★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

天人と紀念碑

2022-12-11 23:59:43 | 文学


唐絵の様したる人、琵琶を持て来て、「今宵の御箏の琴の音、雲の上まであはれに響き聞こえつるを、訪ね参で来つるなり。おのが琵琶の音弾き伝ふべき人、天の下には君一人なむものしたまひける。これもさるべき昔の世の契りなり。これ弾きとどめたまひて、国王まで伝へ奉りたまふばかり」とて、教ふるを、いとうれしと思ひて、あまたの手を、片時の間に弾きとりつ。「この残りの手の、この世に伝はらぬ、いま五つあるは、来年の今宵下り来て教え奉らむ」とて失せぬと見たまひて、おどろきたまへれば、暁がたになりにけり。

「夜の寝覚」の最初の辺りで、天人から中の君は琵琶を教わる。わたしのような素人でも、小さい頃ピアノの練習をしていてある日突然手がスムーズに動き出すことがあった。我々の先祖たちは、昔から、我々の芸の上達にはなにかが降りてくるような性格があることを不思議がっていた。これは因果が分からない結果であって、人物の美しさにも通じるなにかわからない結果である。源氏物語はなんとなく、源氏を限界以上に極端な結果にしておいて、あとは案外因果はめぐるぜみたいな事件をじりじりと推し進めて行く。わたくしは昔源氏物語を読んだ時に、明石に流された源氏のところにやってきたのが、天のお告げやなにやらではなく、親父の霊だったことにいやな予感がしたものだ。源氏は徹底的に地上に縛り付けられた存在だ。父と母の宿命に縛り付けられ、いずれ自分もそういう宿命そのものになる。

転向文学とか言うと、なにか良心の呵責とか宗教的苦悩とかだと私もむかしは思っていたが、――いざそんな時代になってみると、予想していたよりただの幇間が多いので、ほんと書かれたものというのは信用出来ないという結論に至っている。わたくしは、どこか転向の苦悩の果てに敗戦という天人が降りてきたような気がしていたのかも知れない。昔の私のように、天人を信じていたほうが、前進することが可能かも知れない。転向劇は報われた物語とともにあった。吉本隆明が「絶望せよ」と地上に我々を縛り付けようとするとは逆に、転向劇は「夜の寝覚」的なものであって、存在してもよい物語である。

もっとも吉本が言いたいこともわからないではない。忠魂碑を神社に避難させている例は多いし、もともと神社のなかに立てられることも多かった。あと特に日露戦争の時に建てられた注連柱には驚くほどあからさまなせりふが書いてあったりと、神社が結果的に保存してきているものは多い。うちの近くには、サンフランシスコ平和条約紀念の鳥居があるけれども、同様の例を見ない。

敗戦国の酷なところで、紀念碑をつくりがたいというのがある。我々は、どこかシンボリックな紀念碑にいまでも歴史を委ねている。紀念碑とは、「やったこと」の紀念であって、「やらなかったこと」の紀念ではない。敗戦と言っても戦争と言ってもそれは「やったこと」である。だから我々は、戦後を「やらなかったこと」の歴史にせずに、やったことの歴史にした方がよいと思う。それには紀念碑が必要だ。