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正長既已具、天子発政於天下之百姓。言曰、聞善而不善、皆以告其上。上之所是、必皆是之、所非必皆非之、上有過則規諫之、下有善則傍薦之。上同而不下比者、此上之所賞、而下之所誉也。意若聞善而不善、不以告其上、上之所是、弗能是、上之所非、弗能非、上有過弗規諫、下有善弗傍薦、下比不能上同者、此上之所罰、而百姓所毀也。上以此為賞罰、甚明察以審信。
「上之所是、必皆是之」と「上有過則規諫之」との葛藤が考えられるが、後者がうまく働いた場合、前者が自動性としてうまくゆくようになる。前者を否定してしまうと、後者をやった意味が崩壊する。それぞれが義を主張する禽獣状態に戻ってしまう。
虚礼廃止というのはまあいいとして、その廃止をしたときに「あんたには別になんの感謝もあれも感じずに仕事をしております」と宣言するとおなじ事態となり、だいたい廃止しただけではすまないぐらいのことがわからないわれわれであるから、民主主義どころか共産主義など夢の又夢と言わざるをえん。もしかしたら、共産主義をつづけていられる中国には、「上之所是、必皆是之」がつよく働き、そしてその前提として「上有過則規諫之」の当為がいまだに働いているのかも知れない。
学問の越境とかえらそうなかんじの主張はむかしからあるが、そんなに越境したければ、小学校の先生になるべきで、毎時間違う教科を越境し、理論と実践みたいな悩みのひまなく実践だ。まさにおすすめである。ここでも、越境とか実践みたいなのは、「上有過則規諫之」の言い換えであって、「上之所是、必皆是之」ばかりじゃ不安になっているからである。つまり、彼らは君主のつもりなのである。
で、我々にはその《上への同一》を上から支える天があるのか、というのが昔からの問題だったわけだ。
まったく勉強したことがないから、ただの妄想であるが、いつも天はあったのだ。しかし、それに随わざるを得ないような暴力が働き過ぎたのか、自分たちの天と中国の天が相対化されてしまったのか、あるいは、輸入物の位階制度があんがい当為を考えずにすみ楽ちんだったのか、――天は否定も強く肯定されずにすんだ。たぶん仏教の影響も大きかった気がする。われわれはいつのまにか「蜘蛛の糸」のお釈迦様の境地を地上で手に入れたのだ。たぶん、仏像を造りすぎて自分が似てしまったのである。
大体に於いて、極点の華麗さには妙な悲しみが付きまとう。
――「日本文化私観」
わたしはまったくそうは思わないのだが、安吾が暴力的なやつで、教師をぶん殴った後、自分のパンチの華麗さに酔いながら自分の罪に悲しむという、――それは仮にてめえがお釈迦様であったとするとカンダタに対する行為がぎりぎり許される、みたいな感想なのではなかろうか。