★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

まれびととカーニバル

2022-12-25 23:10:05 | 文学


かくて、この寺には、今日の色節にて、怪しからぬ、いと多かり。遊びの所には、嵯峨の院の牛飼ひ、講説の所には、講説の長、楽とては、鼓打ちて遊びす、講説とては、こしきする真似をす。かかるほどに、大将殿の御車、御前三十人ばかりして立ちぬ。親王の君、「しそしつ」とて仰すやう、「講説始めよ」とのたまへば、牛飼辻遊びす。老僧ども、集まりて、声を合はせて罵れば、物見に来たる人々、いとほしくもあり、をかしくもあり。博打、京童部、数知らず集まりて、一の車を奪ひ取る。殿の人々空騒ぎすれば、車の簾を掲げてのたまふ、「奪ひ得つ。これやこの、惜しみ給ふ御娘。なめき罪ぞ謀らるる。疎かなる罪ぞ凌ぜらるる。双六の主たち」と言ひて、牛飼ひども、田鼓ども打ちて、草刈笛吹く。


上野の宮が、正頼に言い含められた樵の娘をあて宮と思い込んで掠う場面であるが、この祝祭的なかんじがむしろ印象に残る。人が移動し入れ替わるときにはお祭りだ。

わたくしもミロが好きで、小学校のころ、美術の先生がミロの真似をさせた授業がたのしかった。これはしかし、ミロのシュルレアリスム以降の、星と動物の世界の絵のまねであった。わたしも確かに小中学校の頃、下手すると最近まで「アルルカンのカーニヴァル」(1924)みたいな作品が好きであった。しかし、かれはもともと、農村の風景を描いていた画家で、彼の怖ろしい才能は、「農園」(1922)あたりが一番すごいような気がする。この動いているようでうごいていない世界は澄み切っている。これをカーニヴァルのようにしてしまうのが彼のシュルレアリスムだったきがするが、――これはいずれに孤独な可愛さの存在として星の世界に追いつめられて行く。ここでは、「すべて」が「まれびと」のようである。

もう誰かがさんざ言っているのであろうが、サンタをはじめ自分の親や孫でさえ、折口のいう「まれびと」みたいになっている可能性があり、これじゃ落ち着かねえから、これからの人類のめざすのは第二の定住ではあるまいか。

池谷仙克氏の怪獣のデザイン画などをみていると、怪獣特撮で難しかったのはどうしても着ぐるみなので、我々の体格にあったものに修正されてしまうということだったなと思う。頭と胴体のバランスを変えただけでおどろくほど不気味になったはずだが、これだと子どもが怪獣に親しみをもつことはなかったかもしれない。しかし、デザインにあった不気味さをやはり怪獣たちは残していて、まだ昭和四十年代のこどもにとって怪獣はかろうじて「まれびと」だったに違いない。こういうバランスの問題は、文章に於いてもあって、いかにバランスを崩すかというのは考える事はあるが、われわれはそれが驚くほど苦手になっている。みなかわいいぬいぐるみみたいな文体になってしまうのだ。

サンタクロースは煙突から入るということを知って、木曽の家ではストーブの煙突から焼けながら侵入してるのかもしれないと子どもの頃思った。この状況はなんかまだ「まれびと」の存在感があった。いまはエアコンの室外機で粉砕されてから我々の部屋に闖入しているにちがいなく――むろんはそれは無理であって、完全に「まれびと」がくる余地がないのだ。わたくしが大人になったからではなく、人間が完全に「箱男」化しているからである。彼のところにはせいぜいいるかいないか分からない看護婦や偽物が来るだけであった。