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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

器械的人物

2022-12-23 19:46:04 | 文学


左大臣、「正頼が、『らうたし』と思ふ女の童侍り。今宵の御禄には、それを奉らむ」とのたまへば、からうして、万歳楽、声ほのかに掻き鳴らして弾く時に、仲頼、行正、今日を心しける琴を調べ合はせて、二なく遊ぶ時に、なほ、仲頼、感に堪へで、下り走り、万歳楽を舞ひて、御前に出で来たり。行正琵琶、大将大和琴、皆調べ合はせて、ある限りの上達部、声を出だして、遊び興じ給ふ。仲忠、例の曲の手をば弾かで、思ひの物を弾く時に、「かくては、御禄もいかがはせむ。なほ、少し細かに遊ばせ」と、切にのたまへば、調べ変へて弾く。面白きこと限りなし。いまだ、仲忠、かやうに弾く時なし。御前にて弾きしよりもいみじう、この声もたうへきて習ひ来たれば、なつかしくやはらかなるものの、いと珍かに面白し。万の人、興じ愛で給ふ。

室城氏のビギナーズクラシックでも触れられていたが、柳田國男の「酒の飲みやうの変遷」(『木綿以前の事』)にもあるように、音楽や舞を肴にしたり、引出物(ここではかわいい娘)を贈ることを言明して、酒を更に飲ませるみたいな場面である。冗談なのかそうでないのか、酒の席はそれがよくわからない面白さがありしかも危険である。

酒に酔うこと自体をわれわれは自分の意志そのものだとは思わない。音楽や虚構が入り込む何かなのである。そこには、楽器などの人工物や贈答物が現れる。もともと、技術がもたらす何かの変化が神秘的なのである。音楽はそのなかでも圧倒的に酒に近い陶酔を作り出す。概念規定と仮説から構築する学問ばかりやってると修辞が修辞としかみえなくなり、学問が足し算みたいになっていくのだが、文章自体が人工物であり、そこに音楽の発生のような陶酔的な「化け」が含まれていて、それと我々がロジックを操るときにもあることを忘れてはならないと思う。

そういえば、上の音楽の天才の親子が洞窟に住んでいたときに、やはりそばに巨岩があった。石を祀った神社がわたくしの家の周りにはいくつかあるが、いつも思うのは、巨岩の前では何か微妙に声の響きが違い、考えてみたら反響板になってるんだな、少し。この少しがいい。我々の増長を押さえているようだ。

われわれは組織の機構の中で、どこかしら狂った言行を要求されている。様々なる文書をみると、執筆者全員発狂しているのではないかと思うほどである。しかし、そこにある意味、人間の可能性をみることもできるのだ。可能性自体に善悪はない。AIも妙に人間性にこだわらなくても、十分人間が狂った器械なのだ。

かくて三年ばかりは夢の如くにたちしが、時来れば包みても包みがたきは人の好尚なるらむ、余は父の遺言を守り、母の教に従ひ、人の神童なりなど褒むるが嬉しさに怠らず学びし時より、官長の善き働き手を得たりと奨ますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、たゞ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の中なにとなく妥ならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。

鷗外の「舞姫」における「器械的人物」という言い方、「的」がついてていやだなとむかし思ったけど、鷗外はじゅうぶん分かっていたと思う。人間はたんなる器械じゃなくて、「器械的人物」というもっといやな生き物なのである。それは「自由」を求める。しかし、器械的人物の自由は自由をもたらさない。

今回行われたデジタルライブラリーのリニューアルは検索機能の充実など画期的な進化で、コロナ禍が幸いしたようにもみえる。私もそれでついうきうきしたが、これでまた我々が研究の見かけの充実と引き替えに能力の一部を失うんだろうな、とも思う。技術は悪魔であり、我々と取引している。チェンソーマンという作品でそういう場面をみたので、比喩能力を奪われました。インターネットは道具とは違うものである。どちらかというと電話化した「本」である。これは我々を変形させるより、能力を奪う方が大きかったような気がする。少なくとも我々の世代は、パソコンとインターネットでそれまで身につけた記憶力を失った気がする。そして、その失うプロセスがインターネットの発達と重なってしまった。鷗外も、以前の我でないものを発見したけれども、それを自分のせいではなく、国家という器械のせいにしているところがある。

されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり。


憎む心でようやく人間である道を主人公は見出したような気がする。