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やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ360 戦争とSDGsと虹

2022年04月10日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第360回。4月10日、日曜日。

あの遠くはりめぐらせた 妙な柵のそこかしこから
今日も銃声は鳴り響く 夜明け前から
目を覚まされた鳥たちが 燃え立つように舞い上がる
その音に驚かされて 赤ん坊が泣く
  たとえ どんな名前で呼ばれるときも
  花は香り続けるだろう
  たとえ どんな名前の人の庭でも
  花は香り続けるだろう

私の中の父の血と 私の中の母の血と
どちらか選ばせるように 柵は伸びてゆく
  たとえ どんな名前で呼ばれるときも
  花は香り続けるだろう
  たとえ どんな名前の人の庭でも
  花は香り続けるだろう

あのひまわりに訊きにゆけ あのひまわりに訊きにゆけ
どこにでも降り注ぎうるものはないかと
だれにでも降り注ぐ愛はないかと
  たとえ どんな名前で呼ばれるときも
  花は香り続けるだろう
  たとえ どんな名前で呼ばれるときも
  花は香り続けるだろう
          『ひまわり"SUNWARD"』

中島みゆきの1994年の作品ですが、まるで、ウクライナ侵攻を予測したかのような歌です。
「SUNWARD」とは「太陽に向かう」という意味。花の香りに国境はない。
垣根をなくすことは混ざり合うことではない。互いを尊敬しあって生きていくということ。
全ての人に太陽は降り注ぐ。

人はなぜ戦争をしたがるのか。
どんな大義があろうとも、武力、暴力によって相手を組み敷くような、あるいは命を奪うようなことは断じて許されません。許してはなりません。
また、同じ土俵に登って、武力によって武力を制するようなことも許されません。それは、正義を武力によって勝ち取るという手法なのですから。

やはりお釈迦様の説かれる
すべての者は暴力におびえ、
すべての者は死をおそれる。
己が身に引きくらべて、
殺してはならぬ。
殺さしめてはならぬ。

という真理を広めるしかありません。

自ら武器を置くことは勇気がいることです。
しかし、武器は武器を呼ぶ、核は核を連れてくるというのが現実です。
どちらかが先に放棄しなければ、決して平和は訪れないでしょう。
本当に、100年も前に逆戻りしたかのような世界になってきました。
原因は一人の狂った権力者なのかもしれませんが、その一人が生まれる背景もあるのかもしれません。
世界を二分して、どちら側につくかを選ばせるような枠組みは、やはり不安をあおり、焦りを引き起こすようにも思います。
何色かに色分けするのではなく、全ての色を多様性として受け入れていく以外にないのです。
虹がきれいなのは、それぞれの色が自分の色を持っているからであり、混ざり合ってしまえば虹でもないしきれいでも何でもないでしょう。
自らのアイデンティティに誇りを持ち、だからこそ同じように、他人のアイデンティティも尊重する、それが虹の美しさの理由です。
SDGsは17色で表現されています。それぞれのゴールを色で表現したものですが、その目標が美しい世界であることを表しているものと思います。
SDGsの対極にあるものが戦争です。
いわば、戦争は真っ黒、ブラックホールかもしれません。もちろん、SDGsに黒は入っていません。
戦争は持続可能性を完全に否定するものだからです。

しかし今回の出来事では、国連の力のなさを思い知らされて悲しくなりました。
武力によらない解決を図るのが国連の存在意義ではなかったのか。
戦争の始まりを抑止できず、始まってからも止められない。
NATOを「NO ACTION TALK ONLY」つまり、行動しないでしゃべってるだけ、と揶揄されたことがありましたが、国連も同じだと思い知らされたことです。
かといって、国連が軍隊を持つようなことはやはり間違いです。
あくまでも武力を使わないで解決する仕組みを作ることが国連の役割です。
難しい?宇宙に人を送るような科学と技術に使う頭脳があるのなら、それこそ叡智を結集して世界の平和に貢献すべきです。
そして国連は、白、あるいは無色透明であるべきです。何系という色がついた段階で機能を果たせなくなるでしょう。

ひまわりの色は平和の象徴の色に思えました。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンサンラジオ359 古風を慕う

2022年04月03日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第359回。4月3日、日曜日。

4月に入りましたが田んぼはまだ顔を出していません。雪の下です。
当地の春はまだ先のようです。

先週はバタバタと色々ありました。
27日日曜日、岩手県の本葬に参列しました。本寺である正法寺の山主老師と、得度の師である宮城県林泉寺東堂老師と、不肖私で三仏事を勤めました。
28日月曜日、シャンティの総会出席のため上京。新幹線が不通のため、庄内空港から羽田へ。
29日火曜日、東京から永平寺へ。禅師様へ拝問しミャンマーの僧院学校支援の御礼をさせていただきました。また、懐かしい方々と懇親の時間がありました。お山は何年ぶりでしょうか。いつ訪れても心が鎮まります。
その日は門前に泊まり、30日、小松空港から羽田経由で庄内空港へ。
31日朝、会林寺方丈様が遷化されたとの訃報が入り、取るものも取りあえず参上。
前日夕方、本堂の戸締りの途中に倒れそのままだったと。享年95歳でしたがお元気でしたので、あまりの突然に驚きました。
方丈様には一方ならぬお世話になりました。
法類総代であり、松林寺並びに宿用院の責任役員をお願いしていたので、寺のことで何があっても真っ先に相談する方丈様でした。
私たちの仲人でもあり、息子夫婦と2代に亘って結婚式の式師をも勤めていただきました。
永平寺での修行から帰り、しばらく寺のお手伝いをさせていただいた時期がありました。
その間に結婚が決まり、その相手はその寺の檀家の人でもありました。
寺では囲炉裏に炭をおこして暖を取っていました。
ある日、方丈様も奥様も外出して留守番を頼まれていました。
炭をおこそうと思いましたが、私一人なのでもったいないから炭を1個だけガスでおこして囲炉裏にいけました。
煙突を立てたり団扇で扇いだりしますが、炭はおこるどころかだんだん消えかかっていきます。
そこへ方丈様が帰って来られました。
私の様子を見て、笑いながら教えてくれました。
「義道さん、炭は1個ではおきないんだよ。互いに暖め合っておきるんだ。夫婦も同じなんだな」と。
図らずも、炭の教えは仲人による結婚の教示となりました。
その後、毎年正月とお盆には拝登し、お邪魔するたびに子どもたちにお年玉、お小遣いと頂戴してきました。
こんなこともありました。
ずいぶん以前のこと、松林寺の檀家のおじいさんがこんな思い出話をしてくれました。
方丈様が定時制高校の先生をしておられた頃のこと、お顔を知っていた方丈様が自転車で向かってくるのを見かけて声をかけたところ、「何と先生は乗っていた自転車から降りて挨拶してくれた。こんな俺にわざわざ自転車から降りて頭を下げてくれたことが、今でも忘れられない」と。ずいぶん昔のことを昨日のことのように感銘深く話してくれました。
確かにそういう方丈様でした。一時の邂逅が何十年もその人の胸に刻まれるような、そんな行動の人徳の方でした。
新庄市長に押されたこともありましたが、「俺は政治家よりも住職の方が上だと思っているから、人はなかなか上から下へは下りられないものだよ」と冗談交じりに呵々大笑していました。
帝国大学、現東大の印度哲学を修められた方丈様は、月例の坐禅会を何十年と行じられ、宗門の要職の他、市の教育委員長はじめ数々の役職を務められました。
それなのに、名誉や、持ち物、建物などには全く頓着がなく、ある意味、伽藍は朽ちるに任せていました。
寺に居る時はいつも着物を召され、どなたに対しても丁寧な言葉づかいで、やわらかな容顔で向かっておられました。
こよなく煙草を愛し、最期まで手放すことはありませんでした。
毎朝朝課の後に雨戸を開け、夕方決まった時間に閉める。そんな日常を勤めておられました。
冬は建付けの悪い雨戸から雪が吹き込み、朝晩ほうきと塵取りで片づけておられたようです。
その日常はまさに「古風を慕う」禅風そのものでした。
4日に入棺、逮夜。5日に密葬が執り行われます。
方丈様、大変お世話になりました。ありがとうございました。
大寂静中、真位の増崇を祈ります。

本日3日は、午後から松林寺の総代会、役員会を行います。
6月の大般若、護持会総会に向けた協議です。
一気にいろんなことが動いてきました。
季節より前に行事が先に春を迎えたようです。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ358 時間と存在

2022年03月27日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第358回。3月27日、日曜日。

岩手県水沢に来ています。
今日は、龍徳寺27世則昭大和尚の本葬です。
添乗員だった則昭さんは宮城県で出家し、永平寺修行中に私と縁があり、平成5年宿用院で首座を勤めてくれました。
いわば弟子の一人ですが、64歳で逝ってしまいました。
子息二人が僧として成長しているので、まずは一安心しているのではないかと思います。

時は常に流れています。 流れていることこそが時と呼ばれるものですから、留まることはできず、留まった時点で時ではなくなります。
道元禅師は、時間と存在は一体であり、時間がなければ存在はなく、存在がなければ時間もない、と言っています。
ですから、SFのように「時間よ止まれ」と言って自分だけが動いているようなことはあり得ない。時間が止まった時点ですべての存在が消えてしまうというのです。
山を登る「時」にそこに「山」があり、河を渡る「時」にそこに「河」があるのであり、「登る」「渡る」行為のほかに山も河も存在しない。そして、「今」の自分に、登った「時」と「山」が含まれている、という捉え方をします。
要するに、今の自分の生き方以外に時間も存在もないし、世界のすべての存在も過去から未来への時間も、すべて今の自分の行為の中にあるというのが道元禅師の時間の捉え方です。
難しいですね。
過去の自らの行為が過去に置き去りにされているのではなく、今の自分に含まれている、あるいは自分の中に生きている、と言われると忸怩たるものがあります。
忘れ去りたいのに脱ぎ捨てることのできない重さを感じます。
しかし、逆に言うと、その過去の行いが自らの中にあるからこそ、今、仏の生き方に目覚めて今を生きることもできます。
そのように生きなければなりません。 今の生き方が、未来の自分の手枷足枷にならぬよう、慎重に考え行動しなければなりません。

現代社会は、独りで自分を見つめるというようなことがとてもできにくい社会になっていると思います。
暇で退屈な時間を持たせないような仕組みになっているようにも見えます。
ぼんやりと物思いにふけるという時間を奪っているのは、スマホかもしれません。
若い者だけでなく、大人も、退屈な時間を過ごしていないのじゃないでしょうか。
スマホというものは、いわば小さなコンピューターですから、それさえあれば仕事も遊びもどこでもいつでもできるという代物です。
特にそこに待ち構えているゲームは中毒になる可能性があります。
何気なく、手持無沙汰で一度覗いてみれば最後、蟻地獄にはまるように、ズルズルとどこまでも引きずられることになるでしょう。
それはそのはずです。
企業が金をかけて、心理学なども取り入れているのでしょう、抜け出せないようにプログラムされているのですから。
毎日そのゲームに入るとポイントがついたり、特別な道具が手に入ったり、毎日やらないといけないように仕向けられているのです。
さらに、もうちょっとのところでポイントがなくなったりして、課金を誘う仕組みになっています。
少し詳しいのは、自分にも経験があるからです。私の場合、ある程度すると飽きてしまいますが。
いずれにせよ、子どもから大人まで、赤子の手をひねるように簡単にはまってしまうのです。
はまると、常に頭の中にその画面が浮かんで誘われている状態になります。こうなればもう中毒としか言いようがないでしょう。
ゲームにはまることで困るのは、課金もさることながら、もっと重要なのは時間が奪われることです。
時間が奪われるというよりは、生き方の大事を考え行為を見直すチャンスが奪われると言ったらいいでしょうか。
暇で退屈な時間の時間つぶしだったはずが、いつの間にか時間をつくって、あるいはもっと大事な時間を犠牲にしてまでやり続けてしまう。ゲームを中心にして時間を組み立てる。
先ほどの時間の捉え方で言えば、今のゲーム以外に時間も存在もない、というようなことです。
過去の行為の結果、その集大成が今のゲームだというのは空しくないですか。
同じようなことはテレビにも言えます。
その先を観たいという時に限ってコマーシャルが入ります。そのように仕組まれているのです。
続き、続きを観たいように作られています。いつの間にか考える時間が奪われてしまいます。

難しいことかもしれませんが、ほどほどにしておきましょう。
生きるということの大事を見失わないうちに。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ357 憂鬱な彼岸

2022年03月20日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第357回。3月20日、日曜日。

彼岸に入りました。明日が中日です。
大量の雪も大急ぎで沈んできていましたが、昨日また降りました。
例年なら穏やかな春を迎える喜びに浸る時期なのですが、今年は気持ちが晴れません。
16日には福島県沖で大きな地震がありました。18日には岩手沖でもありました。
福島の震源地は昨年2月に発生した場所とほぼ同じところです。専門家は「双子のような地震」と表現しました。
震源に近い山元町の住職に電話を入れました。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃね~よ、まいったよ。」
寺の中も外もぐちゃぐちゃで、ようやく片づけたのにまたかーという嘆きが伝わってきました。
直したばかりの墓石もまた倒れて、檀家さんも力が抜けているということでした。
なんで何度もこんな目にと、天を仰ぎたくなる気持ちが察せられます。
「命が救われただけよし」とはいうものの、年齢にもよるでしょうし、繰り返せば疲労感と虚脱感が募るだろうと思います。
新幹線が脱線し不通になってしまいました。橋梁にも破損があるようなので復旧までにはかなりの日数がかかるようです。
年度またぎの移動の多い時期、またコロナ後の観光を見込んでいただろう人々には更なる失望と打撃となるでしょう。

そして、気が晴れないもう一つの要因はウクライナ。
戦争という殺人はまだ続いています。
戦争は公然たる人殺しです。
子供も老人も病人も妊婦も、もちろん兵士も人間です。それを殺すのは殺人、人殺しです。
それを公然と、いわば世界が見ている前で、堂々と行われているのです。
そんなことが許されていいわけがないでしょう。
「戦争だから仕方ない」みたいに慣れてはいけません。麻痺してはなりません。
一人ひとり、かけがえのない命です。
繰り返し繰り返し「やめろ」と声を上げ続けなければなりません。
大戦後、こういうことが起こらないために国連ができたのではなかったでしょうか。
国連憲章の前文には「善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ」と謳われています。
その常任理事国の一つのトップが自らその精神を踏みにじる行為を犯すことは絶対に許すことができません。
その背景には何があるとか、性格的な問題がどうしたとか、今後の影響とか、だから我が国も核武装をとか、評論家や政治家は好き勝手なことを言っていますが、御託を並べる前にまず、戦争をやめさせろよ、と思います。

その方法は、それは私の頭ではそんないい方法が簡単に浮かぶわけではありません。
が、例えば、大統領を止めるのは大衆国民の声だとすれば、ハッカー集団がテレビ局を乗っ取って海外のニュースを流すことができるなら、そんなことを繰り返しやればいいのではないか。一つの集団だけでなく世界中のハッカーが波状的にやることはできないのか。お金でやるなら募集してどんどんお金をつぎ込んだらどうなのか。
SNSが遮断されたなら、その遮断を解除する方法は考えられないのか。
もっともっと原始的なことを考えれば、風船にビラ、今であれば大量のUSBメモリーとかを付けてロシアに向けて飛ばすことだってやってみたらどうなのだろう。風船がだめならドローンじゃどうなのか。
もう一つは、なぜ日本が仲介役として手を挙げないのか。傍観者の如く制裁に加わるだけでなく、積極的に自らの外交として和平交渉を進める気はないのだろうか。北方領土を挟んで隣国なのだし。出て行ってもおかしくないでしょう。
お友だちの元首相もいるわけだから、大統領を知る政治家や財界の人たちが雁首をそろえて説得に行くぐらいの努力をしてもいいのではないか。たとえ無駄だとしても、「まずは銃を下ろせ、人を殺してはならない」と、「ましてや核兵器を使うことなど唯一の被爆国として絶対に許されない」と、「平和であることが誰にとっても有益なのだ、戦争なんてバカくさいぞ」と、直に言ったらどうなのか。もちろん、行くと言っても来るなと言われるでしょうが、その態度と意思表示はすべきではないか。行けないならオンラインという方法もある。シュワルツェネッガーもビデオメッセージを流したりしてる。
そんな和平への努力をせずに、自分のことだけを考えて核保有などと唱えるのは間違った国づくりだと私は考えます。

彼岸は、春秋の季節のいい時期に、静かに心を落ち着けて先祖に手を合わせ、人のあり方に思いをいたす行事です。
心を鎮めなければいけないのですが、ついついふつふつと怒りがこみ上げてきます。
コロナ、戦争、地震。
憂鬱な彼岸です。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。






サンサンラジオ356 忘れない、忘れたい

2022年03月13日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第356回。3月13日、日曜日。

11回目の3月11日を迎えました。
あの日の午後2時46分、小学2年生のナギは下校途中でした。
高学年はまだ授業中でしたが低学年は既に下校時間を過ぎていたのです。
家を目指していたナギが、大きな地震を受けて、友だちと連れ立って向かった先は家ではなく、指定の高台でした。
「地震が起きたら津波が来るからここに逃げなさい」と学校で教えられていたのです。
あの時、家に向かっていたら、ナギの命はなかったと思います。
父が漁師であるナギの家は跡形もなく流されてしまいました。
小学2年の女の子が、地震が起きて真っ先に頭に浮かぶのはきっとお母さんのことでしょう。
「怖い!お母さん!」と思ったら、家に向かいたくなるだろうに、と思いました。
しかし、ナギと友だちは、冷静に先生の教えを守り指定の場所に向かったのです。
その夜、遅くになってようやく探しに来たお母さんと会うことができました。
それまでの間、寒さと恐怖に震えながら、高台からどんな思いで津波の様子を見ていたのだろうか、家族のことを思いながら「もしお母さんやお父さんが死んでしまったら」と不安で心臓が締め付けられる思いで待っていたのではないか、と想像するだけで胸が痛くなります。
その後11年、ナギとは何度も顔を合わせながら、その時の心境を詳しく聞いたことはありません。
無理に思い出させるのも辛いことかなと思いました。
それにしても、学校の防災教育、避難訓練というのは大事だなと強く感じたことです。

この時期になると「忘れない」という言葉がキーワードのようになりますが、辛い思いをした人には思い出したくない人もいるでしょう。
傷が深ければ深いほど、なるべく考えたくない、忘れていたいと思うのではないかと思うのです。
そういう人がいることを片隅に覚えておかなければなりません。
被災された人が「忘れないで」というのは、自分たちのことをというよりも、「自然を甘く見てはいけない」「いざ災害に遭うと大変なことになる」ということを、自分たちの姿を通して心に刻み「忘れないで欲しい」という気持ちなのではないか。
原発事故も同じ、忘れてはいけないのは、一旦事故を起こしてしまえばとんでもないことになる施設なのだということを、家を追われた人々を通して心に刻んでおかなければならないということでしょう。

プーチンがウクライナに侵攻したのは、ウクライナは弱いと見たからでしょうか。
自分が強い、相手が弱いと思ったとき蹂躙は起こるかもしれません。
しかし、思惑通りに進まなかったのは、それぞれの兵士の士気の違いにあるようです。
ウクライナ兵に銃を向けないロシア兵が同士討ちをしたという報道を読みました。義のない争いほど空しいものはありません。
よその国のことのようですが、わが国にもそのような歴史はありました。
秀吉の朝鮮侵攻は、明(中国)を支配下に置こうという野望計画の中で行われた侵略ですが、それは自分は強いという思い込みによる蛮行だったと言えるでしょう。
時代を超えてプーチンと似ています。
自分が強いと思い込むと、何百年の時を超えて同じ過ちを犯してしまうのだなと思うことです。
その後もこの国は、日清戦争、太平洋戦争と、アジア、東南アジアへと侵攻していきました。
侵略を受けた国の人々は、長年に亘って「忘れない」ことであるはずです。
都合悪いことは忘れて、都合の良いことだけ忘れないということではいけない。
暴力をふるった側は忘れても、ふるわれた側は忘れられないのは当然のこと。

「それが戦争というものだ」「負けたのは国が弱いからだ」と、負けた側が悪いように思いますか?
そう思う人が、軍備拡張が必要だ、核が必要だと言うのです。
その延長線上で、我が国は強いと思ったがプーチンが侵攻命令を出したのでしょう。
軍備を持てば持つほど強いと思い込み、よその国に手を出したくなる、それが残念ながら人間の歴史かもしれません。
しかも、国全体ではなく、時の権力者一人が、国の軍備を自分の強さだと勘違いすることで、自国も他国も不幸に陥れる命令を発してしまうというのが恐ろしいことです。
周りに止める人がいないことで蛮行は引き起こされます。
一党独裁と同じ、政権与党も独裁になれば止めるのが難しくなります。野党を育てていくのが暴走を止める手立てですから、それが民主主義政治を守ることになります。

3月9日の山形新聞に、東京工業大学若松英輔教授の「『弱い人』こそ平和の担い手」と題した特別寄稿が載りました。その一文。
「弱い人」と共にあろうと願うとき、私たちは戦争という選択を支持しない。自らの願いを自らの手で打ち砕くことになるからだ。人としての「弱さ」を自覚できないときこそ、貧しいとさえ言いたくなる「強さ」に正義感を見るようになるのではあるまいか。

もう一つ、中国人作家方方の『武漢日記』の言葉。
ある国の文明度を測る唯一の基準は、弱者に対して国がどういう態度を取るかだ。

忘れたくない言葉です。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ355 戦争は殺人

2022年03月06日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第355回。3月6日、日曜日。

まだ、ロシアによるウクライナ攻撃は収まっていません。
隣の家に土足で入って暴れまわっているのです。
踏み込まれた家の人は「誰か止めてくれ」と願って助けを呼びかけているのですが、なかなか手が出せないようです。
警察ともいうべき国連も、言葉で制止するばかりで実際に手を下すことはできません。
どこまで持ちこたえることができるのか、相手国への兵糧攻めとの時間の勝負のような様相です。
ロシアがウクライナへ侵攻した理由はNATOの東方拡大の阻止だったと思いますが、侵攻の後、ウクライナやモルドバ、ジョージアも急遽加盟申請を行うなど、結果的に逆効果となりました。

そんな中、日本の政治家がおかしなことを言い始めました。
「ウクライナに核がないから攻められた。国を守るために我が国も核を共有しなければならない」というような主旨です。
「そうだそうだ」と同調する政治家もいるようです。
何を考えているのでしょうか。
核を持てば他国が攻めてこなくなるという論理でしょうか。
そのように力によって力を制すという考えは北朝鮮と同じで、いわば「虎の威を借るキツネ」のように、核をチラつかせて言い分を通そうという考えで、それは平和でも何でもありません。
それとも、国民の貧困を隠して軍備増強に走る彼の国を平和国家?として参考にするのでしょうか。
隣が武器を持てばこちらも同じだけの武器を持ちたくなる、それがエスカレートして核の数で対峙していたのが冷戦時代でしょう。
その時代を超えて、話し合い、すなわち外交で戦争を回避してきた人間的な努力を、元の木阿弥に帰すような論理と発言は、この時代においてバカげているとしか思えません。
ここは唯一の被爆国、日本です。「過ちを繰り返しません」と誓った国民です。
被爆した人々もいる前で、核を保有するなどという発想が出てくること自体が考えられません。
逆に、この国がなぜ世界の核廃絶への先導国となれないのか。不思議でなりません。
更には、原発事故で図らずも同じ原子力の怖さを知ったばかりの国です。その痛みを無視するのか。バカバカしいにもほどがあります。

尖閣諸島への中国軍機の飛来やロシア機の北海道飛来の報道を受けて「ほら来た」としたり顔で言ったりする政治家は、心のどこかでそれを望んでいたのでしょうか。
ウクライナへの義勇兵の希望者が殺到したという報道もありました。
義憤に燃えるという気持ちは分からないでもありません。ふつふつと湧いてくる怒りと恐怖に怯える人を助けたいという熱き思いは私にも確かにあります。
ましてや、そのような技術のある人には「現場」へのあこがれもあることでしょう。
実際に機関銃や戦車砲を撃ってみたい、実践で戦ってみたいとワクワクしているでしょうか、もしかしたら人を撃ってみたいという思いもあるかもしれません。
しかし、冷静になりましょう。
敵と見做す相手には、嫌々戦っている兵士もいるはずです。その安否を心配して帰りを待つ家族もいて、家族の元へ帰りたいと願いながら死んでいく兵士もいるでしょう。
戦争はゲームではありません。殺人です。
正当な理由のある殺人などありません。
領土が欲しい、元々は我々のものだった、そんな理由で殺人が正当化されるわけはありません。
野生動物であれば戦ってテリトリーを守る、広げるという行為は自然だと言えます。
しかし、人間は野生動物ですか?
言葉を持ち、智慧があり、他の痛みを感じる慈悲心があります。

鎖国でもしない限り、他国と共に生きていく以外の選択肢はありません。
主張の違いは武力ではなく話し合いによって解決していく、それがグローバル社会の条件です。
世界大戦後の外交努力による平和の流れを台無しにする今回の行為は、未来に禍根を残す大きな汚点となるでしょう。
そういう視点で観れば、安全のためにもっと強力な武器を持つべきだという論理は、武力侵攻の意図と通底する時代錯誤の論理だと言わなければなりません。
互いに違いを認め合い、多様性をモザイクのような美しさと受け止める人間関係、社会こそが、未来に平和をもたらす唯一の捉え方だと考えます。「理想論だ」と笑いたければ笑えばいい。
理想を目指して現実を変えていくのか、現実を見て理想を見失うのかの選択です。
みんな、もう少し利口になろうよ。
命は全てつながっていて、相手の幸せなくして自分の幸せなどないのです。
相手を傷つけ、不幸にして自分が幸せになれるわけがないのです。

ウクライナの国旗は、青い空と黄色い麦畑を表していると知りました。
この国に、青い空の下穀物を収穫する、穏やかで笑顔に満ちた生活が戻ることを心より祈ります。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。




サンサンラジオ354 ウクライナ侵攻

2022年02月27日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第354回。2月27日、日曜日。

カーリングロスのような余韻に浸っていたら、冷や水を浴びせかけられました。
米大統領が「侵攻することを確信している」などと言っても、それは煽っているだけではないのか、まさか本当に軍事侵攻するなどというバカげたことを今さらこの時代にあり得ないだろう、と思っていました。
そのまさかが起こってしまいました。
「平和維持軍」という矛盾。
軍隊で維持される平和というのは平和と呼べないでしょう。
武力で守らなければならないというのは、裏返せば戦闘状態を意味し、その事態そのものが平和ではないということは明らかです。
たとえば、隣の家が攻めてくるかもしれないから家族を守るために武装するというような環境は、生活の場として穏やかではなく、とてもとても平和と呼べる状態ではないでしょう。
そして事態は日を追うごとに更に悪化し、ウクライナ全土で空爆やミサイル攻撃、軍用車が首都に入るという緊迫した状況になってきました。
冷戦と呼ばれた二大大国のにらみ合いの時代を過ぎて、小国の問題は数々ありながら、再び大国が世界を二分するような暴挙に出るとは考えられませんでした。
力による現状変更が許されるならば、それなら我が国もと、虎視眈々と狙っている国にとっての正当化理由、起爆剤になるものと思われます。
そんなことが世界のあちこちに起こったならば、もう世界は無秩序、だれも止められない。それは国同士だけではなく、国民同士にも波及し、国の内外で奪い合い、殺し合い、強いものが弱い者を蹂躙する地獄と化すかもしれません。
なんてバカげたことをしてしまったんだと思うのですが、もしかしたら、日本人はアメリカをはじめいわゆる西側諸国の情報をもとに状況を見聞しているので、果たしてその裏側には何かがあるのではないかと考えないわけにはいきません。

元朝日新聞論説委員、朝日町在住の長岡昇氏は「情報屋台2022/2/25」で次のように書いています。

ソ連崩壊後、ロシアは政治的にも経済的にも混乱状態に陥り、NATOの東方拡大に対処する余裕がなかった。NATOの東縁はじわじわとロシアに迫り、ついにロシアと直接、国境を接するウクライナに到達しようとしている。
経済を立て直し、国力を回復したロシアのプーチン大統領が「NATOのウクライナへの拡大」に強い危機感を抱いたのは、理解できないことではない。2008年のNATO加盟国との首脳会談で、プーチン大統領は「ウクライナがNATOに加盟するなら、ロシアはウクライナと戦争をする用意がある」と発言している。
旧共産圏の東欧諸国や旧ソ連の構成国であるウクライナがNATOに加盟するということは、単に軍事同盟の組み合わせが変わる、ということだけにとどまらない。戦闘機や戦車といった武器体系がロシア製から米英製に切り替わることを意味する。そのビジネス上の損得は極めて大きい。
それ以上に深刻なのは、旧共産圏諸国が持っていた暗号解読を含む軍事機密情報が米英の手に渡ることだ。軍事情報が戦争で果たす役割は、IT革命の進展に伴ってますます大きくなってきている。かつての同盟国の寝返りは死活に直結する、と言っていい。「ウクライナ侵攻 追い詰められた熊が牙をむいた
(から抜粋)

ロシアが侵攻したりする可能性があるからウクライナがNATOへの加盟を望んだのだろう、原因はロシア側にあると思っていましたが、問題はそう単純ではないようです。
そうだとしても、どんな背景、理由があろうとも、隣の家に土足で踏み込んで暴力をふるうという行為が許されるわけではありません。

この時代において、武力によって他国を侵略するというような前時代的なことが本当に起こるのだと思い知らされたショックは大きいです。
ミャンマーもアフガニスタンも国内におけるクーデターは起こりましたが、他国に攻めるわけではないので、内政干渉と言われてしまえば外部の人間にできることは限られてしまいます。
それでも、クーデターや紛争、戦争によって真っ先に傷つけられるのは無防備な市民であり、為政者は安全なところで指示を出すだけという構図は変わりません。
では、我々市民は何ができるのか。何をすべきなのか。
自分に火の粉がかぶらなければ対岸の火事として黙ってみている以外にないのか。
こんな時に仏教の役割はないのか。と考えます。
デモやシュプレヒコール、SNS上での発信も必要かと思います。
それよりももっと根本的なこと、それは自分自身が争いの構図に与しないこと。
自ら武器を持たないこと。荒々しい言葉を発しないこと。
自分自身が静寂な心を保ち続けること。
いわば、一人ひとりの心の平和を保ち、広げ、伝播していくこと。
心の静かな人が清々しく見え、そのような姿にあこがれを持ち、私もああいう人になりたいと思う、そういう人になっていくこと。
お釈迦様の姿を想念し、そのお姿を胸に抱き、そのようにありたいと強く願う。
そういうことから始めたいと思います。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ353 カーリングに人生をみる

2022年02月20日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第353回。2月20日、日曜日。

先週は三日ほど寝ました。
風邪かなと思ったのですが、熱はなく、咳も鼻水もありません。ただ、身体がだるく、節々がこわばり、眠い。
ほとんど外部との接触はないので感染症でもないでしょう。
下痢があることから、孫の胃腸炎がうつったのかなと思います。
横になるだけでなくほとんど眠っていて、よくこれだけ眠れるものだと感心しました。
今はもう全快しています。

2月15日、涅槃会を勤めました。
前日、梅花講の皆さんでいつものようにだんごを丸めていただき、カラフルな「涅槃だんご」がたくさん出来上がりました。
当日はお経と御詠歌奉詠、お話の後、例年であれば盛大にだんごをまくのですが、感染予防を考え去年同様今年も袋に詰めてお渡しする方法にとどめました。
涅槃会はこの辺りでは「だんごまぎ」と称されるほど、盛大にまいてみんなで大騒ぎしながら拾う、という行持なので、まかないのは静かで寂しい涅槃会です。
そんなに拾ってどうするんだろう、と疑問に思うほど、まけばまいただけ、みなさん必死に拾います。粉にまみれるのもお構いなく、「こっちゃまげー」と両手を広げ、さらには腰に風呂敷を巻いて広げて受け止めようとします。
隣を見ると、近くに落ちただんごをいちいち拾わずにとにかくひざ元にかき集め、後から袋に詰めようという作戦です。
たくさん拾っただんごは親戚や友人に分けようというのですから、それはそれで意味のあることなのですが、それ以前のまく、ひろう、という行為は、要不要を超えた動物的本能のような欲求を満たす行為なのかもしれません。
雪国の冬は、そんなこともストレス解消として活用してきたものなのでしょう。
節分の豆まきとも通ずるイベントの意味合いを感じます。

冬期オリンピックも今日が最終日のようです。
嬉しそうに喜んでいる姿には素直に「よかったね」と共感を覚えます。
カーリングは今日、なんと決勝を迎えます。準決勝はしびれました。
前々回大会からか、カーリングが気になり、その競技の面白さにはまっています。
1試合2~3時間もかかるので、テレビで観るのもとても大変なのですが、見始めると目が離せなくなり、ついつい観てしまうということになります。一昨日も、私にとっては夜中ですが、観てしましました。
4人一組のチーム戦で、相手チームと交互に一人2投ずつストーンを投げ合い、最後にどちらのチームが中心に一番近い石を残したかを数えて1エンド。それを10エンド行うという試合です。
点数になるのは最後に残った石ですから、最後の4人目に投げる人の石が重要なのですが、それまでにそのステージをどのように組み立てていくかというセットアップの1投1投が、一つも無駄にできない重要な意味を持つということが、長く観ていると分かってきます。
このカーリングを観ていて、人生のようだと感じます。

舞台は、長四角い氷の上。
人生の目標に向かって、夢や計画をトライしていく。
しかし、一見平らかのように見える行路が、実はよく見ると氷の粒々で覆われていて、この粒によって思わぬ方向に曲がったり、届かなかったり行きすぎたりする。しかも、その状態は気温によっても刻々と変わってくる。
さらに、この舞台には、同じように夢を実現しようとトライしているグループもいる。
相手には相手の都合があり、計画がぶつかったり、お互いに存在が障害になったりする。
いわば思い通りにならないのが社会というものだ。
ただ、自分には仲間がいる。一人で戦っているのではないのだ。
声をかけ合い、相談し合い、状況を読み、判断し、力を合わせて目標に近づけていくことができる。
そのためには、常日頃からコミュニケーションをとり、理解し、信頼していなければならない。
それさえできていれば、たとえ失敗したとしても、励まし合い、支え合って立ち直ることができる。
ミスも成功も分かち合い、悲しみも喜びも分け合っていくことができる。
大事なのは共に生きているということ。それを知っていること。
その上で、自分の役割に自信を持ち、一投一投に心をこめていく。
ゲームの終了はコンシード。自ら負けを認め相手を祝福する。将棋の「投了」に近いと言われるゲームオーバーの仕方だ。
人生にも審判はいない。最期を自分で認めていく以外にない。
周囲に敬意を払い、感謝で立ち去るのがいい。

そんな姿を、カーリングの試合に重ね合わせて観ていました。
人生は曲がりながら真っすぐ。カーリングだよ人生は。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。





サンサンラジオ352 オリンピック報道

2022年02月13日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第352回。2月13日、日曜日。

先週予告した35日閻魔大王の審判は無事に終わりました。
浄玻璃の鏡ならぬMRIに入り、脳内を隈なく(外見ですが)診ていただいた結果、「異状はありません。もうこれで診察は終わりです」とのこと。
「え、もういいんですか?」と聞き直したところ、「硬膜下血腫の症状が出るならば1か月の間に現れるので今大丈夫ということは1か月前の転倒の影響はないということです」付け加えて「ただし、これから転んだら知りませんよ」と、無罪放免です。
色んな前例を聞かされていたので心配していましたが安心しました。
お祝の盃をあげたことは当然と言えば当然でしょう。
MRIを受診する前に注意事項を確認します。金属などを身につけていないか、ペースメーカーなどが入っていないか、エレキバンなどを貼っていないか、そしてその中に、刺青を入れていないか、というのがあって、前回も気になったので聞いてみました。
すると、「染料がダメみたいですね。せっかくきれいに入れたものがダメになたらもったいないですからね」とのこと。
ふーん、そうなんだ。
もしかしたら以前に、色が変わって恐いクレームがあったりしたのかなと想像しました。
刺青の人はMRI診断ができないのか、それとも変色することを承諾の上で受けてもらうということなのか、色々考え勉強になりました。

オリンピックが盛んです。
テレビの放送を観ていて考えました。
競技の前に色々情報を流して期待をあおるのはやめた方がいいのではないですか。
試合の結果だけを放送し、メダルを獲得した人は盛大に褒め称えればいいでしょう。
それでなくとも、4年に一度の大舞台で極度の緊張をしている選手に、更にプレッシャーを覆いかぶせてどうするんですか。
あんな小さな女性が空を飛ぼうという時に、みんなで翼を押さえつけるようなものです。
結果が出るまで静かに見守ったらいいと思います。
ましてや、謝罪をしなければならない理由などさらさらないのに、そうせざるを得ないと思わせてしまったのは海の向こうからのプレッシャー以外にないと思うのです。
選手に過度の期待をかけ、そのために緊張を増加させ、結果としてのびのびとした試合ができなくなるのだとしたら、それは選手にとっても観る側にとっても残念な結果になるでしょう。期待を裏切られたなどと国民ががっかりすることにもなります。
事前に放送するとすれば、全ての協議の日程と出場するすべての日本人選手だけでいいでしょう。
就中NHKはと思います。以前はそうだったように思いますが。
民放は視聴率と広告収入の関係がありますから、人気の観たい競技を選択するのは仕方がないことと思います。
それと同じことを、国民からの税金(?)で放送しているNHKがやってどうするのだと、なかば憤慨しています。
カメラを向けられない選手もたくさんいて、その家族もその姿を観たいと思っているでしょう。出場することだけで名誉なことなのですから、そのことを褒め称え、応援する国民でありたいと思います。
選手には、一生のうちで何度ともない晴れの舞台を、生き生きと楽しんでもらいたいと思います。
出場することが苦痛であってはなりません。
ましてや、勝手に期待して、勝手にガッカリして、あまつさえ、バッシングするような、そんなオリンピックになっているのだとすれば、むしろない方がいいと思います。報道の在り方に疑問を感じます。
更には、政治や経済のために選手が利用されているようなことでは本来の意味が曲げられていると言わなければなりません。
「参加することに意義がある」というシンプルなオリンピックの基本的な考えが、時代とともに、「オリンピックは勝つこと」「オリンピックはメダルの数」と変革してしまったことは、オリンピックそのものの存在意義が問われるべき状況だと考えます。
いずれにせよ、今参加している選手たちには、楽しくのびのびとパフォーマンスを披露してもらい、堂々と胸を張って帰国してもらいたいと願います。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ351 大欲と少欲

2022年02月06日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第351回。2月6日、日曜日。

立春です。家族と節分も勤めました。
雪の多い年ですが、間もなく三寒四温、少しずつ雪も解けていくでしょう。もう少しの辛抱です。

浄玻璃の鏡の前に立つまでは秘めておきたしあのこともこのことも 相田みつを
明日、後頭部強打の1か月検診です。
ちょうど五七日目で、中陰であればまさに閻魔大王直々の審判の日です。
今のところ外面では異常は出ていないのですが、脳の内部のことですからね、どうなっているか分かりません。
自分では見えないところで進行しているということもあり得ます。
隠しておきたいあのことも、忘れていたそのことも、MRIという浄玻璃の鏡には全部映ってしまうのでしょう。
もう俎板の鯉ですから、しかたない、隅々まで徹底的にさらけ出して見てもらいましょう。
その上での大王の審判ですから受け入れるしかありません。

小さな欲にとらわれ惑わされて、今すべきこと、しなければならないこと、あの時こうしておけばよかったなと後悔するようなこと、を仕損じることがあってはなりません。
今でなければ間に合わないことがあります。
時は間断なく過ぎていき、自分も相手も変わっていく、あるいは亡くなっていくのですから、今でなければならないことがあるのです。
なのに、どうでもいい小さな欲にとらわれ、すべきことができないのは残念なことです。

たとえば、あなたが国の王様だとします。
今、高い塔の上に立って国と民を眺めています。
「この国を治め、民に幸せをもたらすにはどうすればいいだろうか」と思案しているとします。
「争いがなく、豊かで、子どもの笑い声が絶えず、老人が大切にされ、お互いがお互いを尊敬しあう、穏やかな国を作るためには」と考えています。
そのような大局に立って、国全体の幸せを願う王の願いは、いわば「大欲」と言っていいでしょう。
その時に、権力や、名誉や、金銭や、女などの小さな欲に目がくらみ、惑わされてしまえば、大局を見誤り、大欲が果たせないことにもなりかねません。
大欲が強ければ強いほど、小欲はどうでもよくなってしまうはずです。
あなたが王様でなくとも、あなたの家族、親戚、友人、仲間、地域、国、世界、全ての人々の幸せを願うという大欲があれば、些細な欲に振り回されることもないでしょう。
小欲がたくさんあるよりは、大欲が一つ、その方が生きる道を誤らず、生まれて生きて来た意味を実感できるように思います。
それは「少欲」だ、と言ってもいいでしょう。

「四無量心」の「無量」とは何か、と考えていましたが、この「大欲」と同じ意味だと思いました。
自分の幸せを願う心を、家族、仲間、地域と、少しづつ広げて行って、無量のすべての人々の幸せを願うという思い、それが「無量」ということなのでしょう。いわば、それは「大欲」だと気づきました。
大欲によって小欲をつぶしていく、取るに足らない欲であると、とらわれなくなっていく。
ただし、大欲を持つ年齢というものがあるように思います。
赤ん坊から子供時代には目の前の小欲以外ないでしょう。
脳の大部分が性欲に占有されているニキビ時代には大欲は無理でしょう。
企業戦士としてバリバリ働いている時は、競争という原理の中でしかものを考えられないでしょうから、やはり難しいと思います。
少し枯れかかってきている年代が大欲の適期のように思います。

もちろん人にもよります。
国内外の為政者、政治家などを見ていると、自分のための小欲のかたまりなのではないかと思われてなりません。
自分第一の欲しか持ち合わせない人以外は政治家になれないかのようです。
お釈迦様が国王であったならどんなにか素晴らしい国になっただろうに。
いや、お釈迦様は国を超えたのですね。
国の垣根を超えて、また人間という垣根も超えて、無量の「慈悲喜捨」の心をもって法を説かれたのです。
国王などにおさまる人ではなかった。
そんな人になりたいと思います。

まず、とりあえずは明日の大王の審判次第。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。