★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや

2019-01-16 23:15:47 | 文学


親王は昔男と話をしながら夜更かしをする。昔男は早く帰りたい。しかし、親王はあるとき出家してしまった。

睦月に、をがみ奉らむとて、小野にまうでたるに、比叡の山のふもとなれば、雪いと高し。しひて御室にまうでてをがみ奉るに、つれづれといとものがなしくて、おはしましければ、やや久しくさぶらひて、いにしへのことなど思ひ出で聞こえけり。さてもさぶらひてしがなと思へど、おほやけごとどもありければ、えさぶらはで、夕暮れに帰るとて、

忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪ふみわけて 君を見むとは

伊勢物語のなかで一番好きなのはこの八三段である。まさに中年の昔男のエピソードなわけだが、とても良く出来た文章だと思う。この段より少し前にある、世の中に絶えて桜のなかりせば、という歌はいやだ。桜なぞなくなってもいっこうにかまわない。オリンピックも中止になるかもしれないし、最近なにか生きる希望が湧いてくるかんじがしないではない。とはいえ、桜やオリンピックはどうでもいいとしても、話し相手がいないと大変なことになりそうなのが人間であるので、――少しは話し相手がいて欲しいと思うこの頃である。

思うに、突然出家してしまった親王は、皇位の望みがなくなったからなのか知らないが、結局のところ、昔男と話がしたかっただけ、そういう人だったのかもしれないわけである。わたくしは、いまでも、さまざまな雑音を逃れてふたりで気楽なお話をしたいがために出家のようなことをする人がいると確信する。

ただ、わたくしは、こういう話が美しく感じるのを逃避だとも思う。だいたい、親王と昔男のような身分差の関係に憧れること自体がねじくれている(「アシガール」なんかがその少女趣味バージョンだ)。そういえば、「ブレードランナー」の新しい映画の最後でも雪が降っていた(妄想かも知れない)。アンドロイド?の孤独が染みるしんみりした場面だが、彼の孤独な状態が長すぎるせいか、わたくしはあんまり何かを感じなかった。しかし、八三段があまりにも理想的なものだとすればわれわれの状態は、この映画に近い。虚無ではないのだが、虚無以上にやる気を失わせる状態である。

「アシガール」のポリティーク

2019-01-15 23:34:53 | 日記


年末に「アシガール」というドラマがやってたので観たのである。女子高校生が引きこもりの弟の発明したタイムマシンに乗って戦国時代にタイムスリップし、若君様の足軽として頑張り、いろいろあって、若君と結ばれる話である。若君を救うために、何回か、若君を現代に送ったりして、若君は、女子高校生の家で高校生をやったりするのであった。

放映されていたのは総集編みたいなものとスペシャル版だったので、なんというか、なんということもない感じであったが、結局、主役の黒島結菜さま以外はなんということもなかった。相手の美男子は一体誰であろう。昔の武士はもっと汚いブルドックみたいなかんじであろうが(個人の見解です)っ

足軽で大将の妻という、いまなら、非常勤で学長補佐みたいなところか(違うか)

最近、政治をみてても、大学をみてても思うのだが、独裁というのは実は二大政党制みたいなところから生じるということがわかる。巨大な勢力がプロレスみたいな対話をするためには、愚にもつかぬスローガンのやりとりが必要になってくるのであって、安倍自民党と民主党の関係もおそらくそうであった。ほとんどニュースをみていないから分からんが、安倍政権のやったことと、安倍氏がたぶん頭が悪く嘘つきだということは一応分けて考える必要がある。要するに、どれだけ嘘をついていないやつがいいかみたいな闘いは政治ではないにもかかわらず、――そう考え出すと、下手すると、自分に正直なトランプが勝ってしまうではないか。問題は、われわれの暮らしや人権の実質だ。スローガンやシンボルの闘いと実質的なところでの闘いを混同すると戦時下や戦後世界で起きたような実質的な世界の滑落が起こる。混同してもいい場合もあるんだけれども……

確かにあまりストレスをため込むのはよくないから、ストレスを強いてくる親分はやっつけた方がよいというのは、あんまり考える必要はないことだ。とはいえ、ストレスをかけてくる相手が、悪の権化みたいなキャラクターだったらまだ分かりやすいが、そうではなくて、物事が進められる手順みたいなものがストレスの原因なのである。――書類類の偽造、数字のごまかし、議事録の勝手な改稿など、あまりにもありふれすぎていて、はじめはストレスだったが、あまりストレスを感じないというストレスの段階にまで達している。精神は平気なふりをしているが、われわれの体や魂はもう限界状態だ。これは、ボスが悪質な奴であるからそうなっている場合と、たいした奴が上にいないのにそうなっている場合があり、後者の方がかなり多いような印象だ。上からのチェックもないが下からも下々の忖度の結果ないので、――組織の全員が共犯者だと分かっているからよけいストレスなのである。そこで、ストレス解消のために、安倍や反日分子などが選ばれる。特に、隣人を攻撃できない場合はそうなる。そりゃ共犯者同士は戦わんわな。

というわけで、若君と黒島結菜さんのカップルが政治をやることには反対だ。絶対に、弟が更に強力なタイムマシンを創りつづけるという苦行を強いられることになる。

万国の労働者(に使われるかわいそうな人たち)よ、団結ではなく、――個人個人でどうにかしよう……

月のおぼろなるに/余は全く不意撃を喰った

2019-01-14 23:57:14 | 文学


男はた、寝られざりければ、外の方を見いだしてふせるに、月のおぼろなるに、小さき童を先に立てて、人立てり。


伊勢物語の由来とも言われる「狩りの使」の話の面白さはいろいろあるのであろうが、私が一番いいと思うのは、伊勢の斎宮ともあろう女が、狩りの使である昔男の寝所に本当にすらっとあらわれてしまうこの場面で、「月のおぼろなるに、小さき童を先に立てて、人立てり」というところがすごい。もはや、「2001年宇宙の旅」を思わせる「急にきたぞ、なんかすごいのが」という感じであり、このあとのふたりのやりとりは、この場面の残響に過ぎないという感じがする。斎宮に特に幻想を持っていないわたくしなどでも、斎宮に惚れてしまいそうである。これに比べると、下はどうであろう。

迅雷を掩うに遑あらず、女は突然として一太刀浴びせかけた。余は全く不意撃を喰った。無論そんな事を聞く気はなし、女も、よもや、ここまで曝け出そうとは考えていなかった。
「どうです、驚ろいたでしょう」と女が云う。
「ええ、少々驚ろいた」


――漱石「草枕」


適当に引用してみたが、さすが近代文学、すべてを書いてしまうことで、下品さへの滑落が始まっていると思われるほどだ。中勘助が言うように、漱石というのはそんなところがあるのかもしれない。

そういえば、ハイエクの『隷属への道』というのをはじめて読んでみたが、著者自身が言っているように、これはちょっと厚いパンフレットみたいな本だと思った。ただ、本当のことを言い過ぎるのだとジョージ・オーウェルが言っていたらしい(Wikipedia)。確かに、全体主義にしても社会主義にしてもそれを批判するときに、その国家に責任をおっかぶせることは簡単だ。しかし民衆の自由さに責任を負わすことはできるのか。ヒトラーの頃も、現在もわれわれが直面している問題である。

闘争の色と声

2019-01-13 23:09:33 | 映画


時間があるときに、小川プロダクションの『三里塚』シリーズを観ているが、白黒映画とカラー映画が混ざるので、この違いについて注意しながら考えている。あと、声ね……。甲高いおばちゃんたちの方言むき出しの声が印象的であるが、戦争をくぐり抜け開拓をし夫の横暴に耐えてきた(みたいに描かれている)この人たちの存在はこのドキュメンタリーの中ではかなり大きいように思われた。このドキュメンタリーは、学生たちや農民たちが対位法のように扱われ、おばちゃんたちもその一部であり、――音楽の使い方からみても、一種の交響曲のようにつくられている。ゆえに、実際の運動においてどうだったかは慎重に考えなくてはならないが……。このことの意味については別に論じるとしても――、これを戦後のフェミニズムがどう捉えたのか、ちょっと考えさせられる。

一老櫻の側に、『牝馬吾妻之塚』と題する木標立てり。其の木標は新らしくして、この頃建てられたるものと見ゆるが、裏面には、明治九年に死せる由を記せり。舊墓標朽ちて更に新たに建てられたるにや。


――大町桂月「三里塚の桜」

役人の主人公性

2019-01-12 22:52:26 | 漫画など
黒澤映画の「生きる」なんかは、小役人を描いた作品であるが、わたくしはまだまだ役人世界というのは、芸術の世界で突っ込んで考えられていないフロンティアではないかと思う。「浮雲」の文三以来、というか、それ以前から小役人というとまずは馬鹿にすべき人種であるという決めつけがあったためであろう。確かに頭の悪い幇間はいるであろう。しかし、それはどの職種にでもいることだし。

わたくしは、ヘッセとかトーマス・マンが好きだったが、なんだか無理をしている気が当時からしていて、安部公房などにも熱中してみたが、どうも何かまだ違う気がして、高校の頃、ゴーゴリの「鼻」を読んでこれだなと思ったのを憶えている。

つらつら考えて見るに、どうもこれには真実らしからぬ点が多々ある。鼻が勝手に逃げ出して、五等官の姿で各所に現われるというような、まるで超自然的な奇怪事はしばらく措くとして――コワリョーフともあろう人間に、どうして新聞に鼻の広告など出せるものではないくらいのことがわからなかったのだろう? こう申したからとて、別に、広告料がお安くなさそうだったからというような意味ではない。そんなものは高が知れているし、第一わたしは、それほどがりがり亡者でもない。が、どうもそれは穏かでない、まずい、いけない! それにまた、焼いたパンの中から鼻が飛び出したなどというのも訝しいし、当のイワン・ヤーコウレヴィッチはいったいどうしたのだろう?……いや、わたしにはどうもわからない、さっぱり訳がわからない! が、何より奇怪で、何より不思議なのは、世の作者たちがこんなあられもない題材をよくも取りあげるということである。正直なところ、これはまったく不可解なことで、いわばちょうど……いや、どうしても、さっぱりわからない。第一こんなことを幾ら書いても、国家の利益には少しもならず、第二に……いや、第二にも矢張り利益にはならない。まったく何が何だか、さっぱりわたしにはわからない……。
 だが、まあ、それはそうとして、それもこれも、いや場合によってはそれ以上のことも、もちろん、許すことができるとして……実際、不合理というものはどこにもあり勝ちなことだから――だがそれにしても、よくよく考えて見ると、この事件全体には、実際、何かしらあるにはある。誰が何と言おうとも、こうした出来事は世の中にあり得るのだ――稀にではあるが、あることはあり得るのである。


――平井肇訳


スープから鼻が出てくるという劈頭部、鼻を捨てようとして警官に捕まる男、自分より身分の高い五等官になって思い人の家に行ったらしい鼻に対する感情、鼻を捜索しようと新聞広告を出そうするやりとり、突然鼻がある朝戻るところ、――すべての場面が完璧な出来だが、最後のナンセンス?な駄弁がすばらしい。最近読み直してみたら、ゴーゴリが小役人を単に馬鹿にしているのではなく、人間としてきちんと描いていることに気がついた。この作品でオペラを書いたショスタコービチが、「鼻をなくした人を馬鹿にするのは理解できない。こんな気の毒な人がいるだろうか」と言っていたのであるが、皮肉ではなかったのである。



一方で気になるのは、この二十年は役人がヒーローである作品も沢山あるということである。「ガンダム」あたりまでは、ヒーローがだいたい非正規の愚連隊だったが、「パトレイバー」は警視庁、「攻殻機動隊」もそうである。確かにアウトローみたいな人物たちが主人公なのだが、やはり公務員試験を受けた人たちなのだ。よくみてみると、ちゃんと決めぜりふで「真面目に生きろ」とか説教するパターンが多い。アトムの説教「きみはまちがってるよ」とは違う。間違っていようと正しかろうと、「真面目に生きろ」が公務員だ。上は最近読んだもので面白かったが、「死役所」という漫画である。この役場は、死んだあと、地獄や天国やらその他やらに行く手続きをとるところで、職員は、死刑になった人である。これは面白い設定である。役人というのは、ある種国家によって殺された人であるので、譬喩としてかなり正確なのであった。しかし、やっぱり役回りとしては閻魔様なのであり、第一巻の最後なんか、受付係は、五人の児童をひき殺し死刑になった青年の自慢話を遮り、「屑が」と一喝する。

要するに、われわれは銭形平次や遠山の金さんみたいなものがいまだに好きなのであって、人を裁きたくてしょうがないのである。自由を求めて自分を律するアウトローはいつも少数である。大概は、自由をもとめて自分以外の自由を縛りたいのが大多数である。公務員は、そんなリヴァイアサンの世界で秩序を維持する砦の役目を果たしていたはずであり、不可視のアウトローだったはずであるが、最近は……。どうなのであろう……。

「轉落する石」二つ

2019-01-11 19:03:50 | 文学


若山隆「ある兄弟の話」(『コギト』5)は、没落する「家」のなかでの兄弟の心理劇である。兄は気楽な学生をやっているふりをしながら自分を「轉落する石の一つ」とみている。で、高校受験を前にしている?弟を激励しようとする。「家」のためにも……。弟の方は、兄の学費捻出にも苦労してきた家のことを考え進学をあきらめている。弟は兄の心がわからず、本当にお気楽な学生だと思っているふしがないでもないが、兄の方も、弟が進学を断念しているところまでは分からない。

「上の学校なんか行かなくたつて、兄さんはそりや愉快に今の生活を送つたらいゝでせう。兄さんは僕よりも頭もいゝし、いゝ友達も沢山あるし……」
[…]
兄は弟の言葉の調子から鋭い皮肉をかぎつけた。


たぶん、この二人は学業になにかを見つけられなかったに違いない。何かを見つけられなかった連中が、家族や国を楯にして何かを見つけた連中の足を引っ張る。このような兄弟のいざこざは本当はどうでもいいのである。このような心理にとらわれると、本当は何が問題だったのか分からなくなる。

例えば、これが兄弟ではなく、韓国人と日本人という組み合わせだったらどうであろう。本当は、兄弟でも同じ事なはずだが、そういう対照性で考えた場合に問題が解けるような気がしてしまうのは危険である。その場合、こんどは自分たちの心理が分からなくなるのだ。


拘る思ひを、ぶち断らう

2019-01-10 19:56:26 | 文学


野上吉郎は、本名を石山直一といい、のちに倫理学の論文があったりして、クリスチャンらしい(田中克巳の『コギト』解説)が、このころは文学青年であった。彼が高校の社会の先生をやっていた頃の回想を読んだことがあり、そこでは案外、飄飄と過去を語っていたけれども、実際は結構なのめり込み方であったと思うのである。

相良という青年が、自殺した友達(小宮)の郷里を訪ねた顛末を描いた「夏」(『コギト』5)を読んだが、難解なところがあるけれども結構いい作品であった。大量の読書によって培われた、にじみ出る叙情性があって、この時期の保田與重郎なんかよりも成熟している気がする。これがよいこととは限らないのだが、結構上手だとおもった。

友人小宮は大望を抱いていたらしいのだが、田舎に帰った。父親が「村長にしてやる」と言ったとか。彼は子どもたちと凧を揚げたりして陽気に振る舞っていたが、冬のある日家を出てそのまま雪に埋もれて死んでいた。興味深いのは、相良というのは、小宮と一番の友達ではなく、彼の郷里に行くこと自体にある種の欺瞞を感じているということである。

俺は小宮に同情するより、彼にとつついた運命のどす黒さを憎む。相良は楡の梢に鳴つて居た爽かな風の音をもう一度聞いた。
 俺は、あの風の音に、声を合わせて歌ふことが出来る、他人の、どす黒い運命に拘る思ひを、ぶち断らう。夫れが小宮を忘れる事になると言ふのか。相良の心は明い真夏の光を憧れてゐた。


この小説では、屡々遠雷が鳴っていて、それが風とか田舎の太陽や蜥蜴なんかとパノラマをつくり、死んだ小宮の存在は人の記憶や思考にしかない。相良においては、乗合自動車の女車掌への気持ちが行きと帰りではやや変化するので、彼にとって重要なのは生なのだとわかるが、――それにしても、なんの解決ももたらさないこの風景のような小説は、ある種の誠実さのあらわれだ。この小説に使われた「風」や「凧」、あるいは「運命」の意味を示さないことは、我々の文化風土では一応勇気のいることなのである。芥川龍之介なんかは、混乱した風をみせてはいるが、晩年の保吉もので示されているのは、ある種言葉の「意味」への屈服なのである。後に続く青年たちは、一応、保田にしてもこの野上にしても、それに抵抗はしているのであった。

低徊の帰趨

2019-01-09 23:14:51 | 文学


薄井敏夫の「低徊」(『コギト』5・6)は、題名が重要である。中盤で、ダンスホールで教えている主人公・語り手の過去の病気、夢や自意識、果ては彼の父親が音楽志望に反対して彼を絶縁状態にしていることの説明を、兄からの手紙を引用して配置し、――前半と後半では、主人公がダンスホールでの会話文を中心とした躁的な落ち着かない場面を配す。全体の構成が、「低徊」になっているわけで、中盤の憂鬱を両側の会話の躁が相対化している。時子という女子への思慕も、中盤でやや深く描かれる(ただしなんとなく理由がよくわからんが……)が、両サイドではほとんど触れられず、むしろ気に入らない蟹崎というレコード係や、凌子というだらしなさそうな踊り手との会話、菓子や酒の描写、が中心である。最後の場面は、みんなで阿弥陀籤をやって買い出し係を決める話で、結局嫌われ者の蟹崎がなんとなく選ばれ、

突然、ホールでわつと歓声がおこつた。多くの人々にとりかこまれながら、蟹崎が得々と大きな菓子袋をかゝへてソファの所へ近づいて来た。


と物語はしめられるのである。

思うに、漱石の「低徊趣味」を措くとして、われわれにとっての低徊というのはこういうことになりがちであり、要するに気休めなのだ。わたくしは、戦時下のロマン主義にしても、文化政策にしても、こういう気休めをふざけずにただ真面目に語っているだけの側面がつよかったのではないかと思っている。われわれにとっての「日本」もそうで、真面目に語るにしてもふざけて語るにしても、奥に何かある(解釈できる)ような内実がない。実際、それはインテリのいつもの頭の悪さといって済ますにはもう少し文化論的に深刻なものだと思う。例えば、戦時下の神道論で有名な筧克彦の著作なんかを眺めると、彼はどこなくユーモアがある人物であり、ふざけつつ真面目にみたいなところがあるのである。彼の「一人の乞食でも之は即国家」みたいな言い方を想起すればよい。――最近読み直していないのでなんともいえないが、彼のような学者はいわゆる国粋主義的なマッチョな感じはしない。しかし、一見、そう思われるだけで、われわれが外国からの視点に頼らず、自分で自分の写った鏡をみてみると、案外筧みたいな表情をしているかもしれず、なんとなく和みそうなところが危険である。傍から見たらやはり危険な人間かもしれないからだ。私が、それに無理矢理な日本人の魂みたいなものを読み込むのはやめた方がいいと思うのは、もともと低徊みたいな精神の場所がわれわれの場合あるからで、――だからこそ、感情の維持を求めて危機に当たって同語反復などにいそしんだりするわけであろう……と。確かにわれわれがわれわれ自身の姿を解釈できなくなっているだけの可能性は高いのだが、――国文学の卒論を多く見てきた経験からすると、大学生の力がないだけ、の問題とはとても思えないのだ。

日本の近代文学は、鷗外や漱石以来、その低徊みたいなところにアイデンティティは可能なのか、追求してきたところがある。戦後も皮肉なことに「左翼」を中心として頑張った(未知なる「民衆」への期待があったからね……)のだが、――八十年代以降、お腹が膨れたこともあって、休憩していた。その代償は大きい。いま、自分の顔をながめてみても、おそらく何もねえぜ。しかしわれわれはそれに耐えられないだろう。

太刀と仙人掌

2019-01-08 20:07:37 | 文学


沖崎猷之介(中島栄次郎)の「怕死」(『コギト』昭7・7)は、さすがに中島だけあって集中力が高い表現が印象的である。

梶井基次郎の「檸檬」が孤独な肺病のモノローグ心理劇だとすれば、「怕死」は、兄弟が脚気と肺病を患っている意味で、対位法的である。しかも二人はノンポリとマルクス主義者である。だから、檸檬の代わりに、太刀と仙人掌がでてくる。兄が語り手で、左傾して逮捕されているうちに肺を患って死が近い弟(順)がいる。

「檸檬」のようなモダンさと爆発で事態を打開することはもはや許されていない。

――仙人掌は夕方見るのが一番だ、――[…]もう冬至に近いなあ、私はひとりごとのやうに言って振りむくと、硝子越しの薄暗い部屋に実に美しいほどの順の顔がかーんと冴えかえってゐた。その時突然順がぶるぶると肩を振はすのが見えた。私ははつとした。瞬間がばがばと真赤な血が、叩き落とされた花のやうにぱつと散つた。ああ、ああ、ああ、私は何の意味もない事を口走つて駆けよつた。


檸檬の代わりに人間の頭が冴え返っていて、それが血を吹き出す――ここで終われば、ある意味で「檸檬」と同じなのだが、このあと、語り手の頭には、母が治療費の捻出のために売ろうとしていた「きらきらする太刀」で満たされている。で語り手は「本当に自分の死を感じたのはちやうどその時である」と語り終えるのである。

死は死ではなく、死を感じることである。――そんなわけはない。しかし、国中が没落意識と自意識過剰な状態に陥ると、ものの形はうえのように「ぶるぶる」と震え出す。この状況を突破できるのは、ある種の馬鹿しかないのだが、馬鹿にもいろいろいて、本当に馬鹿なことをやってしまうこともある。我々は。自らのなかにそんなドラマを反芻することになるであろう。

ところで、昨日は、我が首相が珊瑚礁は移したとか言っていたのを受けて、珊瑚礁が美しく空を飛んでゆく夢を見ました。

蝶よ花よと

2019-01-07 23:36:16 | 文学


曾我純之輔の「蝶は何故花を訪れるのか」(『コギト』5)は、若者が右傾化しているだの、ゆとりはDakaraだめなんだとか、絶望している皆さんに読ませるべき小説である。昭和初期のエリート大学生も大概だったことが分かるからである。

蝶は昔、人間が洞穴に住んでいた頃、なんだか欲求不満であった。「地上の栄華」よりも「天界の光栄」に向かって飛躍しようと思い、百合の花よりも「天使の涼しき瞳」をみたかった。神に会ったなら死んでも惜しくないと思い、ある日思い切って天高く上昇してみたが、あるところまで来ると、羽根が凍って動かない。そして墜落。おちたところは出発点であった菫花の上であった。

さすが蝶のくせに神に会おうとする蝶である、ここで「やっぱりね」とか反省する御仁ではない。自分の無能力と天の高遠さへの執着の矛盾に悩み、病んでしまったのである(←おいっ

しかしここからがすごい。

蝶の窮地を菫花から聞いた世界の花たちは、精選された蜜を持ち寄って(←どうやって持ち寄ったのかっ)、薬酒を造って蝶に送ったが、蝶は自棄になるばかり。

そこで、智者である龍膽(りんどう)を慰問使として花たちは送った。で、その智者は「生きることに価値を置きすぎてはいけない。」とか言いだし、「すべての理想は虚無である」とか言うのであった。で、蝶はなんだか納得したので、感謝した。龍膽は、自分は花々の使者に過ぎぬから感謝は「花の眷属全体に送られるべき」とか言ったと……さ。

で、蝶は、花から花へと飛び回るようになったらしいのである。

糞食らえである。花たちは、蝶をつかって自分たちの子作りを頼んでいるだけではないか。まったくけしからん話である。蝶がせっかく形而上学に目覚めたのに、「見える化」大好きな下々の草どもが足を引っ張ったのである。龍膽が「生きることの価値」を否定したのに注意せよ。日本社会は、常に若者たちにそう言っているのである。

昨日、テレビで、予備校のなんとかいう先生が「やりたいことより出来ることをやれ」みたいな説教を、高学歴無職の青年たちに垂れていたが、……確かにこれも場合によっては有効な場合がある説教だが、大概、かかる説教は、自由人に対する嫉妬からくるものであり、上の龍膽みたいなものだ。だいたい、こういう説教には、「感謝の心」みたいなものがくっついて、――要するに、本質的には人生で何の成果も上げられず相手にされなくなったと感じている大人の権力意識の現れなのである。

若者は勝手に、舞い上がって墜落していればよいのである。そこに惚れる花たちもいるだろう。

追記)墜落ではなく、落第ならわたくしの授業でどうぞ。

非「何かと粉砕」教育論

2019-01-07 00:31:47 | 思想


中川文人と外山恒一の『ポスト学生運動史』を読んでて、一番面白かったのは、法政大学での「試験粉砕」というエピソードである。何回も書いてきたように、わたくしは不良学生の弾圧を使命とこころえている。初めて知ったが、法政大学では、「留年のピンチなんだ、試験をなんとか粉砕してくれ」と黒ヘルの連中に頼みに来るヘタレ学生がいたというのである。で、黒ががんばって暴れた結果、法政は試験ではなくレポートを課すという大学になったそうである。

わたくしの弾圧教員としての魂を揺さぶるエピソードである。

確か、昔、柄谷行人が法政で教えていた頃、学生のレポートをみて、彼らの「フィーリング」など糞役にたたん(←そうはいってないか)、感じることを考えなければとか、相変わらずのレトリカルな高尚さで閉めていた、――そんな文章を書いていたはずである。

柄谷先生は、学生に優しいですね……。弾圧渡邊は、そんなレポートこそ粉砕、いや添削して返却しているというのに。

法政では、総長や幹部を追及する集会(授業に侵入して質問するだけだが)をがんばって開いていたらしいのだが、柄谷先生も一度やられたことがあったらしい。柄谷先生に「こういうときにどうするのか」と問い詰められ、「こうこうです」と言うと、柄谷先生は「お前は頭がいい。なぜなら俺と同じ答えだからだ」と言って、黒ヘルたちを這いつくばらせていたそうである。さすがである。わたくしみたく、「お前は頭が悪い。なぜなら俺と違う答えだからだ」とばかり言っているのがだめなのはこれで明らかである。明日から実践してみよう。

乳房と血統

2019-01-06 22:55:04 | 文学
三崎皎とは、のちに俳諧研究者になる杉浦正一郎の筆名である。彼は『コギト』同人で、「開港紀」という連作を書いている。堀辰雄の初期の、港を舞台にした前衛的な「風景」なんかよりも好きだ。その一つである「高架線の記憶」は、プロレタリア文学に屡々見られる朝鮮人労働者の物語の一種である。語り手は、朝鮮労働者たちがつくった高架線を毎朝毎夕通勤につかっている「私」である。「高架線」は彼にとって「記憶のみち」といったものになっているのだが(すなわち、自意識でありファクトでもある事象にどう立ち向かうかという、昭和文学によくあるテーマである)、――なぜかというと、日本中を移動しながら働いているその労働者を父に持つ加代(母親に捨てられて朝鮮人夫婦に育てられた)という少女が、その高架線の開通式の列車に飛び込んで死んだからである。三崎は、死んだ少女の様子を――「ふっくらした乳房がしらじらと見えて居た」とか、頬のまるみに流れる血が「月光に照らされてひくひく動いて居る」とか描写しているのだが、それは意味があって、死の前から、彼女の乳房は時々来る父親からの朝鮮文字の刺々しさと対比されているものなのである。その描写は、生や性の表象であるとともに、朝鮮人との関係の表象なのである。

而して、この小説をコロニアリズムに関係づけて論じることは、小説のなかの記号をいろんな形で繋ぎあわせることで可能である。母親はどうやら日本人らしいしね……。彼女にとって父親がつくった高架線に飛び込むことは、父親への当てつけとも労働をさせている「日本」(の母親)に対する当てつけともとれる、ことになる。

が、わたくしは、むしろ、「乳房」の持つ意味に惹きつけられた。加代の「乳房」は「乳房」を持つ母から生まれ捨てられたことへの意味にさかのぼるものだ。――われわれはみな母親から生まれるのに、女の場合は再度母親になってしまう可能性がある。――父親への当てつけは、娘としてのそれでもあるし、妻としてのそれでもありえた、と読めるわけである。

対して、語り手の「私」は、まだ、乳房をおそらく性的なものとして見ている側面がある。彼としては朝鮮人への暴力性を、だからこそ高架線を使用する自分として性的に自覚しているのであろう。てな具合に、語り手の「私」の疎外感はロマンティズムを生むと同時に単に著しいともいえるわけで、その著しさを無視して「日本人=私」を批判しても意味がない。

差別の問題は、むろん、倫理の問題であるのだが、われわれが上のようなさまざまな意味と感情を乗り越えなくてはならないことを忘れてはならないと思う。近代の長い朝鮮半島との歴史の中では、そこここで、いろいろな事情が乗り越えられ挫折を強いられてきているのであって、われわれはそれを軽視して思い上がってはならないのである。



ところで、上の本の語り手の中川文人というのは、クラシック音楽評論で有名な中川右介の弟だそうだ。また、じいちゃんが、彰考書院をやってた人らしい。なんか、結局、左翼と保守の闘いが、源氏と平家の闘いみたいな血統の話になってきてていやだなあ……。とは思ったが、内容は面白い。八十年代以降、「1968年」の流出(絓秀実)の一端を知ることが出来る。昔からさんざ言われているように、運動が下火になってから真の抵抗運動は始まるのである。これは心がけの問題ではなく、単なる原理の問題である。

「問答師の憂鬱」の憂鬱

2019-01-05 23:49:40 | 文学


保田與重郎の若書きの小説「問答師の憂鬱」は昔読んだことがあったはずだが、今度読み直してみたらなかなか面白かったので反省した。昔読んだときは、渡辺和靖氏の97年の論文のように、のちの保田の評論のスタイルがもうあらわれているとしか思えなかったのである。和辻哲郎の『古寺巡礼』の影響とそれへの批判も、渡辺氏が言うように感じられたが、和辻のその本は――、ヘッセからマルクスへ、よくありがちな転回をしかかっていた中学生のわたくしに向かって、和辻の本を薦めてきた国語教員がいやで、真面目に読まなかった。で、あんまり比較しようとも思わなかったのである。

いま和辻を読んでみると、浄瑠璃寺の章で、その立地に感動し、自分はかつて桃源郷に住んでいた、われわれはかつて子どもだった、みたいなことを書いている彼は、かなりぶっ飛んでいる奴だと思うし、桃源郷を赤の広場に変えれば共産主義者になりそうな感じもあるっ。神社巡りをやってみてわかったが、和辻は知を扱う者として、何かわたくしとは全く違う、嫌らしい生々しい軸を持っているようだ。

保田は、和辻みたいな思い切った投身に抵抗する。彼は少年時代から慣れ親しんだ奈良を、病を得てうろつく。「安静と不安といり代わり襲ひかかつてきた。」ここで、梶井の「檸檬」みたいな劇的な展開に至らないのは、このあとすぐさま「冷静とさわやかさを生々と感じると、いつかその瞬間に、穴ぐらのような不安が追々とのしかかってきた」と最初の「安静と不安」という軸が流産して行ってしまうからである。彼の書きぶりは、いわば、ショスタコーヴィチの交響曲第4番の第3楽章のような、異なるテーマの走馬燈が統一性を持つかどうか、みたいな表現である。

主人公「僕」は、阿修羅像に作者・問答師の「憂鬱」を自分が見るということはどういうことか、最後までうじうじと考えている。主観と客観の対立を西田哲学やらマルクス主義、――保田が勉強したところでいえば「美学」や「美術史」が、巧妙に乗り越えてしまった。「僕」も作品を「享けいれるより、自分の気分の中で作品を素材として別の新しい作品を創り出そう」といったんは結論をだしてみる。しかし、彼は病気であり、「憂鬱の帰納にまよってしまう」。そこから、「社会の制約や因習」を考えはじめたり、――しかし疲れると、少年時代から思慕する叔母に関連させて「問答師の憂鬱」を「自分の憂鬱に浄化しようと企てゝいた」。ここで、小説の本文は終わりだが、このあと、附記があって、「興福寺濫觴記」が群書類従から書き抜かれて、なんだか学術的な考察までくっついている。

小林秀雄が「Xへの手紙」で言ったように、鏡の前でかっこつける世代がデビューしてくる時代なのであるが、確かに、この保田の浪漫主義的?逡巡も鏡の前でのポーズじみているといえばいえる。小林はあんまり若者たちの憂鬱に同情的とはおもえない人であるが、もう少し同情的であれば彼らが絶望を深めることもなかったような気がする。だいたい、戦争や結核であと数年しか生きられないかもしれないと思っている二十代の絶望を当時の年配の大人たちは舐めすぎなのである。

とはいえ、保田與重郎のむにゃむにゃした書き方は、わたくしは拒否したいところだ。彼は書いててよけい憂鬱になっているに違いないじゃないか。

「マサン」や「恋飛脚」の夢

2019-01-04 23:58:37 | 文学


今日は病院の待合で長い時間があったので、「雨あがり」「「マサン」の菓子」「ふたつの石」など、『コギト』所収の小説を読み飛ばした。「ふたつの石」だけが肥下恆夫のもので、あとの二つは松田明(「マサン」の菓子」のときの筆名は柊木一)である。

肥下は創作からいずれ遠ざかってしまう人だが、「ふたつの石」なんか結構面白い。最後の一段落は余分であるような気がしたが……。薄井敏夫の短篇もそうだが、彼らの小説は、いまだったら『ビックコミック』に載るような短篇の趣がある。ある意味で、このようなセンスは、戦後の「ちょっと品のいい文芸的娯楽作品」の系統にどこかで繋がっている気がする。保田とかがそういうものを抑圧していたのかもしれない。

松田明の二つの小説は、構造が似ていた。ブッキッシュな浪漫派がいるというより、浪漫派はブッキッシュであることが実感される。「「マサン」の菓子」というのキリシタン文書にでてくる智慧の実(リンゴ)のことであるが、これが物語上の事態を説明すると同時に現実離れ(ある種の救い?)をも起こすものとして機能し、「雨あがり」では、「冥途の飛脚」の歌舞伎版である「恋飛脚大和往来」がそうであった。

それにしても、えらく夢心地な知のありようである。文学部エリートの抵抗が「さぼってやるぜ」みたいなふわふわしたものになっていることが原因だったような気がする。昨日、高田里惠子氏の講演録「学校の勉強なんかしない : 男の特権?」を読んだからそう思ったのかもしれない。わたくしは勉強不足でしらなかったが、藤村操というのは、そういう「勉強なんかしない」といった態度の走りだったらしく、決して漱石に怒られて病んでしまった人ではなかったのだ(かどうかは分からんとは思うけど……)。哲学では、西田幾多郎とか田邊元の周囲を含めて大学で勉強する意味をちゃんとつくった。おそらく西田の経歴によるコンプレックスのパワーがそれを実現した。が、文学の場合はホントのエリート漱石なんかが大学を見捨てたせいで……。

つまり、われわれ文学の教師の使命は、学生が不良の志を秘めたガリ勉をしてくれるようにがんばることのように思われる。松田明みたいな小説を書いてきた学生がいたら訓詁注釈の訓練で再教育すべきだ。

――とか思っていたら、名前が呼ばれたので、いそいそと診察室に収容されるわたくしであった。

うばら、からたちにかかりて、家にきてうちふせり

2019-01-03 23:22:45 | 文学


男見えざりければ、女、男の家にいきてかいまみけるを、男ほのかに見て、

  百年に一年たらぬつくも髪われを恋ふらしおもかげに見ゆ

とて、いで立つけしきを見て、うばら、からたちにかかりて、家にきてうちふせり。


伊勢物語六十三段は後味の悪い話と解説されていることが多く、歳をかさねてくると余計そう感じる読者は多そうだ。好色な女が子ども三人を呼んで、夢の作り話で、いい男と出会いたいと間接的に頼むと、三男だけが業平に会わせようと計画して、たまたま遭った業平に頼み込む。業平さんはなんでもいいよの人なのか、あはれがって、相手にしてやった。しかしそれきりだったので、女は男をのぞきに行く。それが上の場面である。ここの場面はなかなかのもので、「つくも髪」がまぼろしに見えるよとうたって出で立つ男を見て、茨やカラタチのとげに刺さられながら帰宅してふとんの上で待っている女が人間の姿を感じさせる。われわれがいやな気持ちになるのはその人間の姿のせいである。このあと、女は無事男ともう一回共寝したらしいのだが、そこでナレーターが

この人は思ふをも、思はぬをも、けぢめ見せぬ心なむありける。


と訳わかんないことを言って締める。思うに、人の気持ちというのは文章に表せてしまうほどの何よりもよりも大きく、上の茨にまみれて帰宅する女の姿のようなものである。われわれのなかには「気持ちにより添う」とか、「なんとか目線」とかのフィクションでしか心の問題を耐ええない人がある。近代文学に描かれてきたように、親子の関係だって、お互いの心理が見える関係の方が、大きな誤解があるときよりも危険である。そもそも心理は言葉では代替できないものだからである。歳を重ねてくるとたぶん、そういう自明のことを忘れがちであり、自分の人生の業績だけが自分にのし掛かってくる。われわれが記憶とか業績みたいなものが好きなのは、それが言葉であるにもかかわらず、背後にあるものが大きすぎて心理的なものに見えるからでもあろうし、量というのはそれだけで現在の具体的な心理に対して圧倒する何かを感じさせるからである。

上の話の場合、女が自分の欲望を自分の子に託したのがすごく背後の心理の存在を感じさせている。これは、女の、子に対する何かの当てつけだったのかもしれない。だから、語り手は女を茨まみれにしたりして酷い仕打ちをしたのではなかろうか。わたくしの妄想だが、この過程では――心理の内容と質の問題が、内容量の問題にすり替わってしまった後なので、ほんとうの問題が何だったのか分からなくなってしまっている。ハラスメントの発生である。日本のよくある「報恩」もそうやって、だいたい悲惨な結末を迎える。

親は子どもに言葉がない頃から自分の心理を見つめて生きている。この理不尽な非対称性が悲劇を生む。親子関係とは、親の圧倒的な心理問題として存在している。子どもははじめから敗戦を宿命づけられている。大概は、子が子であることをやめることで(――だいたいは親になることによって)それを乗り越えたふりをする。ただ、特に最近は、社会が人を孤立した大人になることを許さず、比喩的な「子」であることを要求する。また、親になることは、子どものためにより社会への馴致を要求されることになりがちである。とにかく、子育てとは、日本の社会的制度の復習以外の何物でもない。教員がいつの間にかものすごく道徳心を持った人物として自分を誤認しがちなのはそのせいである。

われわれは、個人であろうとすれば、親になるしかなく、しかし親になることによって個人ではいられなくなるジレンマのなかにある。大変に暴力的な事態だとわたくしは思う。一番いいのは、親になったあと、出家してしまうことであるが、こんなことを出来るのはほんの一握りの人物である。