★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

実相の崩壊――「方丈記」の結末

2021-02-13 22:48:26 | 文学


静かなる暁、このことわりを思ひつづけて、みづから心に問ひていはく、世を遁れて山林に交るは、心ををさめて道を行はむとなり、しかるを汝、すがたは聖人にて、心は濁りに染めり、栖はすなはち浄名居士の跡をけがせりといへども、たもつところはわづかに周利槃特が行にだに及ばず、もしこれ貧賤の報のみづから悩ますか、はたまた妄心のいたりて狂せるか。そのとき心さらに答ふる事なし。ただかたはらに舌根をやとひて、不請阿弥陀仏両三遍申してやみぬ。


最後まで悟りとは縁遠い長明である。ゆく河の流れは絶えずして云々みたいな言いぐさが、実のところ、孤独に頑張ってみているのだがまったく悟る気配がないどうにも無策な男から吐かれたということを、もっとちゃんと教育現場はおしえなくてはならぬ。無常観は無力感の言い換えの側面が強いに決まっているのである。あたかも無常観が立派な哲学であるかのように語ってきているのはあまりにもまずい。長明に比べれば、平安の女たちの日記の方が100倍悟っている。あるいは、光源氏なんか、死んだときに姿が見えぬ、まさに泡沫化している。これにくらべると長明は自分を空しいとは全く思っていない。

で、彼の意識とは無関係に、結局「不請」(願ってもいないのにしらんうちに)口をついてでたのである――阿弥陀仏。

仏は我の舌に有り、というべきか。漱石の猫もいざとなったら南無阿弥陀仏とやっていた。仏は猫舌にもあり。

私はその生活原理を何で決めるかと言えば念仏申さるるように生きるということによって定める。いろいろなことを知っていながら、いろいろな出来事がありながら、それを総括する根本原理は常に念仏申さるるように生きるそれが南無阿弥陀仏の信仰である。念仏申さるるように生きることそのことが真宗信仰の生活である。これはいいか、これは間違いではないか、という生活は不安であり、同時に元気がない。ところが念仏申さるるように生きると元気が出る。[…]たとえば私が道を歩いていたら魚の頭がころがっていて、そこへ蠅がブーンと飛んで来たとする。その魚はかつては海で泳いでいたものを、漁師がとって、そして人がそれを買ってお蔬菜にして食って、その頭を捨てた。そこへ青蠅が飛んで来て食っているのである。その事実を見て、それがいいとか悪いとか考えずに事実を事実として感じたところが実相である。人生もまたこうして出来ているものである。

――倉田百三「念仏と生活」


考えてみると、倉田百三の方が説明はちゃんとしているように見えて、これもまた生悟りなのだ。ここからみると、長明は、人が災害によって心をなくして了う様を、――ひいては自分の心も普通ではなかったことをずっと示唆してきたような気がするのである。そんな状態では、人の心は倉田のいうような「実相」に止まっていることは出来ない。実相は、勢い災害の時のように崩壊し炎上していってしまうのである。我が国は定期的に、そのような実相の崩壊を経験してきている。長明の「河の流れ」というのは本当そんなものの心象ではなかろうか。おそらく、彼が周囲の物を省き人から離れたのは、実相の変容というやつの恐ろしさを骨の随まで経験したからに相違ない。それを経験した人間は、目の前から物を遠ざけ、静かに死んでゆくしかない。長明は本当はそう言いたかったのではあるまいか。

三界の足枷?

2021-02-12 23:07:36 | 文学


それ、三界は、ただ心ひとつなり。心、もし、やすからずば、象馬七珍もよしなく、宮殿樓閣ものぞみなし。今、さびしきすまひ、一間の庵、みづから、これを愛す。おのづから都に出でて、身の乞がいとなれることを恥づといへども、帰りて、ここに居る時は、他の俗塵にはする事をあはれむ。もし、人、このいへることを疑はば、魚と鳥との有様を見よ。魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林をねがふ。鳥にあらざれば、その心を知らず。閑居の気味もまた同じ。住まずして、誰か悟らむ。

わたしは、無常何とかみたいな説教よりも「魚と鳥との有様を見よ。魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林をねがふ。鳥にあらざれば、その心を知らず。閑居の気味もまた同じ」といった指摘に、この作者の本領をみる。長明も魚や鳥ではない。だからその心持ちは分からない。だから皆さんはおれの気持ちもわかんないだろ、という論法である。ただ、おれの気分は環境が違うおまえらには分からないと言っているのではない。私は魚や鳥みたいなものだよ、と言って居るのである。

鳥や魚だって三界の外に出ているわけじゃないのだが、水に飽きない状態や、林を望んだりする状態が――無色界ともちがった境地として夢みられている。

思うに、長明は「子は三界の首枷」みたいなものを嫌って、「無常は三界の首枷」のような状態にあるのではなかろうか。どうも、作品のなかのいらいらした感じがそう思わせる。

「このごろはよくむかしのことを思いだす。よくあばれたからネ。海の底へ三界万霊塔を据えつけたなんてえのは、おれたちぐらいのもんだろう」
「なにをいいだすつもりなんだ」
「まあ、これを見てくれということさ」
 戸田が上着の胸裏を返してみせた。二寸ほどの幅の白い布を縫いつけ、住所と名が楷書で書きつけてあった。
「なんだい、それは」
「これは迷子札よ。いつどこでぶッくらけえっても、死骸だけはジープにも轢かれずに戻って来るようにというわけ。人間もこうなっちゃおしまいだ。おい、なにか出さないか」


――久生十蘭「三界万霊塔」


よくわからんが、災害と人間関係でノイローゼになっている長明が、むしろ悲惨な人間状況から疎外されていた可能性を、近代文学を読むと感じられるのである。近代は、その疎外を一生懸命解こうとした文学を生み出した。どうも20世紀の悲惨さは、そういうパンドラの箱を常に開け続けた結果とも言えなくはないのだ。

2021-02-11 23:22:03 | ニュース


Mをはじめとする政治家から感じられるのは封建的家制度の残滓ではなく、現代的なミソジニーという感じである。例えば竹下登なんかは若い頃、家父長制度の恐ろしさを父親に苛められた妻の自殺とか何やらで思い知っていたはずだ。それに比べてそのほんとのおそろしさなんかを知らないから逆に「話が長い」とか言ってしまうのだ。

彼らは、現代的なミソジニー(これは決して意識ではなく「制度」である)を生きているにもかかわらず、根本的に男女の関係について観念的な把握しかない。戦争を知らない世代が、一発撃ったら何が起こるかを想像できないように、家制度のしでかした数々の殺人を忘れてしまい、男らしさとか責任について考えている。政治家のくせに、意識とそれが制度化されたときの弊害について思考していない。

リベラルはリベラルで、エリート主義とか特権意識みたいな説明で人間を批判するが、そんなもんで人間の意識が説明できるか。できない。確かに、現代は、根本的な馬鹿に対して、学歴や業績や地位といったアクセサリーで勘違いを起こさせることばかり一生懸命制度化してきてしまった。まさしく平等化の奇形的な暴走である。しかし、かれらの意識はもっと複雑な葛藤の中にいるので、その自己欺瞞自体を批判してもなんともならない。

曲がりなりにもデモクラシーの制度が作動している限り、権力が下に向かって力をいろいろな意味で行使するという構図だけでなくて、権力が下を模倣するということも考えとかなければならない。明らかなハラスメントとして顕れる以前から、いろいろな相互作用があるのが当然であり、我々の意識はその相互作用のなかにある。作用が少なくとも固定化しないような制度設計をすることは大事なんだが、ただ作用を自由に作動させておくばかりでは、パワーを誇示する輩が意識を一部の作用で塗り固めて勝つだけだ。だから、デモクラシー下では、主体の自由を許容する「支援」より以前に「教育」が必要なのである。

例えば、教師が生徒を模倣するということがあるし、むろんその逆もある。学級経営なんかはその相互作用が力の行使として変に暴走しないように教師も生徒も気を遣っている。その場合、教師が知と権力を持っていることによって、より重大なことが起きるのを防いでいるのである。谷崎の「小さな王国」みたいに、教師と生徒の力の逆転が貨幣(この場合は偽金だが)を起きることがあり、レーニンの「帝国主義戦争を内乱へ」みたいな発想が出てくるけれども、やっぱり、力の方向が切り替わっているだけの場合は危険だ。僭主政治みたいなものの誕生はもっとひどい力の作用を生み出してしまう。人間関係は、そういうオセロみたいなものではなく、もっと複雑な相互作用をみとめることでなければならない。

家父長制云々は勉強していないからよく分からないが、どちらの両親が同居しているかによって状況が一変したりすることがある。あるいはどちらの実家が近いかでもよい。問題は権力を自ら生み出しているのではなく「笠に着る」みたいなありかたの方が本質的に問題なのである。制度はそのあり方を容易にしてしまう。一方で、現代では、自分が家の中で一番頭がよいと思っていて、親や兄妹の行動にケチをつけつづけることでアインデティティを形成してきている人間も男女問わず最近は多くて、結婚しても自分が王様でないと耐えられない。これだって、その人が男であった場合は容易にミソジニーの発生を促すのである。

森問題が男女差別の問題に限られてしまうのはそもそもよくない。それはオリンピックに主体的に参画しようとしていた聖火ランナーやボランティアの人間の意識のありかたにまで向けられるべきだ。私は、そもそも聖火ランナーをやる人の気持ちがまったく理解できないが、わたしなんか重たい松明でバランスを崩してこけたついでにその火が群衆に乗り移り大惨事に、みたいな想像をしてしまうのだ。私は、義仲祭りだか松明祭りで火が山の木に燃え移ってみたいな(空想かも知れない)事件しか記憶にないからだ。荒唐無稽かも知れないが、聖火ランナーやボランティアに、そんな滅茶苦茶なことを想像してぼんやりしている自由はない。これこそがオリンピックによる自由の制限=動員なのである。森や小池だってある意味でその犠牲者といって差し支えない。

これは大人の常識だと思うが、政治家でも学生でも学者でも失礼な態度をとるやつっていうのは謙譲の美徳が欠けているからそうなるのではなく、無責任だからなのである。他人を処世のために使用するからなのである。MとかAとかが責任を権力と相即するほど負っているのであれば、多少威張ってても気にならないが、そうではない。こういう人間は敬語の使用法に熟達しても、行動自体によって周囲に責任を負わせ続ける。こういうタイプが処世のために「頑張る」。その「頑張り」自体は無視できないので、上がそいつを引きあげてますます頑張らす。そうやって、出来上がっているのがいまの一部の管理職たちなのだ。あまりに目に付くので、たぶん一般的な現象ではないかと疑われる。

だから、――Mさんは自分には頑張りが足りなかったと思っているのではないか。だから自分の面白おじさんみたいなキャラクターを切り落としたまずい意味で真面目な川淵を後釜に据えようとする。

根本的に、その頑張り=処世とは自分のためのそれで、祖国とか人類のためのものではない。だいたい、Mとかの発言には、「日本の女」という限定もなかった。つまりこの人には、祖国への愛憎といったものを含んだナショナリズムすらない。きわめて、現代的だと思う。ナショナリズムは、罪と罰に引き裂かれる自己の解体を必要とする。本当はリベラリズムだってそれが必要なのだ。

寄居虫的

2021-02-07 23:19:51 | 文学


 おほかた、この所に住み始めし時は、あからさまと思ひしかども、今すでに、五年を経たり、仮の庵も、やゝふるさととなりて、軒には朽葉深く、土居には苔むせり。おのづから、事の便りに、都を聞けば、この山にこもり居て後、やんごとなき人のかくれ給へるも、あまた聞こゆ。まして、その数ならぬ類、尽くしてこれを知るべからず。たびたびの炎上にほろびたる家、またいくそばくぞ。たゞ仮の庵のみ、のどけくして恐れなし。程狹しといへども、夜臥す床あり、昼居る座あり。一身をやどすに、不足なし。寄居虫は、小さき貝をこのむ。これ、事知れるによりてなり。みさごは、荒磯に居る。すなはち、人を恐るゝが故なり。我またかくの如し。事を知り、世を知れれば、願はず、走らず。たゞ靜かなるを望みとし、愁へなきを楽しみとす。すべて世の人の住家をつくるならひ、必ずしも、事の為にせず。或は、妻子・眷屬のためにつくり、或は、親昵・朋友のためにつくる。あるは、主君・師匠、および財宝・馬牛のためにさへ、これをつくる。われ今、身のためにむすべり。人のためにつくらず。ゆゑ如何となれば、今の世のならひ、この身のありさま、ともなふべき人もなく、たのむべき奴もなし。たとひ、広くつくれりとも、誰をやどし、誰をかすえん。

「寄居虫は、小さき貝をこのむ。これ、事知れるによりてなり。みさごは、荒磯に居る。すなはち、人を恐るゝが故なり。我またかくの如し。事を知り、世を知れれば、願はず、走らず。たゞ靜かなるを望みとし、愁へなきを楽しみとす」という理屈は変にみえる。普通は、欲張って願ったり冨を追いかけたりすることと、危険をさけることは、どちらもある程度の妥協をもってなすべきことであり、優先順位をつけられないからだ。長明の卓見は、――安全を優先して、欲望関係はすてる「べき」と言っているのである。寄居虫(ヤドカリ)でさえ知っているのに、都の大衆ときたらそれ以下なのだ。問題は、宿以外の物を身につけているから欲望やなにやらが発生してしまう事情である。それを捨てればいいではないか、えっ?何故って、「今の世のならひ」だしね……。

こんな世の中で家族をもって自らを危険にさらすより、寄居虫になって山に逃げるよ、わしは……という訳である。

なるほど、今の世の中も全体として無常としかいいようがないので、リスクの点から家族を持たない人が増えているのかも知れない。

むろん、よくある自己合理化である可能性は高い。そういえば、以前ホリ★モンという一種の寄居虫が「世の中が無常であるのは単に真理である」と言っていたが、まずそれが間違っている。世の中が無常にみえるのは我々が勝手に自分以外のものに失望しているからに他ならない。

こういう寄居虫は近くのものに失望したために、遠くばかりがよく見える。私が尊敬する人生幸朗師匠は、近くの物がみえないために近くの物に執着し続けて愚痴ばかり言っていた。あるとき、飛田遊廓で店の女子を妻と間違え「こんなところで何してんねん」と殴りかかったり、皿の絵の海老をつつきながら「とれへん」と言って居たらしい(ウィキペディア)。こちらの方がよほど虚実皮膜の真理に接近しているのだ。

突然庫裏の方から、声を震わせて梵妻が現われた。手に鍬の柄のような堅い棒を持ち、肥った体を不恰好に波うたせ、血相かえて来た。その勢にすっかり脅えて、子供達は干潟の寄居虫のようにあわてて逃出した。
 梵妻はどこまでもと追かけて行ったが、子供の方が素早くて、たちまち門の外にちりぢりに散ってしまった。
「鬼婆あ。」
「とったぞ、とったぞ、柿六つ。」


――水上滝太郎「果樹」


客観的にいって、寄居虫は逃げ足が速いような気がする。「走」っているのは長明の方だ。

勝地に主なし

2021-02-06 22:45:34 | 文学


勝地は主なければ、心をなぐさむるにさはりなし。歩み煩ひなく、心遠くいたるときは、これより峰つづき、炭山を越え、笠取を過ぎて、或は石間にまうで、或は石山ををがむ。もしはまた粟津の原を分けつつ、蝉歌の翁が跡をとぶらひ、田上河をわたりて、猿丸大夫が墓をたづぬ。かへるさには、折につけつつ桜を狩り、紅葉をもとめ、わらびを折り、木の実を拾ひて、かつは仏にたてまつり、かつは家づとにす。もし夜静かなれば、窓の月に故人をしのび、猿の声に袖をうるほす。くさむらの螢は、遠く槇のかがり火にまがひ、暁の雨はおのづから木の葉吹く嵐に似たり。山鳥のほろと鳴くを聞きても、父か母かとうたがひ、峰の鹿の近く馴れたるにつけても、世に遠ざかるほどを知る。或はまた埋み火をかきおこして、老いの寝覚の友とす。おそろしき山ならねば、梟の声をあはれむにつけても山中の景気折につけて尽くる事なし。いはむや、深く思ひ深く知らむ人のためには、これにしも限るべからず。


白居易の「勝地本来定主無シ、大都山ハ山ヲ愛スル人ニ属ス」に導かれている部分である。環境に遊ぶ彼のあたまのなかには最初からこの白居易の言葉があったに違いない。風景は地主の物ではなく、それを愛する物に属す、彼のあたまのなかでは、うつくしい風景を所有したような茫洋とした広がりがある。河の流れのようにそれはある。もっとも、かれはそれを自分のものとは信じられない。だから「深く思ひ深く知らむ人のためには、これにしも限るべからず」と考えるのである。風景は外にも内にもなく、深いセンスの内にこそある。

それはともかく、こういう認識を得るためにも、白居易を経由して自分の前のうつくしい風景の実在さえ疑うこの心理は、――われわれにはちょっと想像できない。つまり、言語や哲学をあるていど文字という巨大なものとして共有する中国に対する複雑感情を想像できなければ、もののあはれも何もかも理解できないのである。わたくしは、ある程度、もののあはれが、劣等感に支えられていたことを疑う。文字通り自分が「哀れ」だったにちがいないのだ。

これまでいろいろのいわゆる勝地に建っている別荘などを見ても、自分の気持ちにしっくりはまるようなものはこれと言って頭にとどまっていない。海岸は心騒がしく、山の中は物恐ろしい。立派な大廈高楼はどうも気楽そうに思われない。頼まれてもそういう所に住む気にはなれそうもない。しかしこの平板な野の森陰の小屋に日当たりのいい縁側なりヴェランダがあってそこに一年のうちの選ばれた数日を過ごすのはそんなに悪くはなさそうに思われた。
 ついそんな田園詩の幻影に襲われたほどにきょうの夕日は美しいものであった。


――寺田寅彦「写生紀行」


風景が再発見されようとする文学には、劣等感を別の物に置き換える、停車場(ステエション)とかヴェランダとかいう物体が文章の中を乱舞する。

方丈極楽記

2021-02-05 23:05:57 | 文学


その所のさまを言はば、南に懸樋あり。岩を立てて、水をためたり、林、軒近ければ、爪木を拾ふに乏しからず。名を外山といふ。まさきのかづら、跡うづめり。谷しげれど、西晴れたり。観念のたより、なきにしもあらず。春は、藤波を見る。柴雲のごとくして、西方ににほふ。夏は、ほととぎすを聞く。語らふごとに、死出の山路を契る。秋は、ひぐらしの声、耳に満てり。うつせみの世を悲しむほど聞こゆ。冬は、雪をあはれぶ。積もり消ゆるさま、罪障にたとへつべし。もし、念仏ものうく、読経まめならぬときは、自ら休み、自ら怠る。さまたぐる人もなく、また、恥づべき人もなし。ことさらに、無言をせざれども、独りを居れば、口業を修めつべし。必ず禁戒を守るとしもなくとも、境界なければ、何につけてか破らん。もし、跡の白波に、この身を寄する朝には、岡の屋に行き、かふ船を眺めて、満沙弥が風情を盗み、もし、かつらの風、葉を鳴らす夕べには、尋陽の江を思ひやりて、源都督の行ひをならふ。もし、余興あれば、しばしば松の響きに秋風楽をたぐへ、水の音に流泉の曲を操る。芸はこれつたなけれども、人の耳を喜ばしめんとにはあらず。ひとり調べ、ひとり詠じて、自ら情を養ふばかりなり。

「念仏ものうく、読経まめならぬときは、自ら休み、自ら怠る」とあるが、念仏を勉強に置き換えれば、長明がほとんど念仏をさぼりながらぼーっとしていたことは容易に想像されるところだ。方丈の住処は質素ではあるが、その環境との融合でまるで極楽である。わたくしが書斎や書棚に凝っているのと同じで、かれは素晴らしい趣味人なのである。そりゃ地震や都の人たちは嫌いだよ……。

「自ら情を養ふばかりなり」。対して、――いや、だからこそ、世の中そのものは「無常」である。

 私ははっと思って、一旦引いた手を又出した。そして注がれた杯の酒を見つつ、私は自ら省みた。
「まあ、己はなんと云う未錬な、いく地のない人間だろう。今己と相対しているのは何者だ。あの白粉の仮面の背後に潜む小さい霊が、己を浪花節の愛好者だと思ったのがどうしたと云うのだ。そう思うなら、そう思わせて置くが好いではないか。試みに反対の場合を思って見ろ。この霊が己を三味線の調子のわかる人間だと思ってくれたら、それが己の喜ぶべき事だろうか。己の光栄だろうか。己はその光栄を担ってどうする。それがなんになる。己の感情は己の感情である。己の思想も己の思想である。天下に一人のそれを理解してくれる人がなくたって、己はそれに安んじなくてはならない。それに安んじて恬然としていなくてはならない。それが出来ぬとしたら、己はどうなるだろう。独りで煩悶するか。そして発狂するか。額を石壁に打ち附けるように、人に向かって説くか。救世軍の伝道者のように辻に立って叫ぶか。馬鹿な。己は幼穉だ。己にはなんの修養もない。己はあの床の間の前にすわって、愉快に酒を飲んでいる。真率な、無邪気な、そして公々然とその愛するところのものを愛し、知行一致の境界に住している人には、逈に劣っている。己はこの己に酌をしてくれる芸者にも劣っている」
 こう思いつつ、頭を挙げて前を見れば、もう若い芸者はいなかった。それに気が附くと同時に、私は少し離れた所から鼠頭魚が私を見ているのに気が附いた。鼠頭魚は私の前に来て、じっと私を見た。
「どうなすったの。さっきからひどく塞ぎ込んでいらっしゃるじゃありませんか。余興に中てられなすったのじゃなくって」
「なに。大ちがいだ。つい馬鹿な事を考えていたもんだから」


――鷗外「余興」


「知行一致の境界に住している人には、逈に劣っている」。わたくしは、どちらかといえば、こういう風に自らを苛んでいる人の方が極楽にいける気がするのだ。

Bildung

2021-02-04 23:25:17 | 文学


ここに六十の露消えがたに及びて、さらに末葉の宿りを結べる事あり。いはば旅人の一夜の宿を作り、老いたる蚕の繭をいとなむがごとし。これをなかごろの栖にならぶれば、また、百分が一に及ばず。とかくいふほどに齢は歳々にたかく、栖は折々に狭し。その家のありさま、世の常にも似ず。広さはわづかに方丈、高さは七尺が内なり。所を思ひ定めざるがゆゑに、地を占めて作らず。土居を組み、うちおほひを葺きて、継目ごとにかけがねを掛けたり。そのあらため作る事、いくばくの煩ひかある。積むところわづかに二両、車の力を報ふほかには、さらに他のようとういらず。

長明は、その人生の儚さに徹底していない。末葉の宿りとか繭とか言ってみても、安部公房の繭ほどにも物質性に欠け、露にも粟にもまだなりきっていない。その証拠に、建材を二台に積めば運賃以外はかからないとか、どうでもよいことで武装している。おそらく彼は自分の人生に納得していないのだ。

撤退線に於いては、いろいろと理屈を繰り出す人たちが多いが、理屈の一貫性がないと寝覚めが悪かろうというものだ。

ところが、残念なことに、我々は、衰退のさなかにある国家や組織におけるリーダーを、その腐ってゆく体裁に即した腐った人物に任せてしまう性がある。

さいきんの政治家やら何とか長の失言や失策は失言や失策ではなく、その程度の馬鹿がその地位に就いている――というか、我々が腐った肉体は腐った精神とともに葬るほかはないと思っているから、そういうのを戴く選択をしたのだ。それは一種の加速主義ではあるが、腐る速度に合わせているだけだから、むしろ時間がかかっているといってよい。

――長明はその点、本当は世の中が腐っているとは思っていない。河の流れだと思っているわけだ、だから自らを根本的には顧みないのである。我々は河の流れではなく、腐ってそのその腐葉土の中から出てくる芽なのである。我々は鴨長明よりシュペングラーやゲーテに従うべきだ。

ドイツ人は現実に存在するものの複雑なあり方に対して形態(Gestalt)という言葉を用いている。生きて動いているものは、こう表現されることによって抽象化される。言いかえれば、相互に依存しながら一つの全体を形成しているものも、固定され、他とのつながりを失い、一定の性格しか持たなくなってしまうのである。しかしありとあらゆる形態、特に有機体の形態を観察してみると、変化しないもの、静止したもの、他とのつながりを持たないものはどこにも見いだせず、すべてはたえまなく動いて已むことを知らないことがわかる。だからわれわれのドイツ語が、生み出されたものや生み出されつつあるものに対して形成(Bildung)という言葉を普通用いているのは、十分に根拠のあることなのである。

我々はまたビルディングスロマンの時代に帰るであろう。

時間

2021-02-03 23:52:16 | 文学


すべて、あられぬ世を念じ過ぐしつつ、心を悩ませること、三十余年なり。その間、折々の違ひ目に、おのづから短き運を悟りぬ。すなはち、五十の春を迎へて家を出で、世を背けり。もとより、妻子なければ、捨て難き縁もなし。身に官禄あらず。何につけてか、執を留めむ。空しく大原山の雲に付して、いくそばくの春秋をなん経にける。


「空しく大原山の雲に付して、いくそばくの春秋をなん経にける」の「空しく」に力が入る。最初の「すべて、あられぬ」もそうで、「過ぐしつつ」や「悩めせる」にまで響いている。長明の感性は、最初に言っている川のように、長く続くものをみている。自らのなかに流れる怨みや鬱屈を感じているからである。

結局、そのような意識が「いくそばくの春秋をなん経にける」という慨嘆となっている。この慨嘆自体は一瞬のものだ。が、長いものをみているのである。

では、現在の状態がえんえんと続いて行く場合はどうなるか、それを強く望んでいる人物が一人います。それは僕らの家の地主です。僕らの家の界隈は同一の地主で、百姓タイプの眼のぎょろりとした四十がらみの男です。この男が地代を徴収に時をきめてやって来るのですが、来るたびに地代の値上げを要求する。これは野呂に相談するまでもなく、その都度僕がことわっているのですが、この男が二人のにらみ合いの状態の続行を望んでいるのです。なぜ望むかと言えば、先に申し上げた如くこの家はこわれかかったボロ家で、早いとこ補強工事をしない限り、地震か台風かで早晩居住できなくなるでしょう。

――梅崎春生「ボロ屋の春秋」


時間というものは、梅崎が屡々描き出すように、相手がドッペルゲンガーのようなかたちであらわれてはじめて誕生する。桎梏でもあるが、それは同志や師弟などに展開することもある。そこでは、しばしば守るべき時間となって我々のモチベーションを高める。

自然と「自然」

2021-02-02 23:19:03 | 文学


我が身、父方の祖母の家を伝へて、久しく彼の所に住む。其後縁欠け、身おとろへ、しのぶかたがたしげかりしかど、つひにあととむる事を得ず。三十餘りにして、更にわが心と一の庵をむすぶ。是をありしすまひにならぶるに、十分が一なり。居屋ばかりをかまへて、はかばかしくは屋を作るに及ばず。わづかに築地を築けりといへども、門を建つるたづきなし。竹を柱として、車を宿せり。雪降り風吹くごとに、あやふからずしもあらず。所、河原近ければ、水難も深く、白波のおそれも騒がし。

わたくしはソ連崩壊、バブル崩壊のあとぐらいに大学生だったはずだが、わたくしが住んでいた2番目の下宿は木像の隙間だらけの建物であった。学生運動が激しかった頃は、ある党派の集会所だったらしい。下宿代は2000円。わたくしは二部屋借りて本を詰め込んでいた。雪が壁のどこからか吹き込んでくる部屋であった。わたくしは、薄暗い部屋の中で「ブリダンの驢馬」についての卒業論文を書いた。わたくしにとっては、自分も含めて非常に「自然」な事のように思えた。

そういえば、川は遠かった。わたくしの実家は川縁にあって、台風の時には少しどきどきする。山間の暴れる河はまさに龍が山から駆け下りているようである。これは確かに恐怖そのものであり、上の記述で、水難と強盗(白波)を重ねているのも当然である。洪水も盗賊も同じようなものなのである。

細君は茶道をやってるが、――そしてわたくしはやったことないが、その所作は――形態は機能に従う(サリヴァン)という考えに一部抵抗している。我々の文化は、自然の流れに対するひそかな抵抗に満ちている。肉体の流れに対しても抵抗する。対立ではなく抵抗なのである。それこそが「自然」である。

そういえば、卒業論文を書いた頃、東日本大震災とサリン事件があって、わたくしの覚えていた「自然」は崩壊した。自然と人為が佇立し、対立としての世界があらわれてきた。管理と防衛が我々の社会の目的となったのは周知のことである。

何故に、鳥獣の糞は自然を飾り、人間の使役動物たる牛馬の糞は自然と相容れず、人間の糞は自然を汚すのか。それほど、人間の生活は自然と対立するものなのか。或は、人間は個立的で同類反撥的なものなのか。或は、人間の自然に対する憧憬渇仰の念が深いのか。
 私は半人半獣のことを思う。ミノトール、サントール、スフィンクス、人魚、フォーヌ、サチール……。半人半獣の獣性から神性のことまでを想う。


――豊島与志雄「自然」


確かに、「自然」とは半人半獣とも換言できる。それをやめたとき、人間は虎に変身したりするのである。

反=所有論

2021-02-01 23:39:04 | 文学


もし、おのれが身、数ならずして、権門のかたはらにをるものは、深く喜ぶことあれども、大きに楽しむにあたはず。なげき切なるときも、声をあげて泣くことなし。進退安からず、起居につけて、恐れをののくさま、例へば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。もし、貧しくして、富める家の隣にをるものは、朝夕すぼき姿を恥ぢて、へつらひつつ出で入る。妻子・僮僕のうらやめるさまを見るにも、福家の人のないがしろなる気色を聞くにも、心念々に動きて、時として安からず。もし、せばき地にをれば、近く炎上ある時、その災を逃るることなし。もし、辺地にあれば、往反わづらひ多く、盗賊の難甚だし。また、勢ひあるものは貪欲深く、独り身なるものは、人にかろめらる。財あれば、恐れ多く、貧しければ恨み切なり。人を頼めば、身、他の有なり。人をはぐくめば、心、恩愛につかはる。世に従へば、身苦し。従はねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。


今、方丈記を読み直してみて、なんとなく面白くないなと思うのは、こういう部分でもなにか発見というものがあるのかと思うからだ。「人を頼めば、身、他の有なり。人をはぐくめば、心、恩愛につかはる。世に従へば、身苦し。従はねば、狂せるに似たり。」などということは、中学生だってしってるぞ。他人に頼ると他人の所有物になってしまう、というが、そんな極端なことは現実では起こらない、そこそこでやるほかはない、という知恵の中に現実が宿る。その現実に感情が宿る。

長明は、世の地獄を見過ぎたせいか、やや彼我から彼岸に思いがいこうとしている。彼の文学は「無常の文学」ではなく、本当は「無情」なのではないだろうか。

方丈記には明らかに人間の有象無象の情意を一回無に帰そうという欲望がある。無常観よりも凶暴なものだ。まあ災害記だしね……

神仏分離150年シンポジウム実行委員会編『神仏分離を問い直す』を読んだが、近代における仏教の在家主義について触れられていた。確かに宮澤賢治なんか在家主義じゃないとでてこない。在宅勤務を一年間やってみて、われわれはすごく根本的に在家主義的なんだなと思った。方丈記が、放浪記ではなく、「方丈」から世の中を見ていることも重要だ。彼も、在家主義なのである。そこには、隠遁よりも拒絶がある。彼のまわりには、神仏でも何でも御利益に換言する災害よりも怖ろしい社会が広がっている。だからといって、所有をすてるというところまでいかない。「方丈」にかぎるようなあり方で対抗するのである。出家主義は、「人を頼めば、身、他の有なり」となるからむろんだめなのであった。

あらゆる所有の王国に呪いあれ
    *
万民平等なる母体の胎児たりし時
卿等に所有の観念の兆せしや否や
我古代より現代に至る
社会の変遷による人々の苦悩は
個人があやまれる自由の曲訳により
所有の観念のあやまれる故なりと断ずるなり
    *
自由とは何ぞや
    *
あらゆる個人の所有を許さざる万民平等の時
神人等が私慾の一点も加えられざる処
これあるのみ
    *
我ここに按ずるに
所有の生みなせる処の
社会の空中に燦然たる
電波線前面に
大玻璃板を設らえ
これを中断せずんばあるべからず云々


――今野大力「所有」


所有を完全になくすと、われわれは、長明や我々が本当は嫌っている、自由で習合的で御利益的な世界が待っている可能性がある気がする。我が国でなかなかコロナ対策が進まず、地主制もなくならなかったのは、その性もあったのかも知れない。地主だって、出家しているつもりだったのかもしれないのでる。