後は、三百よ人の組下、石川が掟を背、昼夜わかちもなく京都をさはがせ、程なく搦捕れ、世の見せしめに七条河原に引出され、大釜に油を焼立、是に親子を入て煎れにける。其身の熱を七歳になる子に払ひ、迚も遁れぬ今のまなるに、一子を我下に敷けるを、みし人笑へば、『不便さに最後を急ぐ』といへり。『己、その弁あらば、かくは成まじ。親に縄かけし酬、目前の火宅、猶又の世は火の車、鬼の引肴になるべし』と、是を悪ざるはなし。
「我と身を焦がす釜ヶ淵」はなかなかの余韻を残す話で、石川五右衛門の父親が、五右衛門にひどい目に遭わされた連中からリンチを受け傷だらけになっている前半から一転、五右衛門の犯罪が縷々語られて彼もすぐに釜で茹でられる。不孝とは、かようになにか複雑な余韻を残すものなのである。不孝とは息子の悪ではなく、親の傷であり、子の傷である。後者が前者をもたらすのは因果ではなく、途中に暴力が絡んではじめて行われる。最後に世間が五右衛門を非難するように、見物人的な世の中の動向が不孝の不幸さを決める。
「其身の熱を七歳になる子に払ひ、迚も遁れぬ今のまなるに、一子を我下に敷けるを、みし人笑へば、『不便さに最後を急ぐ』といへり」とあるように、最後にクローズアップされるのも親子であって、五右衛門が自分の子どもを釜の底に敷こうとしたのを、五右衛門は「かわいいからひと思いに殺すのだ」といい、まわりは「自分が一瞬でも助かろうと思って」と言った。こんなのはどっちが本当か分からない。少なくともたしかなのは、見物人がそのグロテスクな行為を「笑った」ことである。
昨日、はじめてキューブリックの「シャイニング」をはじめて観た。こんな重要な作品をいままでなんで観てなかったのか意味不明であったが、――この作品は、作家志望の男が妻と子を殺そうとする話で、原因は、管理人となったホテルに残留する「何か」、アルコール中毒、妻との不和、作品を各プレッシャーなど、一つに定まらない不安定さを持っている。それに対して、行為として現れる暴力自体が非常にショッキングなので、観客は驚きのなにかに閉じ込められるのである。原作はスティーブン・キングで、彼の小説とあまりに内容が違うので長らく批判していたと思う。たぶん、小説はもう少し暴力の原因についての理屈がしっかりしているのだと思う。
便乗型暴力や暴力対抗というものは、競輪場だけのことではなく、日本全体の風潮でもあるようだ。左右両翼の対立が、理論とは名ばかりで、根は暴力的な対立にすぎない。
――坂口安吾「便乗型の暴力」
アメリカだって、そういう便乗型暴力が問題なはずだが、つねに原因追求が目くらましとなって、我々に立ちふさがる。