参の合体。無機物と有機物が、接合ではなく徐々に融合していくなど絶対に有り得ないことである。ガラス瓶は最終的に分子として残るが、人参は腐食(酸化)し、分解され消えてなくなる。
 
《絶対に無い、起こり得ないこと》の説明は物理的現象では説明不可能であるが、絵空事の二次空間に描くことは可能である。
 現実には起こり得ないことも、画の世界では可能であるという説明である。

 石のブロックの上(叡智)にあるガラス瓶と人参の背景は緑灰色のベタであり、時代を問わず永遠に等しい。理論的に証明できない不可の状態も、二次元という平面上では可能だということの説明である。


 写真は『マグリット』展・図録


『城』3578。

2021-01-25 06:19:15 | カフカ覚書

 ペーピは、すでに話を終わっていた。ほっと息をつきながら眼と頬から二、三滴の涙をぬぐうと、しきりにうなずきながらKをじっと見つめた。それは、まるでこう言いたげであった。―所詮、わたしの不幸なんか、ちっともたいしたことじゃないのです。わたしは、それを耐えていくつもりです。


☆ペーピは話を終えていた。深く息をつきながら眼や頬にこぼれた涙をぬぐった。目を伏せたとき、彼女は話そうとし、十分に原因を把握し、この不幸を打ち消した。


『飯島晴子』(私的解釈)煙管の先に。

2021-01-24 06:46:26 | 飯島晴子

   煙管の先に煙草立てゝは藤白し

 煙管(南蛮キセル)は万葉集に《思い草》と読まれた植物。
 煙草には《思い草》という別名がある。
 白藤の花言葉は《決して忘れない》である。
 つまり、思い草の先に思い草が立っていれば、相思相愛、決して忘れないのである。(めでたし、めでたし)

 煙管の先にはエン・カン・センと読んで、縁、観、選。
 煙草立てゝはエン・ジ・リツと読んで、掩、二、律。
 藤白しはトウ・ハクと読んで、読、博。
☆縁(つながり)を観(よく見て)選ぶ。
 掩(隠した)二つの律があり、読むと、博(大きく広がっている)。

 煙管の先にはエン・ナン・センと読んで、怨、難、癬。
 煙草立てゝはエン・ソウ・リツと読んで、炎、瘡、慄。
 藤白しはトウ・ハクと読んで、痘、迫。
☆怨(恨めしい)難(悩み)の癬(皮膚病)、炎(体の一部に熱や痛みを持つ症状)がある。
 この瘡(できもの)に慄(恐れおののき)痘(豆のような水膨れ)に迫(苦しんでいる)。


『飯島晴子』(私的解釈)跫音が。

2021-01-24 06:29:44 | 飯島晴子

   跫音が跫音を聞く寺の水仙

 人の見えない淋しい辺地、誰もいないはずの山奥で聞こえる足音。誰だろう、誰が来てくれたのだろう珍しく嬉しい人の気配・・・ご先祖様が眠るお寺の水仙がしかと聞いたのは春の訪れだったのかもしれない。

 跫音はキョウ・オンと読んで、響、音。
 跫音はキョウ・オンと読んで、協、隠。
 聞く寺はブン・ジと読んで、文、字。
 水仙はスイ・センと読んで、推、詮。
☆響く音に、協(調子をまとめる)隠れた文がある。
 字を推しはかり詮(明らかにすること)である。

 跫音はキョウ・オンと読んで、胸、隠。
 跫音はキョウ・オンと読んで、恐、怨。
 聞く寺はモン・ジと読んで、悶、自。
 水仙はスイ・センと読んで、衰、潜。
☆胸に隠した恐ろしい怨みに悶(もだえ苦しむ)。
 しかし、自(ひとりでに)衰え、潜(心は落ち着いてくる)。


『飯島晴子』(私的解釈)山つつじ。

2021-01-24 06:05:12 | 飯島晴子

   山つつじ折りとり母の衿そよぐ

 山つつじの間を歩く母の姿はつつじに埋もれ大部分が隠れているが、わずかに見える母の衿が風にそよいでいる。折りとり(折取)、切(しきり)に取(心が赴くところの)衿(心の中)はそよいでいる(戦、おののいている)かもしれない。母には母の立ち向かう思いがある。

 山つつじ(山躑躅)はサン・テキ・ドクと読んで、三、適、読。
 折りとり(折取)はセツ・シュと読んで、説、主。
 母の衿そよぐ(母衿戦)ボ・キン・センと読んで、募、訓、閃。
☆三つが適(あてはまる)読みがある。
 説(話)の主(中心となる事柄)を募り、訓(字句を解釈すると)閃(ひらめく)。

 山つつじ(山躑躅)はサン・テキ・チョクと読んで、算、的、直。
 折りとり(折取)はセツ・シュと読んで、設、須。
 母の衿そよぐ(母衿戦)はボ・キン・センと読んで、簿、襟、詮。
☆算(見当をつけ)的(ねらい)を直(ただち)に設(こしらえる)。
 須(必要なこと)は、簿(ノート)に襟(心の中)を詮(明らかにしている)。


『飯島晴子』(私的解釈)春蘭の。

2021-01-23 06:55:58 | 飯島晴子

   春蘭の斑や声ふかくしまひおく

 春蘭にはジジババの呼び名がある。
《年ふればよはいは老いぬしかはあれど花をし見ればもの思ひもなし》古今集より
 年月が経ったので私はすっかり年老いてしまったそうではあるけれど、この桜の花(わが娘である染殿后)を見ていると何も思い煩うことがない気持ちになる。
 この歌を踏まえて、(いろいろな事があるけれど、胸の中にそっと納めておきましょう)という意。

 春蘭はシュン・ランと読んで、瞬、爛。
 斑や声ふかく(斑声深)はフ・セイ・シンはと読んで、怖、凄、震。
 しまひおく(仕舞置)はシ・ブ・チと読んで、死、無、質。
☆瞬(またたく間)に爛(腐って形が崩れる)怖さに凄まじく震える。
 死んで無くなる質(中身)がある。

 春蘭はシュン・ランと読んで、悛、覧。
 斑や声ふかく(斑声深)は、フ・ショウ・シンと読んで、普、成、新。
 しまひおく(仕舞置)はシ・ブ・チと読んで、旨、舞、知。
☆悛(秀でた者)は覧(見ていて)普く称える。
 成(出来上がり)の新しい旨(考え)を舞(励ます)知がある。


『飯島晴子』(私的解釈)雛まつり。

2021-01-23 06:37:21 | 飯島晴子

   雛まつり杉の迅さのくらやみ川

 雛まつり、時の経つのは早い。どこへ流れていくのか先の見通しや希望の持てない昨今である。雛まつりをした幼い日に帰る術はない。

 雛まつり(雛祭)はスウ・サイと読んで、崇、才。
 杉の迅さはサン・ジンと読んで、参、人。
 くらやみ川(暗闇河)ハアン・アン・センと読んで、暗、庵、潜。
☆崇(あがめる)才(才能)を参(預かる)人を、尋(訪ねてみると)暗い庵に潜(身をひそめていた)。

 雛まつり(雛祭)はスウ・サイと読んで、数、細。
 杉の迅さはサン・ジンと読んで、算、腎。
 くらやみ川(暗闇川)はアン・アン・センと読んで、闇、案、専。
☆数(はかりごと)を細(精密)に算(見当をつける)。
 腎(かなめ)は、闇(ひそかな)案(考え)を、専(思うままにすること)である。