それは厚い唇をもった口であった。そしてその口が皿の上で濡れて赤く輝いている。とその男の口が、彼が戦場でなぐり殺した豚のあのつき出た口に変った。そして彼の体のどこか片隅から、いやな堪えがたい感情があつい熱を伴って上ってきた。『ああ、いやだ。』と彼は自分で自分のその心を打消しながら、足を進めた。『豚だ豚だ。』と彼の身体の深いところから湧き上ってくる熱の塊りのようなものが、彼の内で叫びつづけた。彼の頭の中で、豚の唇が、ねちゃねちゃと動きつづけた。リンガエン湾で、俺の水筒の水を奪い取りやがったあの五年兵の松沢上等兵の野郎。
――野間宏「顔の中の赤い月」
試験業務のあと、あまりに疲れすぎていたためか、『リング』と『らせん』を続けて観てしまったことをここに告白します。それにしても、「ホラー」とは何なのであろう。最近のこの分野の研究をちゃんとおってないのでなんともいえないが、わたくしの内省に因れば、弱さを強さに変換することと関係がある。『リング』の最後なんかの、松嶋菜々子が自分の息子を守るために、父親を殺しに行く場面がそれである。
野間宏の主人公が、女性の顔の中に、自分のトラウマを見出し、戦場に帰っていくのは、戦後が、弱さを強さに強いる情況がないからだ。戦場では、弱さを打ち消すために強さが必要だった。そこに回帰することで彼は自分の虚無から遁れようとするのだが、無理である。辛うじて、女性との透明な壁を幻視することで、緊張感を保とうとする。
我々は、むしろ、疲れているときに、――例えば、芦川和樹『犬、犬状のヨーグルトか机』を共通テスト明けに弱った脳に流し込む必要がある。
貞子は、テレビの画面から何回も出てきて、松島菜々子ががんばって殺人を決意するまでもなく、「強者」となった。この調子でいけば、世界の悪人だけを呪いころすことも可能であるような気がする。我々の社会は結局、野間宏や芦川のような闘いしか出来ない。最後は、貞子が跳梁するように、――毒をもって毒を制すほかはないのだ。むかしの人はいいこと言った。