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九四。解而拇朋至斯孚。
六五。君子維有解吉。有孚于小人。
拇でも小人でも解放されるとよい子とが起こる。この感覚は、いまもわりとある。ある小さいものの解放である。鷗外はとてもそれをよく知っていたように思う。漱石はそのかわり、全面開放みたいな文章になっている。鷗外の文章は確かによいものがたくさんあって、むかしわたくしもたくさん書き写した。ただむりに口語的に解放されくだけるときの躊躇いのなさがあまり好きではない。一葉のほうが100倍すきだ。これはもう真似できない気がする絶望が私にあるからかもしれない。それに一葉の文章には解放がない。これが私が好む理由でもある。
解放は春への解放だ。これだけの暖冬だと雪もとけていいよね、みたいなことをいう日本人民がいるけれども、つもった雪が最高気温15度ぐらいが数日続いただけでぜんぶ溶けるわけないし、逆に一度溶けた雪は兇器の氷の塊になる。それが屋根から高速で通学路に滑って飛んでくる。この緩みや解放に対する違和感がわたくしにはある。
古典に対する解放は、古典そのものの更新である。例えば、モーツアルトやベートーベンの曲に対してもっとかっこよく演奏できるはずだという運動は止まらない。ブラームスももっとかっこよくいけるみたいな演奏もたくさんあり、しかもまだまだブラームスはもっとかっこよくいけるはずだという欲求不満の度合いも高い。マーラーはどんな演奏でもだいたい昇天しているから関係なし。古典派とロマン派の違いは、こういう違いでもある。まだ絶対かっこいい演奏が出来るはずとかいうのはショスタコービチなんかもそれに含まれる。ソ連は、ロマン派に対する対抗言論であった。ショスタコービチに対しては、ほんとはもっとダサくやるべきみたいな考え方もあるくらいだ。これに対して、――専門家のなかではともかく、ケージやブーレーズの曲の名演とか凡演とかをあまりきかない。かれらの音楽は解放されきっているからだ。
文学でもそうで、もっと深く面白く読めるはずだみたいなものは減っている。それは作品の価値とはちがった問題であるのだが、聞く側や読む側に幻想を与える力というのが古典派の力であり、それが遠い過去の古典だから距離が出来てるからではない。
レヴィ=ストロースは、マルクス主義に対抗して、われわれのなかの古典派とロマン派のあらそいに終止符を打とうとしている。彼の本はその意味で広大なやさしさを持っている。一人一人を取りこぼさないとか言っている人がロマン派であって、たいがい人をやっつけているのと対照的だ。サルトルに対しても彼は優しい。
今でもロマン的にマイナー作家やマイノリティを応援することと、例えばプロレタリアートに即するみたいなことは屡々鋭く対立するものだ。いまでも彼らは「弱者の味方枠」みたいなとこころに押し込められて喧嘩させられている。