この六十日、合理、理論の合理にのみ身をよせて、抗辯したにもかゝはらず、戰爭に反對したことより以外に何の證據もないのに、打たれたり蹴られたりしてゐる自分にとつて、この雪の中に、又大空にみちみちてゐるこの秩序は、泌透る樣にこゝろを刺貫くものをもつてゐた。
南京が陷ちたと云つて昨夜は外は騷しかつた。しかし支那事變は長期となり、やがて世界戰となり或は毒ガス細菌戰に轉移するから、絶對に反對すると云ひつゞけた自分としては、何れ何處かで、自分の死にまで連續してゐるこの度の戰に、せめて反對したことだけを滿ちたりる事としてゐたのであつた。
しかし、この雪を見てゐるうちに、私は深い憤りに身をふるはす思ひであつた。この充ち充ちてゐる秩序の中で、人間のこの秩序だけは、この一片の雪にだに、面と面をむけ得るものではないのだ。
この一片の雪に向つて、この私達の世界が顏むけならないのではないか。
雪は窓のふちに抛物線を描いて、だんだんつもつて行つた。
晝頃になつて、調室に出された私は、係官のT刑事に、
「この雪は二万尺の上から、一つ一つ結晶して落ちて來てゐるんです。この一片の雪よりも、私達の世界の方がみじめです」
と云つた。
刑事は、いつも、きつい目をしてにらみ据える人間だつたが、その時だけは、だまつて、窓に向つて歩いて行つて、じつと空をしばらく見上げてゐた。
その事があつてから、人間の愚劣に對する私の驚嘆は、日と共に深くなり、自分も同時に人間全体とすこしも變りなくその愚劣さ、氣障さ、たわいなさ、まことに口にすべからざるものであることに往生したのであつた。
――中井正一「雪」
中井正一の留置所滞在記、これをよむと、他の文章でも中井正一にはどこか甘さがあるような気がしていたのが、よりはっきりしてくるようだ。彼の見ていたのは死の雪であった。これにくらべると、坂口安吾が、人間の愚劣さの美しさを面白がっているのは、ちょっと時期がずれているとはいえ、同時代の生き方としてはほとんど悪趣味なほど胆力に頼った態度だったと思う。愚劣な人間は単に愚劣なのではなく、悪に見えるからである。
バカという病気の厄介なところは、人間の知能と関係があるようでありながら、一概にそうともいいきれぬ点であります。
――三島由紀夫「不道徳教育講座」
三島由紀夫は、安吾のような胆力を持ち合わせず、肉体をせめて存在させようと頑張った。バカではない状態を知能ではなく逆説的に肉体から作ろうというのである。しかし、そもそもそこまで三島はワタシほど孤独にはなれなかった。30代の頃のわたしのある論文を読んでみたら、踊ってるみたいな幸福な文体でびっくりした。そんな気分ではなかったぞその頃は、と思う。やっぱり気分じゃなくて肉で書いてるんだなと思った次第だが、それはわたくしがまだ自分に向けてしか文章を書いていなかったからだ。バカではない状態を作るためには、バカではないものたちとコミュニケーションする必要があった。路線の間違いを証明するために肉体を罰してしまった三島であった。
政府が軍事費を増やすと言っている。最近の事件をみても刃物をもってはいけない人はいるもので、基本的に軍事も同じだ。シビリアンコントロールというはそういうことだ。国家の責任で暴力を自分でコントロール出来たためしがなく、いまもアメリカの命令待ちだというのに「待ったなしだ」とは笑わせる。シビリアンコントロールという言葉を知った頃、わたくしはアメリカンパトロールをピアノで練習しておったので、なんとなく三島由紀夫の「シビリアンコントロールというのはだな、新憲法下で堪えるのが、シビリアンコントロールじゃないぞ」というあれがアイロニカルに響く。