なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ491 暇とスマホ

2024年11月03日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第491回。令和6年11月3日、日曜日。

 

北海道に来ています。

昨年に引き続き根室市、標津町、別海町方面の布教巡回です。

特派布教とは違い、現地からの直接指名によって巡回しています。

二人の布教師で、昨年半分、今年残り半分を担当します。

 

暇であることの問題。

人生において、全ての生物が同じでしょうが、本来「暇」という時間はないでしょう。

全ての存在が生きる意味があり、同時に他を生かしているのだとすれば、その時間は全て意味のあることだと言えます。

お寺の生活は誰から使われるということでもなく、自分で時間の使い方を決められる生活です。

ある意味農業と似ていて、やろうと思えばやることは無限にあり、やらないから誰かに責められるという訳でもありません。

それでも「今日は何もない」などと「暇」と感じる日、あるいは時間があります。

それは、何もすることがないのではなく、目の間に突き付けられた用事がないだけのことで、すべきことしなければならないことはたくさんあります。

それを、したくないから「用事」から除外しているだけに過ぎません。

その「暇」としている時間を埋めるのにスマホほど有用なものはないでしょう。

電車の中あるいは待つ場所などで、スマホを見ていない人を見つけるのが困難なほどです。

かく言う私も、その一人であると白状しなければなりません。

先日寺に居ながら「暇」を感じ、しばらく遠ざかっていたスマホのゲームを開いてしまいました。

こんがらかったロープをほどいていくというパズルのような単純なゲームです。

そんな単純なものでも、ほどけたという快感は脳に対するご褒美のような喜びで、ついつい次へ次へと進みたくなります。

すると、一々入ってくる広告が邪魔になり、求められるままに広告を消す課金に同意してしまいました。

この時点で既に沼にはまってしまっています。なかなか抜け出すことができません。

暇だからゲームを始めたのだから、広告が邪魔だなんて、暇ならそれも見ればいいのに、その時間がもったいないと思う。

現在レベル645まできてしまいました。

ゲームの動機が暇ではなくなってしまっています。

さらには用事を後回しにして「暇」を作る始末。まさに時間が潰されていきます。

スマホから流れてくる膨大な情報は、そこから広告企業の利益に誘導するように仕組まれているでしょう。

つまりスマホは、手にする者の時間とお金を容赦なく奪う吸い取り紙のようになっていると言っても過言ではありません。

利用者次第だとは言っても、特に真偽を見分け難い若い者などは赤子の手をひねるより簡単に騙されてしまうこと必定と言えましょう。

68歳の老人も簡単にはまるのですから。推して知るべしです。

暇だと感じることを何とかしなければなりません。

生きている限り暇な時間などないのですから。

 

サンベギドウのローマ字表記は「GIDO SAMBE」になっています。

パスポートを取得するときにそのように指導されました。

「GIDOU」でも「SANBE」でもありません。ヘボン式なのだと思います。

ところが、ブラジルに行ったとき、「ジドウ」ですかと聞かれ「ギドウ」ですと答えると、それなら「GUIDO」の方がいいと教えられました。

確かに「ギター」は「Guitar 」と表記します。ラテン語表記でしょうか。詳しくは知りません。

「Guido」の方がかっこいいですかね。どうでもいいことですが思い出したので。

 

今週の一言

「本来、暇な時間などない」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 


サンデーサンライズ490 絶滅危惧種

2024年10月27日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第490回。令和6年10月27日、日曜日。

 

昨日土曜日は、花の鶴楯を創る会の秋の作業、終わって慰労会でした。

作業は、山道の急坂に丸太の横木で階段を作る作業でした。

上り幅を決め、横木の丸太を2本の杭で押さえ段面を調えていきます。

同時に周辺の枝を払い、草を刈っていきます。

60段の階段を作るのに今日一日でできるかと思いましたが、手はずが分かってくると作業は早く、15人弱の男たちはちゃっちゃと仕事をこなしていきました。

何と昼前には全ての作業を終えました。仕事のできる男たちです。

協働作業を終えた後の慰労会が楽しくない訳がありません。

次々とビール、酒、焼酎が開けられ、良くしゃべり且つ良く飲みました。

 

この世代の男たちは、長男が家を継ぐということにさほど疑問を感じずにきた最後の世代かもしれません。

小さい頃から「お前は家を継ぐんだ」と言われて育ち、周りも同じような環境でしたから、そんなもんだと受け止めて来たように思います

責任感はあったでしょうが、決して悲観的でも自己犠牲的でもなかったように思います。うーん、多少はあったか。

それよりも、残る者たち同士でどのように生きていくか、楽しいことを作っていくか、助け合っていくか、そこに注力してきたのだと思います。

もう少し若い者たちは、生活の場をそこに置きながらも、その中にあるいはその外に個人の楽しみを見つけようとしているように見え、そこに住む仲間たちと共に生きるということに意味を見出そうとしていないのかもしれません。

集団から個へはこの国の生活文化の時代的な流れでしょうから、抵抗したり止めようとしたりしても詮無きことですし、善悪の問題でもないでしょう。

集団にさほど疑問を感じずに来た者たちは、それが当然のことであり、それが楽しく楽なことであるからそうしているに過ぎません。

田舎の人口減少、流出の問題も、そこに楽しみを見つけられなければ他所に求めるのは当然のことで止めることはできません。寂しさを感じないわけでもありませんが、仕方ありません。

古い時代の男たちは、ただ自分の楽しみに素直に従っているだけです。

その姿を見て楽しそうだと思う人がいれば多少は残っていくかもしれませんが、それは知ったことじゃありません。

絶滅危惧種。なのだと思います。

田舎の農業は共同作業が基本でしたから、集団から孤立してしまうことは即ち死活問題でした。

集落の中では、仲間外れにならないように悪目立ちしないように、個性を消しながら生きていく必要がありました。

生きづらさの中に安全性を見出さなければならない状況だったといえるでしょうか。

農業が機械化によって共同作業の必要がなくなっていき、田舎にも個の流れが浸透してきました。

集落の目を気にして生きる圧力から解放されてもきました。

 

集団と個の価値観の境目の時代を今生きているのだと思います。もうずいぶん個に寄ってきていると思いますが。

そんな時代に、集団の喜びを大事に感じる生き残りのような人間たちがいるのです。

それが絶滅危惧種。

流れに乗れない、パソコンを使えない、朝早く目が覚める、仕事ができる、夕餉の前にコップを持たないではいられない、酒を飲まないでうまくしゃべれない、そんな男たち。

そんな男たちの憩いの場を作っていきたい、保持していきたいと思います。花の鶴楯の事業を始めたのもその意味です。

だってこれが最後だもの。楽な方、楽しい方にしがみついてもいいじゃないですか。

絶滅危惧種は絶滅危惧種の楽しみ方をしているに過ぎません。

どうぞ冷ややかに見守っていてください。

 

今週の一言

「自分にも、他人にも、正直に」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンデーサンライズ489 一番若い今日

2024年10月20日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第489回。令和6年10月20日、日曜日。

 

好きな俳優の一人西田敏行さんが亡くなりました。

色んな役をいい味で演じられていましたね。

画面にこの人が現れると安心感を感じたりしました。

印象に遺っているのは『遺体 明日への十日間』という映画で、東日本大震災の釜石の遺体安置所を舞台にした、ジャーナリストのルポルタージュ、実話が元になっている作品です

西田さんが扮する相葉は葬儀社で勤務経験のある民生委員で、ナンバーが付けられ「死体」として扱われることに心を痛め、自ら申し出て安置所の運営にかかわることになります。

ブルーシートが敷き詰められた体育館に次から次へとご遺体が運ばれてきます。

雪が降りしきる中そこを訪ねた相葉は、土足のままでは申し訳ないと靴を脱いで裸足で入って行く。

「死体ではなく、ご遺体ですよ」と。

実際には危険があるので靴を脱ぐことはなかったそうだが、おそらくは西田さんの強い思いでそうされたのではなかったかと思います。

そして、一人ひとりのご遺体に言葉をかけながら顔を拭い、化粧を施していきます。

理不尽な死を受け入れられない遺族は、家族と向き合うことを拒みます。

次第にきれいになり、生前の顔に近くなると遺族の受け止め方も変わっていき、感謝の気持ちを持って手を合わせるようになります。

どんな状況であろうとも、ご遺体を尊厳を持ってその命を見送ることができるようにというテーマだったと思います。

「ご遺体であっても話しかけられると人としての尊厳を取り戻すんだよ」という言葉が心に響きました。

西田さんの人柄がそのまま役柄に投影されて心に残るシーンでした。

 

もう一つ、散歩のお伴として聴いているNHKのラジオ番組『新日曜名作座』は、西田さんと竹下景子さんとのいわゆる二人芝居で、何年も続いている番組です。

たくさんの登場人物を二人が演じ分けるのですが、年齢も人柄も職業も違う人々を方言も含めてそこにその人がいるように、声だけで演じ分けるすばらしさにいつも聴き入っていました。

毎週楽しみにしていましたが、それが聴けなくなると思うととても寂しく残念でなりません。

 

先週は葬儀が二つ続きました。

数え年92と98の高齢でしたが、今さらながら、改めて、人は死ぬんだなと感じさせられます。

みんなみんな死ぬのです。

そのみんなの中には、もっと身近な、知人や友人、親族や家族、そして自分も含まれます。

この歳になると、出会う人の数よりも見送る人の数の方が加速度的に増えていくことは否めません。

他人の死に向き合うことは、自分の死にたいする受け止めの準備運動なのかもしれないと思います。

体が思うように動かない、疲れが取れない、ぐっすりと眠れない、薬ばかりが増える。

そんな老いの自覚の中で、それでも生きるか死ぬかは命にお任せしていくしかない。

寝ても疲れが取れない朝など、病気も疲れもなかった少年時代のように、この体をきれいさっぱりクリーニングでもできないものかと思ってしまいますが、それは無理というものでしょう。

命は完璧に不可逆的にできています。

今より古い過去には戻れないのです。

年齢はただ重ねて行くだけ。引き算はありません。

やがて死んで行く身として、今日の自分が一番若いという事実。

誰かと比べることではなく、自分の命をしっかり見つめれば、究極、自分の人生で一番若い今日をどう生きるのかに問題は収斂されます。

過去は問わない、明日より若い今日の過ごし方、それを他人の死から学んでいくしかありません。

ああ、私もやがて死ぬ。

それまでにどう生きるか。とりあえず今日、どう生きるか。

 

今週の一言

「みんな死ぬ、なのに今生きている」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンデーサンライズ488 まかせれば自由

2024年10月13日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第488回。令和6年10月13日、日曜日。

 

昨日12日は母親の命日でした。

ごく近い親族で三回忌を勤めました。

思い出すことはあっても、寂しいとか悲しいとか、亡くなって以来未だに涙がこみあげてくることはありません。

無感情人間になってしまったのか、何なのか理由は分かりません。

突然のことだったからかもしれませんが、それでも丸2年も経つのに思い出して感極まるということがありません。

逆に不思議な感じです。

母は19歳で寺に嫁ぎ、保育士をしながら寺を支え子どもを育ててくれました。

その言動から、父である住職よりも寺が好きだったのではないかと思います。

まじめで几帳面できれい好きで、怒るということがまずなく笑顔で人に接することができる人だったので寺族に向いていたと思います。

子どもの頃体が弱かったらしく、滋養強壮にマムシ酒を飲まされていたとか、とても農家の嫁は務まらないと女学校に行かせてもらい、お寺に嫁ぐことをその母親の策略で決められたようでした。

お寺の境内にあった公民館が季節保育所となり、農繁期に臨時の保母として勤め始め、それがきっかけで保育士の道を歩むこととなりました。

寒い冬凍った道で転倒した後遺症が出てむち打ち症でしばらく苦しみました。

首にコルセットを付けて痛々しい姿だったことが記憶にあります。

それからは健康オタクのように、いいと言われることは片っ端から試し、病院や診療所に通い、人にも勧め、そのために生きているような生活でした。

検診で胃がんが発見され、4分の3を摘出し、食が細くなりました。

「体が弱いから」「胃がないから」と言いながら、それから20年以上も元気で生きてきましたが、アルツハイマー型認知症になり、少しずつ機能が低下していきました。

ひ孫がやって来るとニコニコしていたのですが、感情が薄れてくるのか、感情はありながら表情が作れなくなるのか、だんだん笑顔も見えなくなってきました。

寝たきりの介護度4となり、デイサービスとヘルパーとの併用で自宅介護を始めました。

お試しで1回だけという言い様で初めてデイサービスに行ってきた帰り、「楽しかったべ」と聞くと「楽しいわげないべ、だれ」と、頑としてもう行かないと言い張りました。

父親の時もそうでしたが、チーチーパッパの子ども扱いされるのがプライドを傷つけるのかと思いました。

特に母親は保育士でしたから、その扱いに嫌悪を感じたのかもしれません。

そんな母も、意思表示がうまくできなくなり抵抗する気力がなくなったのか、扱われるままに車椅子ごと迎えの車に乗せられていきました。

娘たちはその様子を「ドナドナ」と言い交わしていました。

本人の意思があろうがなかろうが、当人の扱いは周囲の人の都合で決まるのであり、それはやがて当然の処遇となります。

子どもをダマすと言いますが、老人もダマされます。

ダマされるのだと知りながら、それに身を委ねるしかなくなるのです。

 

そして思います。

委ねるしかないのだとしたら、身を任せるしかないのだと。

抵抗すると、それは不自由に感じることでしょう。

身を任せることによって、心は縛られず自由になるように思います。

認知症は幸か不幸か抵抗する意志も奪ってくれるように見えます。

死の準備として、身を任せることができることはその受容につながるのではないかと思えます。

そうでなければ、あれほどの穏やかな顔で逝くことはできないのではないか。

本当にきれいな顔でした。

 

あとはひと 先は仏にまかせおく おのが心のうちは極楽(貞心尼)

 

晩年の良寛さんと親交のあった貞心尼の辞世だと言われる歌です。

そうであるならば、認知症も死も怖くはない。

怖くはないように、死へ向かう体と心の連動はプログラムされているのかもしれません。

母は、極楽の心の中に旅立ったのだと受け止めています。

 

今週の一言

「極楽はあります」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 

 

 


サンデーサンライズ487 慈悲の力

2024年10月06日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第487回。令和6年10月6日、日曜日。

 

先週日曜日から土曜日の昨日まで岡山県を巡回していました。

矢掛町、高梁市、新見市、津山市、新見市と、5日間6教場での特派布教です。

今年度で最後の特派巡回となりますので心してお勤めさせていただきました。

実は岡山県は3回目で、前回は6年前の平成30年、西日本豪雨災害のあった年で、教場の予定だった真備町源福寺さんは本堂の天井近くまで浸水し、急遽洞松寺さんに会場を変更して勤めたのでした。

その後コロナ過により特派布教は実施されず、昨年はホール2か所においての合同開催だったようで、各寺院を教場にしての開催はそれ以来とのこと、ご縁を感じます。

法話の所要時間が90分の設定で、途中休憩をはさんで勤めましたが、それが聞法者にとっては疲れず、話に集中ができてよかったようです。私も楽でした。

第一会場では洞松寺僧堂の修行僧11名も聴聞されましたが、どんな感想をもたれたのか気になるところです。瞼を拭っていた修行僧もいました。

巡回中、能登豪雨で行方がわかなくなっていた中学生の女子が福井県の沖で発見されたという報道がありました。

もしかして奇跡的にどこかで生きているのではないかと一縷の望みを抱いていただろう家族にとっては残念な結果ではあったろうと思いますが、それでもよかったねと思いました。

遺体であっても見つからなければ、家族はいつまでもいつまでも探し続けることだろうし、落ち着かない心のまま暮らすことになったでしょう。

遺体であっても、姿を見れば会えたと思うでしょうし、抱きしめて、葬儀もして、きちんとお別れも言えただろうと思います。

この間親はどんな思いで過ごしていたのか、また本人の女子もどんなに怖かったか、痛かったか、苦しかったか、最期に「お母さーん」と叫んだだろうか、と想像すると胸が張り裂けそうになります。

見ず知らずの人の痛みが、我々の心に真っ直ぐに突き刺さり、痛みを感じることができます。

そういう力を我々は持っています。その力を慈悲心と言います。

「人々分上ゆたかにそなわれりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるには得ることなし」と道元禅師は教えています。

慈悲心は我々にちゃんとゆたかに備わっているのだけど、行動しなければ現れてこない、ないのと同じ、自らの行為によってはじめて備わっていたと自ら気づくことができる、というのです。

その行為とは菩薩行ですが、その基本的な行為は合掌であると言ってもいいです。

合掌は、相手を敬い、感謝の思いを表わし、幸せを祈る姿です。

その姿がそのまま菩薩の姿であり、菩薩の心です。

慈悲心が発露して菩薩行となり、菩薩行によって慈悲心に目覚め、慈悲心を育て、さらに菩薩行が継続されていくのです。

菩薩の行いが菩薩であるというのが曹洞宗の教えです。

 

これまで合わせて21年間特派布教師を務めてきました。

全国各地いろんなところに連れて行ってもらいました。

複数回派遣された県も一度も派遣されなかった県もあります。

布教師と現場の都合のマッチングですから、致し方ありません。

各地各教場において、十分にその任を果たしたかと思い返してみると忸怩たる思いがあります。

話の途中で席を立たれたこともありました。そういう時は焦ります。

せっかく集まってくれた檀信徒に、つまらない思いのまま帰してしまっただろうという怖れがあります。

法話は生もので、その場その場の1回こっきりの真剣勝負。いわば一期一会です。

100人に対する90分の法話であれば、一人で合計150時間の時間を預かるという緊張感があります。

できれば、来てよかった、有意義な時間だったと思ってもらいたいと思います。

それが出来たかなと思う法話もあれば、後悔慙愧の法話もありました。申し訳ないことです。

これまでお世話になってきた各教場の皆様、関係者の皆様に感謝とお詫びを申し上げたいと思います。

また、その間留守を守ってくれた家族にもお礼を申し上げなくてはなりません。

ありがとうございました。 合掌

 

今週の一言

「合掌は菩薩の姿」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 


サンデーサンライズ486 選べない選挙

2024年09月29日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第486回。令和6年9月29日、日曜日。

 

野党立憲民主党の代表選挙と与党自民党の総裁選挙が相次いで行われました。

どちらも一般国民には選ぶ権利がないので、とやかく言えることではありません。

ましてや僧侶は、政治に口を出したり関わったりはすべきではないと考えてもいますので、どこ吹く風のように飄然として居ればいいのだと思いますが、それでもこの国の舵取りを任せる人選ではありますので関心を持たない訳にもいきません。

結果として、無難な人が選ばれたと思います。

立民の方は候補者4人による戦いでした。

それぞれカラーがあり、主張もあったようです。

党の中でも右寄り左寄りがあって、それぞれ立ち位置が違うのでしょうが、結局極端を避けたという印象でした。

それは「政権を取りに行く」という主張が党内をまとめる方向に向いたのではないかと思われます。

以前総理だった人です、その時の過ちや失敗も胸の中に渦巻いて「今度は」という思いが燃え上がっているのでしょうから、実現できるかどうかは別にして頑張ってもらいたいと思います。

他方自民は9名の候補者による戦いでした。

選挙権はないと言っても、その主張の違いが見えてきて選挙することの意味はあったと思います。

ただ、傍観していると、その政策論で選ばれるというよりも、人とのつながり、好きか嫌いか、選挙になったらどちらが有利か、自分はどちらについたら利があるか、結局それぞれ自分のための利益を計って右往左往しているだけではないか。

派閥を解消したから9人も立ったとはいえ、蓋を開けてみれば結局はこの党のいつもの親分子分の古臭い体質が強く鼻につく選挙に見えました。

国民のための人選びとはとても思えない印象でした。

1回目の得票では私の最も嫌いな候補がトップで、解説者のコメントからこれで決まったなと残念な思いでテレビを消してしまいました。

少しして一応決選投票の結果だけ見ようとテレビに戻ると、何と逆転しているではありませんか。

大方の予測では、1回目の投票ではトップをとっても決選投票では負けるだろうと見られていた候補が。

この逆転を予測した人はいたのでしょうか。

解説者の見方もたいしたことないですね。

私はこの結果を喜んでいます。

一つは、もう一人の候補の偏った政治信条が私はどうしても受け入れられません。

ある意味アメリカのトランプ候補と似た匂いがして、重高長大の古き良き時代?にあこがれる回顧主義に見えます。

または愛国主義の旗を振り、強くなければ生き残れないという国づくりが今後の世界のありようであってはならないと考えます。

しかし、そういう考えの人、その考えに賛同する人がこの党には半数いるということも分かりました。

もう一つは、結局派閥の領袖がキングメーカーとなるような組の力が働かなかったこと、最後は議員一人ひとりが判断して投票したものと思われ、この党が最低限の良識を示したのではないかと思われるところです。裏でどんな動きがあったのかは知りませんが。

それでも結果としてこの選択をしたのは、なかなかやるじゃん自民党と私なりに評価しています。

いずれにせよ、今後両党首が国会の場で論戦に火花を散らせことでしょう。

この国のありようを徹底的に議論し、みんなが納得できるような政治にしていただきたいと切に思います。

 

最近新聞やテレビに息子が露出して方々から見たぞという連絡をいただきます。

新聞は地方紙だけだと思いますが、テレビはどうも全国放送だったらしく気仙沼や千葉からも報告が来て驚いています。

悪いことをしたわけではありません。

お坊さんのロックバンドという話題です。

しかも、ギターとベースとドラムの3人がお袈裟姿で演奏するというのが話題の所以です。バンド名を「THE ZEN」と言います。

あちこちから出演の依頼が来ているようです。

なんかなあと思いますが、彼等なりの布教活動だとは思うのでしばらくは様子を見ましょう。話題もそう長続きはしないでしょうから。

因みにウチのはドラムスコです。

 

今週の一言

「我々が選べるのは、選ぶ人を選ぶこと」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 


サンデーサンライズ485 酒桜

2024年09月22日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第485回。令和6年9月22日、日曜日。

 

今日は彼岸の中日です。

雨が降り続いています。

能登半島では大きな被害が出ている模様です。

痛いところに追い打ちをかけるようで心が痛みます。

当地では稲刈りも始まりましたが、この雨で休止していつ再開できるのかと気をもんでいます。

米不足で米価が若干上がるということで農家にとってはうれしいことです。

消費者にとっては大変ですが、米はこれまであまりにも安すぎたと思います。

ある程度のところで落ち着いてくれることを望みます。

ここに来て夜明けがだいぶ遅くなりました。

6時の朝課の際、天気が悪いと回向本の文字が読みにくくなりました。

彼岸はやはり季節の分水嶺なのだと実感します。

 

17日地酒を創る会の会合で、次回の酒造りの内容が固まってきました。

これまで行ってきた先行予約販売を廃止します。

その代わりと言っては何ですが、11月に第1回目を仕込み、正月前に新酒ができることになりました。

但しそれは生原酒の一種類です。これまで先行予約販売でしか飲めなかった生原酒を一般売りに回します。

その他の生酒と火入れ酒は第2回目の仕込みで2月の販売となります。

町の中心にあったふるせさんが廃業したので、代わりにセブンイレブン向町店と大堀店で販売してもらうことになりました。申し込み等の詳しい情報は近づいたら広報します。

これまで瓶の色は生原酒を除いて水色の瓶を使っていました。

「山と水と、」の銘柄と、スムーズなその味と、瓶の色がピッタリマッチしていると好評でしたが、どうも光を通すこの色は酒の劣化が進むようです。

そこで、次回の酒から、火入れ酒の瓶の色を緑色に変えることにしました。

火入れ酒が山の緑、生酒が水の色、生原酒が土の黒茶色の三色になります。

生酒は水色のままですが、劣化が進むということで製造量を減らし夏前に売り切るような量にします。

それぞれ720mlと300ml瓶を作りますので、そのラインナップとストーリーを載せたミニパンフを作成して今年の酒から付けることにします。

先日仙台の知り合いのスナックで飲んだところ、そこに「山と水と、」が置いてあり(ちゃんと町の酒屋さんから買ってもらっています)、生原酒を仲間で飲みました。

みんな旨い旨いととても好評でした。本当に旨かった。

19日に出羽燦燦の稲刈りも無事に終わり、仕込みに向けて準備が始まります。

 

さて、大相撲秋場所も本日が千秋楽です。

横綱の休場により番付最上位で迎えた大関琴櫻でしたが、期待も空しく優勝争いから早々と脱落してしまいました。

先場所の時も書きましたが、力が入り過ぎだと思います。

気合を入れてそれが力になる力士と、気合がかえって身体を固くしてしまう力士がいますね。

モンゴル系の力士は気合の入れ方が上手です。それに比べて日本人は後者のようです。

琴櫻などは気合を入れることによって逆に動きが悪くなり自分の相撲が取れていないと感じます。

誰かのマネをして気合を入れたりしなくてもいいから、自分らしい相撲を取ればいいのにと思いながら見ています。

勝とうとするのではなく、勝っても負けても自分の相撲を取り切るという姿勢で向かってほしいですね。

片や優勝した大の里は強いですね。

相撲に迷いがありません。

真っすぐ当たって前に出て、腰を割って最後まで突き通す、決まった後の手の形がその相撲を象徴しています。

「今のところ」かもしれませんが、迷いのない相撲は見ていて気持ちがいいです。

 

思いつきですが、『琴櫻』という酒を造ればいいのに。旨そうな名前じゃないですか。売れると思いますよ。

酒蔵はもちろん出羽桜酒造でしょう。

優勝して桜が満開。乾杯酒には最高だと思います。来年の3月場所か。

後援会長のスーパーおおばんがプロデュースすれば簡単にできます。

あ、飲まれてはダメか。

咲く前に散らないでね。

 

今週の一言

「自分の土俵で、自分の相撲を取れ」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンデーサンライズ484 古人の歩んだ道

2024年09月15日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第484回。令和6年9月15日、日曜日。

 

10日から鶴楯の伐採作業が始まりました。

「花の鶴楯を創る会」の今年度事業で、ちょうど山の角にあたる尾根の杉を一筋伐採してもらいました。

ここが一番目立つところで、ここに桜を植えれば遠くからもよく見えると思います。

400年前の城跡が今も遺り歴史の重みを伝えてくれていますが、地元の人の意識からは遠ざかり関心がなくなって来ています。

地域に宝があることを知ることによって故郷に誇りを持ち自信にもつながると思っています。

そのために、その存在を認識し大切に後世につなげていきたいと意識してもらうため、みんなが行きたくなるような桜の山にしていこうというのがこのプロジェクトです。

4年目を迎えた今年も県のみどり環境事業に採択され予算もつきました。

業者の都合で伐採が遅れたため桜の植樹まではできず、今年は伐採までの事業となりました。

やがて桜も咲き始め、人々が賑やかに集うことを夢に見て事業を進めて行こうと思います。

 

中島みゆきのメールマガジンから、映画『シサ』の情報が来ました。

江戸時代前期、松前藩とアイヌの交易を通しての人間愛と裏切りの物語。

予告編を見ると次のようなテーマが掲げられています。

生まれた土地や文化の違い

彩にあふれたこの世界で

人は共に生き、

歩んでいくことが

できるだろうかー。

それは、これまで人間が、悩み、闘い、自問を繰り返してきた、永遠の命題だったかもしれません。

それがまさに今、現代の社会でも問われているのでしょう。

監督:中尾浩之、脚本:尾崎将也

主演:寛一郎、他に、三浦貴大、和田正人、要潤、富田靖子、緒方直人、サヘルローズなどが脇を固めています。

13日から公開のこの映画、テーマソングに使われているのが中島みゆきの『一期一会』だという情報です。

以下のリンクからそのフルバージョンの予告編が観られます。

シサ』予告編

先週に続き、アイヌに関心があり中島みゆきのテーマソングですから、これも観なければならないと心を動かされているところです。

 

古(いにしえ)の人々が歩んできた道。

どんな苦労があって、どんな喜びがあったのか、そこに思いを馳せることによって、人は深くなり、優しくなれるように思います。

今、目の前の、自分のことだけにとらわれてしまうと、時として傍若無人になってしまうようにも思います。

それがよく自分が口にする「今を生きる」という命題と齟齬しないのか。

今を生きるためには過去の記憶など邪魔なばかりだという考えと、自分以外の命の過去を知ることが大事だということが矛盾しないのか。

自分が今を生きるためには他を知らなければならない、ということでいいのか。

自問しています。

自問しながら考えます。

自分を見つめると言いますが、全ての命は他との関わりあいの中で存在しているわけで、世間から切り離した状態で自分を見つめることは不可能でしょう。

見つめる自己の中に、それまで関わってきた他とのすべての出来事が存在しているのですから、それが自分を見つめる材料になることは間違いありません。

その材料に、他の人の生き方も含まれていて、例えば古人の苦労を知ることが自己を見つめることに影響を与える、ということかと思います。

何だか面倒くさい話になってしまいました。

 

今週の一言

「自分は他人でできている」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 

 

 


サンデーサンライズ483 砂の中の銀河

2024年09月08日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第483回。令和6年9月8日、日曜日。

 

9月に入って急に涼しさを感じるようになりました。

朝晩の空気が違います。

温暖化は着実に進んでいて、農作物の適地が北上しています。

山形の特産さくらんぼが今年の高温で双子果が多く例年の4割程度の減収となりました。

今後さくらんぼの適地は北海道になるかもしれません。

ただ、更に北進する可能性もあるわけで、北海道で止まるという保証もありません。

山形でマンゴーやパイナップルを作ればいいなどという冗談も笑えなくなります。

農作物はその土地の気候に合ったものが特産として作られてきたわけで、気候が変わってしまえば転換を迫られることになるでしょう。

品種改良も進んでいることと思いますが、それより先に高温化が進めば間に合わないということもありそうです。

自然災害の多発から見ても、根本的には温暖化を抑える以外に地球上の生命を守る対策はないのだと言えます。

それなのに、世界の国が真剣にその対策に取り組んでいるとは思えません。戦争などしている場合じゃないのに。

この国の次の総理大臣を決める政策の中にもそのような文言は見られません。経済や憲法改正の問題が主流のようです。

目先の利益を優先して関心を引こうとしているのは、結局は自分の人気取りで、国の将来の舵取りという政治家本来の役割を放棄しているのではないかと思われます。

そうさせる国民の責任でもあります。

 

『新プロジェクトX』を録画して観ています。

キャスターの有馬嘉男氏が知り合いで、テーマソングが中島みゆきですから観ないわけにはいきません。

そこに取り上げられるのはいつも、市井に埋もれている名もない人の頑張りです。

今では常識になっている携帯電話にカメラを搭載する物語がありました。

日本ビクターの家庭用ビデオVHS開発の物語がありました。

スバルの死亡事故ゼロを目指す運転支援システムの開発物語がありました。

いずれも、会社の窓際に追いやられる部署で、予算や人員を削減されながら、時には会社の指示に逆らい誤魔化しながらも、諦めずにやり遂げた「人」たちの物語です。

今までにないものを創り上げるのはいつも「人」なのだと強く胸に響きます。

人が人を育て技術を進化発展させていく。それは並大抵の努力ではなかったことをこれらの物語は教えてくれます。

スーパーコンピューターの開発競争がありました。

富士通を中心としたチームで作られたスパコン「京」と「富岳」が世界一になりました。

その開発にも尋常ではない人の熱意が込められており、ギリギリの中で出来上がっていることが分かりました。

「業務仕分け」の中で『2位じゃダメなんですか』という有名になったフレーズのもとに国の予算が一時凍結された開発の危機がありました。

実用化のためなら必ずしも1位にこだわる必要がないことも事実ですが、技術者の熱意がないと新たな開発の意欲が削がれるということはあるかもしれません。なにせ人ですから。

このシリーズを何話か観ていると、新たな技術の開発にはいつも常識から離れた「変人」がいて、それをまとめる心の広い上司がいるという構図になっています。

そのような「人」が果たして今後も現れるのか。現代の日本社会を見て心寒い気がします。

2位じゃダメだったのかもしれません。

 

『地上の星』の歌詞のように、この国には巷に紛れて誰もが見過ごしてしまうような、けれども自分の務めに必死に努力を続けている、普通の姿をした名前も知られない、キラリと輝く「人」がいたのです。

それは誰かのことではありません。

あなたです。

砂の中の一粒、草原の一本、誰からも認められなくとも、誉められなくとも、あなたがいなければならない仕事、あなたでなければできない務め、それを黙々と続けていく。

そういう存在こそが世界を動かしているんだ、空ばかり見て氷をつかむんじゃない、ちゃんと足元を見なさい、キラリと光る星はここにあったと気づきなさい、と中島みゆきは歌っているのでしょう。

番組の内容とテーマソングがこれほど一体化している例も少ないのではないか、と思います。

今後の放送も楽しみです。

 

今週の一言

「地上の星、それは自分だ」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 


サンデーサンライズ482 左脳の音

2024年09月01日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第482回。令和6年9月1日、日曜日。

 

今日から9月です。

今年は暑い夏でした。

水害も台風もありました。

静かな秋であればいいなと思います。

 

先日の散歩中らじるらじるの聞き逃しサービスで「歌謡スクランブル」を聴いていました。

作曲家浜圭介作品集で相良直美の『ひとり旅』が流れてきました。

一瞬、中島みゆきの楽曲『命日』か?と耳を疑いました。

とても似ていると感じて検索して聴きくらべてみました。

以下です。

作詞:吉田旺、作曲:浜圭介、歌:相良直美『ひとり旅』

作詞・作曲:中島みゆき、歌:日吉ミミ『命日』

歌詞の内容も何となく似ているし、曲の感じもとても似ていると思います。

発表時期はそれぞれ、1976年2月と1977年10月なので、『ひとり旅』の方が1年半ほど早いことになります。

中島みゆきがそれを参考にしたのかどうか?それは分かりません。

でもどちらもいい歌です。

因みに『ひとり旅』は美空ひばり、天童よしみもカバーしています。

 

もう一つラジオからの情報ですが、「虫の音を認識できるのは日本人とポリネシア人だけだ」という話を聞きました。

人間の脳は耳から入った情報を右脳と左脳で聞いているのだそうで、右脳は音楽脳、左脳は言語脳、どちらの脳で聞くかによってその音を音楽と認識するか言語と認識するかが決まるというのです。

左右の耳から違う音楽を聞いてどちらの曲が頭に残ったかという実験の結果、左耳から聞いた音楽の方がより記憶に残った。

耳と脳はクロスされて左耳から入った音楽が右脳に反応している。つまり音楽は右脳で聞いている。

一方、左右の耳から違う言葉を聞くと、右耳から入った言葉が左脳に反応する。

それが右脳と左脳が音楽脳と言語脳に区別されるという実験なのです。

そして、日本人とポリネシア人は、虫の音、動物の鳴き声、風の音、水の音などを左脳、つまり言語として聞くのだそうで、逆にそれ以外の人々は、虫の音を「音」として右脳で聞き、車の騒音と変わりないので「虫が鳴いている」とは聞こえていない。ましてや「虫の声」などという聞き方はできないということです。

さらに驚いたことは、それは脳の違いではなく、最初に聞いた言語によるというのです。

日本人でも、最初に聞いた言葉が日本語以外であれば虫の音は右脳で聞き、日本以外の国の人も、最初に聞いた言語が日本語の場合、左脳で聞くというのです。

おもしろいですね。

これは東京医科歯科大学の角田忠信先生が、1978年に『日本人の脳』で発表した説ですが、脳の専門家からは批判もあったとのこと。

果たしてこの説は正しいのか?

 

中島みゆきの歌などは、外国の人にどのように聴こえているのだろうかと疑問に思ったりします。

歌詞があり、曲があり、歌がある。

総合的に楽曲なのですから、それは右脳で聴くものなのでしょう。

しかし、もしかしたら、日本人は彼女の歌を左脳で聴いているのかもしれないと考えたりしました。

単なる歌ではない。

心に深く響くのは、言葉として聴いているからだと思うところです。

演歌のメロディも、もしかしたら日本人は左脳で聴いているのかもしれませんね。

一方外国の歌を聴いていい曲だなあと思っているところに字幕で歌詞が流れたりすると、え、こんな歌詞だったのかとがっかりすることもあります。

外国の歌は感情に訴え、日本の歌は心情に訴える、そんな感じがしますがいかがでしょう。

 

今週の一言

「日本人は左脳で聴く」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。