「はなはだ尊き仰せなり。いと小さくなむ侍るめる。少し人とならばさぶらはせむ」と申したまふ。宮、「いとうれしきことなり。かの御方にも常に聞こえさせむと思ふむやなどてなむ。と思うを騒がしなどもしたまふすずろなることなれば、うたて思せやなどてなむ。時どき聞こえさせむもはら聞き入れたまはむやうになむ」と聞こへ給へば、大将いといたくかしこまりて、「さらば仰せに従はむ」とてまかでたまひぬ。
「宇津保物語」のあて宮への求婚はいろんな連中が出てきて引きのばされてゆく。上のは東宮の求婚が案外あっさり受けいれらたかにみえる場面であるが、まだこのあとも求婚者が現れている。竹取以来の「まれじゃない人」大量に来たれりのこの引き延ばしは幕の内弁当的で、宮台氏のいわゆる「終わらない日常」という感じがする。竹取がいいのは、天の人たちの来襲とまれびとの帰還というでかい顛末が待ってるからで、おそらくその顛末のあとどう物語を作るか当時の人はすでに困ってた気もする。「宇津保物語」も最初に天の大きい話が続いたので、地上の話に移ったときに大変である。「源氏物語」は、地上で人間を異常に輝かすことによって、「蜻蛉日記」は、異常に沈潜させることによって地上の物語を紡ぐ。この「地上」は「平家物語」で、安徳天皇が海の都にダイブして崩壊したと思う。
さっき、北条泰時たちがつくった「御成敗式目」を少し読んでいて、またゆっくりと我が国の人間は地上に帰りつつあったのだと思った。これは京の貴族と付き合わざるを得ない、六波羅探題にいた泰時だからこそ作れたみたいなことを以前読んだ。大河ドラマの描くようには、御成敗式目は武士の世界の弁証法で出来たものではないと空想する。もっとも、「御成敗式目」は無学な武士でも分かるように書かれたものらしいので、これを読めない現代人は無学を通り越して武士ではない。――と、これは冗談だが、日本国憲法の力を侮ってはならず、これによって我々は地上に帰ったのである。三島由起夫は安徳天皇であることによって地上的であることを拒否しようと思ったのである。
いわば、テロや自決によってしか事態を表現出来ないわれわれの劣等性が問題だと宮台真司なら言うであろう。ことしのバイロイトの録音で「トリスタンとイゾルデ」をひさしぶりに通して聴いたが、ほんと脳みその位置が動く気がするよな危険極まる音楽で、歌手もよく倒れないと驚く。解説の三澤洋史氏も言われていたが、この音楽は最後のロ長調がすごく印象的で、――ハイライトで聴くとよけいそうなんだが、――それ以前の四時間はずっと殴られているような音楽で、三澤氏も涅槃の境地みたいなのをロ調の最後に感じると言っていた。宮台氏が「終わらない日常」下で興奮的に永久革命し続ける能力は、いわばトリスタン的なものだ。日本の幕の内弁当なら、トリスタンの相手はあと十人ぐらいでてくるに違いない。三島由紀夫が「憂国」にトリスタンを使ったのはたぶん大まじめだったのである。
こういう劣等性を、神仏習合的に褒めてみようという人もいると思う。神仏習合というのはほっといてもおこるもんじゃなく、現実には政治的結末だとしても、やはり誰かが観念的操作をやってると思う。安藤礼二氏の批評なんかがそういうかんじで、また誰かが氏の批評そのものを分析し直して、現実に敗北した感慨を持つのであろう。