孤獨が恐しいのは、孤獨そのもののためでなく、むしろ孤獨の條件によつてである。恰も、死が恐しいのは、死そのもののためでなく、むしろ死の條件によつてであるのと同じである。しかし孤獨の條件以外に孤獨そのものがあるのか。死の條件以外に死そのものがあるであらうか。その條件以外にその實體を捉へることのできぬもの、――死も、孤獨も、まことにかくの如きものであらうと思はれる。しかも、實體性のないものは實在性のないものといへるか、またいはねばならないのであるか。
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感情は主觀的で知性は客觀的であるといふ普通の見解には誤謬がある。むしろその逆が一層眞理に近い。感情は多くの場合客觀的なもの、社會化されたものであり、知性こそ主觀的なもの、人格的なものである。眞に主觀的な感情は知性的である。孤獨は感情でなく知性に屬するのでなければならぬ。
眞理と客觀性、從つて非人格性とを同一視する哲學的見解ほど有害なものはない。かやうな見解は眞理の内面性のみでなく、また特にその表現性を理解しないのである。
いかなる對象も私をして孤獨を超えさせることはできぬ。孤獨において私は對象の世界を全體として超えてゐるのである。
孤獨であるとき、我々は物から滅ぼされることはない。我々が物において滅ぶのは孤獨を知らない時である。
――三木清「孤獨について」
上のように、三木清は、孤独は条件に於いて決まる、孤独においては「私」が対象の世界を全体として超えてる、みたいなことを戦争が進行する中で書いていた。当時の読者は、これで何か安心感を得たし、三木自身も安心して主義者じみていたのかもわからない。そこでは、孤独たらしめる条件の把握が、一気に「私」における「全体」性への超克に加速する。彼は実際かなりアクティブな人間だったのである。ところが、いまは、読者の方が、孤独という言葉からなにか孤独霊のようなものを感じてしまうような時代であって、孤独の条件を見ようとせず、形容される言葉の世界から動こうとしない。絆や就職にしがみつくのが我々である。
だから、現実の速さにあわせてさっさと堕落しようぜ、あるいは精神にあわせて現実を加速させようぜというひとたちがいた。マルクス主義者なら花田清輝がいたし、坂口安吾ならヤクザものへの淪落を仄めかした。太宰ならさっさと「人間失格」しようというわけだ。このひとたちは、芥川龍之介の言葉と現実とに揺れる精神的な危機を回避しようとして、それを人為的にすれちがわせ、もう一回生まれ変わろうというのだ。
現代だったら、福音にたどりつくための覚悟として宮台真司氏なんかが加速主義者なのかもしれない。こういう人はとにかく事態を急かすから、いろいろな事件も起きるであろう。しかし、マルクス主義の帝国主義戦争から革命へとか、さまざまなる加速主義とか、――とりもなおさず急げ急げの人たちは、源氏物語を読んで再考すべしだとおもうのである。この物語で源氏の女あさりの加速に取って代わるのが源氏の老いで、その死に向かう加速がすごすぎて、紫式部もめんどくせえから省略したのかも知れないのであった。残ったのは匂いと薫りに分裂したミニ源氏の通常運転だ。