★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

剣を打ちなおして鋤とし、槍を打ち直して鎌とする

2022-12-28 21:14:09 | 文学


書を読み、遊びをし給へど、習はす師に多くしまし給ふ。都の物の師といふ限りは迎へ取りつつ、かれが才をば習ひ取り、わが才をばかれに教へつつ、かしこき琴の上手、朝廷を恨みて山に籠れるを迎へ取りて、さながら習ひ取りなどして経給ふほどに、二十一なり、御妻なし、よき人の娘ども奉れども、思ふ心ありて、得給はず。

また、スーパーマンみたいなのが求婚者となってあらわれた。嵯峨の院のご落胤の源涼である。ちょっと習っただけで師匠を次々に超え、朝廷を恨んで山に籠もっている琴の名手(また、こういうのでたね……)が教えてしまう人物である。むかしからこういうのがちやほやされるが、よくいる秀才に過ぎない。

こういう人物のほとんどはギフテットとみえてもそうではないから、学校としてもそれほど気にする必要はない。そういう飛び抜けた人物も大した問題ではないし、大概の優等生たちが教師をいつも馬鹿にしてる方が問題なのだ。教師を誤認しているのが問題なのではない。それが正解である事に興奮している脳みそが平凡なのである。で、そういう優等生は、たいがい学者や役人なんかになって、学歴や業績に縋って死んで行く。問題は、ギフテットに比べて学校がレベルが低いことではない。そんなのいつも当たり前のことであって、学校がいわば何かそこはかとない「正気のレベル以下」みたいなことになってることのほうが問題である。多様性を担保するみたいな見かけよりも恐ろしく難しい高等テクニックの前に、まずは正気を取り戻すことが必要である。そして言うまでもなく、正気を失ったのは学校自身ではなく、学校をそういう存在させた子どもと親と世間が正気を失ったに過ぎない。しかし、考えてみると、上のようなスーパーマンや光源氏ごときを愛でている時点で既に正気を失っているから、我が国ではむかしから正気は失われて久しいのであった。

聖書ですらそこに気付いている。

主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ちなおして鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。(イザヤ書2:1-5)

優等生たちが出来ないのは、「剣を打ちなおして鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」ようなことである。剣を剣として洗練させる事は能力があればできる凡才の証拠である。

われわれの世界には優等生よりも不思議な事がある。例えば、ちびまる子ちゃんや普通のドラマなんかにはくすりともしなかった母はキョンシー映画は面白がっていた。こういうのはけっこう不思議な事であり、この謎を解く事は、剣を打ち直して鋤にすることに等しいか繋がっている。

例えば、今年の大河ドラマは大ヒットでわたくしも楽しんでみたが、――前にも書いたが極めて現代的で平凡さを貫いたドラマでもあるのだ。現代なら執権は官房長官というところであり、それが大臣を次々に暗殺したり、首相の息子をあれしたり、妻に毒もられたり、陛下を島流しにしたりしている。そして息子と姉上が大好きで女子はキノコが大好きだとか言っているのだが、――普通に狂っている。それがあまりに内の秩序に向かう物語として平々凡々でありすぎて、予測がある程度ついているから我々は期待の地平に沿って視聴欲をそそらるのだ。ほんとは、支配の広がる外への力の縁の部分の描写が必要で、それはむしろ神話とか純文学がやってきたことである。「破戒」の丑松が、物語の最後にテキサスへ渡ったとしてどうなるのか、おそらくはまた白人からの差別にあうというのはたぶん本当だが、――差別する側にそのままの人格でまわることは、状況によってはあり得る。たぶん中上健次が韓国に行って「日本人は一体何をしたのだ」と思ったような事態のことだ。被差別的な共同体の内側での暴力と外側からの差別の関係は繊細な問題である。中上はエッセイ「生のままの子ら」で、「生のまま」である子どもたちのすばらしさは「実態に触れたことのない差別」を暴力として予知すると言っている。すると、暴力的ではなかった丑松の方は、実態を知った上での暴力を予知する潜在的な存在としてありうるとわたくしは思う。