★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

心ちも老い過ぎて

2020-06-08 21:53:56 | 文学


けふは二十三日。まだ格子は上げぬ程に、在る人、起き始めて、妻戸おしあけて、「雪こそ降りたりけれ」といふ程に、鶯の初声したれど、ことしも、まいて心ちも老い過ぎて、例のかひなき独りごとも覚えざりけり。

兼家は大納言に昇進。蜻蛉さんは心が老いる。心が老いると「かひなき独りごと」、つまり歌もなんも出てこない。本当にそうであろう。身体というよりも心が老いたら我々は危機である。しかし、ボンクラは全く空気が読めてない。

又の日ばかり、「などか『いかに』といふまじき。よろこびのかひなくなむ」などあり。

次の日頃、あの人から「なんで『どれほどお喜びでしょうか』と言わないのです。昇進のかいもないですよ」と。

GO TO TRAVEL

心が老いた人が再び若返るのは如何にしてか。鈴木大拙の『神秘主義』の「マイスターエックハルトと仏教」には、最後に羅漢和尚がはじめて太陽が丸いことに気付いたという偈が引用されている。幼児の如くあればそれは見えない。心が老いたら何も見えない。幼児か老人かみたいなのが現世だとすれば、やはりそこから出ることが必要だったのかも知れない。

鬼の後の雪

2020-06-07 17:47:42 | 文学


忌みの所になむ夜ごとに、と告ぐる人あれば、心安からであり経るに、月日は、さながら、「鬼やらひ来ぬる」とあれば、あさましあさましと思ひ果つるもいみじきに、人は、童・大人ともいはず、「儺やらふ儺やらふ」と騒ぎののしるを、われのみのどかにて見聞けば、ことしも心ちよげならむ所の限りせまほしげなるわざにぞ見えける。「雪なむ、いみじう降る」といふなり。年の終はりには、何事につけても、思ひ残さざりけむかし。


鬼は外、の行事は昔は年末に行われていた。なんだか今もそうした方がいいような気がする。宴会なんか、よけい胃がもたれて疲れがたまる。どうしていろいろと整理整頓すべき年末に、余計なものを背負うのか。思うに、正月休みも仕事を忘れるなみたいなプレッシャーをかけるために宴会をやってる気さえする。そして、上の蜻蛉さんのように、馬鹿騒ぎは疎外感を作り出す(心ちよげならむ所の限りせまほしげなるわざにぞ見えける)。鬼は外であればまだ運動性が見えてうきうきもしようが、宴会にはものすごく運動性というものがなく、鬼たちが鍋を囲んで穴を掘っているようである。いや、鍋が穴なのだ。

どうも私たちの文化の底には、鍋が大好きな精神というものがあって、我々はその中で煮られて喜んでいる気がする。縄文土器をみるとそんな風に思うねえ……

というのはともかく、蜻蛉さんが、この馬鹿騒ぎのあとに、雪の場面を置いているのはさすがである。水に流すというか、雪に流すというか、そんな風景につづいて、年の終わりには何事も思い残すことのないようにありたいものだったナアと思いが逆流する。

 満潮になると河は膨れて逆流した。測候所のシグナルが平和な風速を示して塔の上へ昇っていった。海関の尖塔が夜霧の中で煙り始めた。突堤に積み上げられた樽の上で、苦力たちが湿って来た。鈍重な波のまにまに、破れた黒い帆が傾いてぎしぎし動き出した。白皙明敏な中古代の勇士のような顔をしている参木は、街を廻ってバンドまで帰って来た。波打際のベンチにはロシヤ人の疲れた春婦たちが並んでいた。彼女らの黙々とした瞳の前で、潮に逆らった舢舨の青いランプがはてしなく廻っている。
「あんた、急ぐの。」


――横光利一「上海」


横光は、外界を観ることに集中すべきだと思っていたと書いているけれども、もうすでにこれは内界のような気がする。外界を観ているという前提なんかは常に立てないものであろう。蜻蛉さんだったら、鬼が自分の内部にあるように。しかしまあ、その内部であり外部であるような分析をすればよいのかもしれず、これからはそんな時代が来るといいなとわたくしなんかは考えている。

偽装されたモノの世界

2020-06-06 23:42:14 | 文学


山籠りの後は、あまがへるといふ名を付けられたりければ、かくものしけり、「こなたざまならでは、方も」などけしくて、
  大葉子の神の助やなかりけむちぎりしことをおもひかへるは
とやうにて、例の日過ぎてつごもりになりにたり。


尼になりそこなった人を雨蛙と言ってしまうセンスがいやなものだ。雨蛙そのものに対する愛がない。これは勢い、自分の社会に対する愛が欠如していることを意味するのではないかと思うのだ。「ごんぎつね」から読み取るべきなのは、我々の村的社会に対する絶望である。きつねは兵十と似ているわけで、彼らを同時に許してしまいもする読者というのは、もはや、人間にも動物にも倫理的に向き合おうとする気力がない。で、「S=カルマ氏の犯罪」ではないが、捨てられたモノの逆襲などが、「付喪神」よろしくはじまったりもするわけであるが、だいたいそれらは自虐的というか、ユーモラスなものとしてあらわれている。わたくしは専門上、花●×輝の「室町小説集」などから付喪神のことを知ったが、――むろん、そんなものに注目するのは花×なりの絶望があると理解しなければならない。大葉子を被せると蛙が生き返ったりする訳はない、蜻蛉さんだってそれは本当はよく知っているはずだ。ただ、絶望の中でそんな世界をいじくって見せているのであった。

どうもこういう意識の中の病が昂じると、ついには「言霊」とか言い出す人間がでてくるのではないかとわたくしは想像する。

尾形弘紀氏も今回の『現代思想』の論文で、「アニミズムの偽装」について語っていたが、わたくしも、芸術に於いてはそういう偽装があり得ると思うのである。やはり尾形氏も花×を引いていた。

むろん、わたくしは、直感的にではあるが、偽装ではない事態を考えないと理解できないものも世の中多いとは思っている。

動物の生態を研究してゐる学者は案外簡単な説明を下すかも知れない。赤蛙の現実の生活的必要といふことから卑近な説明をするかも知れない。その説明は種明しに類するものかも知れない。そして力に余る困難に挑むことそれ自体が赤蛙の目的意志ででもあるかに考へてゐるやうな、私の迂愚を嗤ふであらう。私はしかし必ずさうだといふのではない。動物学者の説明の通りであつてもいい。だが蛙の如き小動物からさへああいふ深い感じを受けたといふその事、あの深い感じそのものは、学者のどのやうな説明を以てしてもおそらく尽すことは出来ぬのである。

――島木健作「赤蛙」


もしかしたら、本格的なアニミズムへの根拠を我々は科学というものが存在しているという確かさによって逆に与えられているのかもしれない。今回のコロナ騒ぎも、科学的な事象のくせに目に見えず、――ということは本当はあるかどうか我々が確認出来ないことを示しているはずが、その逆に、確かなことが存在し我々がそれへの対処を確かなものとして信仰を生成したがる事態を表面化させているが、これがコロナではなく、鬼とか何かであってもそれに対する信仰は不可避なのかも知れない。島木健作のこの遺作は感動的な感じがするが、彼の頭にあるのは、官憲その他によってぼろ雑巾のようにされた彼の人生という、動かし難くモノのようなファクトであって、感情は死んでいる。わたくしは、彼が若い頃書いたもののほうが感情そのものがあったような気がするのである。

涙の行方――絶望の循環器

2020-06-05 23:33:55 | 文学


「こぞも試みむとていみじげにて詣でたりしに、石山の御心をまづ見果てゝ、春つ方さも物せむ。そもそもさまでやは。猶うくて命あらむ」など、心細うていはる。
  袖ひづる時をだにこそなげきしか身さへ時雨のふりも行くかな
すべて世にふる事、かひなくあぢきなき心ちいとする頃なり。


袖いづる……の歌はなかなか良い歌だと私は思う。自分の体さえ時雨に濡れている、これが生きることがすべて「かひなくあぢきなき心ち」を導く。腹が減って雨にぬれた時に感じる絶望感は、雨から逃れればよいのだが、蜻蛉さんの雨は自分から常にわき出してしまうもので自分が亡くなってしまわなければなくならないのだ。もはや、ボンクラが冷たいことなんかはどうでもよく、蜻蛉さんは絶望の循環器みたいな存在になっているわけであった。

三、仕事着
 勞働の種類及び態樣の、如何に變つて來たかは仕事着からも見て行かれる。それが又今日の普通のキモノと大いに變つて居る點でもある。
四、筒袖と卷袖
 この以前にもう一つ廣袖の半袖があつた。それが筒となり次にモヂリとなつたのには、我々の生き方の發達が原因をなして居る。古い仕事着の形も現在はまだ根こそぎには無くなつて居ない。
五、袖無しと背負ひ
 この古くからあつた衣服を、色々と工夫し改良して來た歴史は、細かく各地の例を比較して行くとやゝ明かになる。


――柳田國男「服装語彙分類案」


わたくし自身は半纏や甚兵衛が好きなので――なんとなくであるが、袖の形態が涙の行方に大いに関係あるような気がしているのである。袖の中は余りよく見えない。広がっている割には余り見えない。こんなところに涙が落ち込んで池をつくったりするわけであるから、そりゃ絶望や悲しみが得体の知れない感じになるのも分かる気がするのだ。

法外さと微妙さ

2020-06-03 23:31:52 | 文学


心ちも苦しければ、几帳へだててうち臥す所に、ここにある人ひやうと寄りきて言ふ。「撫子の種とらんとしはべりしかど、根もなくなりにけり。呉竹も一すぢ倒れてはべりし、つくろはせしかど」など言ふ。ただ今言はでもありぬべきことかなと思へば、いらへもせであるに、眠るかと思ひし人いとよく聞きつけて、この一つ車にて物しつる人の障子をへだててあるに、「聞い給ふや、ここにことあり。この世をそむきて家を出でて菩提を求むる人に、只今ここなる人々が言ふを聞けば、”撫子は撫で生したりや、呉竹は立てたりや”とは言ふ物か」と語れば、聞く人いみじう笑ふ。あさましうをかしけれど、露ばかり笑ふけしきも見せず。

ここでは、ボンクラが妹を笑わせ、蜻蛉さんも笑いをこらえているのだが、――つまりボンクラは気分を害している蜻蛉にもある程度面白いことを言ってしまえるセンスのある人物なのだが、こういう能力が、繊細である証拠とはならない。世の中には、空気が読めないという説明では説明がつかない、文脈が読めない、常に的が外れている人間というものがいるもので、それが甚だしい場合は「おバカ」で済むが、高学歴であったり結構な頭脳を備えているにもかかわらず、すべて言っていることが微妙に的外れで、それが常にそうなので、もしかしたら権力意識に基づくやっかいなものなのかどうかと疑われるが、どうもよくわからん微妙に判断が難しい人間というのがいて、これは非常にやっかいなのだ。わたくしの経験では、役場や大学にはこういう人間が結構いて、周りの人間にストレスを与えている。アイロニーがほとんど分からないのが特徴なので、問題がある場合にははっきり言わなければならないのだが、それは人格攻撃ととられる可能性がある。ハラスメントについての議論が深まるのはいいことだと思うが、このような場合の厄介さはほとんど問題になっていないように思われる。いま、首相をはじめ、なぜこういう人物がトップに立ってしまうのか、という社会問題がそこここで起こっているが、――要するに、上のような厄介さを気にしないタイプでないと、気がおかしくなってしまうから、という原因があるのだ。上の微妙なおかしな人のケアにまわる人間は、ケアだけで精一杯で組織全体を構想するところまでいかなくなってしまうのである。そこで登場するのが、別の意味でのおかしなタイプであり、微妙ではなく法外におかしなタイプなのである。これは法外なので、そのケア専門になって疲弊している人々にとっては「あいつはバカだな」というはっきりした態度でのぞめるから逆に楽なのだ。

ボンクラは果たして法外なのか微妙なのか。分からない。恋は蜻蛉さんの頭をおかしくさせているので、彼女に判断は難しくなっている。関わり合うのがいやでも恋がそれを邪魔する。

清少納言が、なでしこ、唐のは更なり大和もいとをかしといふた通り、ナデシコは野山に自生多いから大和撫子、石竹は支那から入たゆゑカラナデシコといふ。金源三の歌に「もろこしの唐くれなゐにさきにけり、わが日の本の大和撫子」。これ近代の秀歌なれば、定家卿が新勅撰集を編む時、我日本とはこの輩の口にすべきでない、この日本と直さば入れようといふと、一字でも直されてはいけない、且つ日本人はみな皇民なれば天子を我君といふ、この国に生れて我日本といはん事、其人を差別すべきでないといひ張つて、直さず入れられなんだとは余程えらい。無闇にデモクラなど説く輩、わが日本に生れてこんな故事に盲らで外国の受売りのみするは、片腹どころか両腹痛いとこゝに書くと、二た月も立たぬ内に、きつとわが物顔に「金源三の平等観」など題して書立つる者が出る筈、それは盲が窃盗を働らくのだ。

――南方熊楠「きのふけいふの草花」


確かなのは、こういう法外なことは微妙な人は書かない、ということだ。

いひも果てぬに、立ち走りて

2020-06-02 20:07:51 | 文学


[…]いかに大夫、かくてのみあるをばいかゞ思ふ」と問へば、「いと苦しう侍れどいかゞは」とうちうつぶして居たれば、「あはれ」とうちいひいひて、「さらばともかくも、きむぢが心、出で給ひぬべくは、車寄せさせよ」といひも果てぬに、立ち走りて散りかひたる物ども唯取りに包み、袋に入るべきは入れて車どもに皆入れさせ、引きたるぜさうなども放ち、たてたる者ども、みしみしと取り拂ふ。ふり拂ふに、こゝちはあきれて、あれか人かにてあれば、人は目をくはせつつ、いとよくゑみて、まぼり居たるべし。


ボンクラは卑怯にもまたしても道綱を使い「こんな生活をどう思うかね」と聞き、道綱が「苦しいですが、仕方ありませぬ」と答えさせる。無論、父と母の板挟みに絶えるだけの根性はなし、かかる状況に、最終的には、体が反応してしまうことはボンクラにとって、コミュニケーション能力上自明である。我々は意識で動いているわけではなく、自然な働きに頭脳が逆らうとうつ病になってしまう。道綱は、母みたいに言語で自分を縛ることなどできない。で、いきなり、ばたばたみしみしと片付けを始めてしまうのである。蜻蛉さんは呆然ととする。してやったりのボンクラ。

菊池寛の「マスク」という作品は、たぶんスペイン風邪の頃のことを描いた作品である。主人公は太っていて内臓も心臓も「弱い」。医者にかかったら「脈が弱」かった。彼は「これほど弱いとは思わなかった」と思う。結局、それから流行性感冒がはやりだし、彼は死を覚悟する。だから彼は一生懸命うがいとかマスクをつけるなどする。やや流行がおさまっても彼はマスクを付け続ける。そのとき、「文明人としての勇気だ」とかなんとか言いつつ周りの目を撥ね付けていた。停車場で黒いマスクを付けている人なんかに出会ったときには、文明人として同士かと思う。しかし、四月以降、蒸し暑くなって彼はマスクを付けるのをやめてしまう。「四月も五月にもなって、まだ充分に感冒の脅威から、抜け切らないと云ふことが、堪らなく不愉快だった」。「時候の力」とかいいつつ、彼は自分を「勇気づける」。そんなとき日米野球が行われ、彼も観に行ったところ、ある若者が黒色のマスクを付けていてショックを受ける。「醜くさ」さえ感じる。彼は、感冒の脅威をいまさら想起させられた不快さ、自分がマスクを付けないようになったらマスクを付けている奴が不快に見えた「自己本位」を感じながら、こう思う。

「不快に思ったのは、強者に対する弱者の反感ではなかったか。[…]自分が世間や時候の手前、やり兼ねて居ることを、此の青年は勇敢にやって居るのだと思った。


彼が気にしているのは、一貫して自分の「弱さ」を克服して強くなることなのであり、しかも、それが体の「弱さ」に対する認識からはじまったことを、忘れているのかも知れない。なにしろ、暑いからマスクをとったことさえ忘れているのだ。彼を動かしているのは意識なのか、無意識なのか、それとも身体なのか?

インテリの中には、こういうことに無頓着なものがかなりおり、自らの「強さ」への欲望を対象化していない。これは危険である。しかし、だからといって、弱さにいなおるのは「文明人」でなくなることである。つい、この「文明人」に感情的な反発を覚えがちなのであるが、やはり野蛮なものは野蛮なのだ。

たたかう音楽

2020-06-01 23:27:58 | 文学


高橋悠治氏の『たたかう音楽』を読む。漱石の小説に、その小説に沿った読み方があるように、こういう書物にも読み方というものがある。我々はわかりやすすぎると思うものに対しては読み方を知らないだけだという――わたくしの経験から言えることだ。クセナキスの音楽を弾きこなす知性が文章のどこかにないとは言い切れまい。わたくしはいつも書いたものの肉体というか、無意識に接近してから、テクストに回帰してくるべきだと思っているのだ。