なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ497 縁に随って

2024年12月15日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第497回。令和6年12月15日、日曜日。

 

今年も押し迫り、来年の予定表の書き込みを行っています。

定期的な用事も大分あるので、忘れずに書いておかなければなりません。

その他にも依頼を受けた講演など、決まっている用事が数件あります。

それに今年の予定表を見ながら、来年の予測をして予定を書き込んでおきます。

既に法事の予約も何件か入っているのでそれも記入します。

すると、予定表がだんだん埋まってきて、何だか来年も終わってしまったような感覚を覚えます。

予定があるだけありがたいことだと受け止めて、一つ一つ立ち向かって行きます。

 

予定があろうがなかろうが、誰にでも日々時間は目の前に立ち現われ、開かれ、迫ってきます。

その時の自分の状態を予測することはできません。

冷静な判断ができるようにはしておきたいと思いますが、間違った選択をしてしまうこともあるでしょう。

道元禅師が「善悪は縁に随って起こる」と言うように、物事は他との関係性の中で進んで行くものですから、善悪も規定されたものではありません。

自分自身が不安定で不確かなものですから、自分以外の存在との関係が確かなものであるはずがありません。

不安定な要素を含む不確かな状況にその都度対処していかなければならないのが現実です。

自分を棚に上げて他を責めることだけは止めておきましょう。

不確かな善悪を振りかざして相手を責めるのは土台間違いです。

自分に間違いがあると感じている人は他を責めませんが、自分は正しい、善であると思う人が他を責めるのです。

自分も間違うように相手も間違う、だから許せるのです。

個人と個人の関係でもその通りですが、国家間でも同じことが言えるでしょう。

各国の不安定な情勢を見ながら、みんな謙虚であればいいのになと思うことしきりです。

他を責めない、許し合う、それが平和というものであるし、仏教の基本的な考え方だと言えます。

そんなことをしたら他から攻められると、一見弱そうに感じるかもしれませんが、それが最も強い意志によるものだと確信したいと思います。

仏教の基本的な教えは「不害の教え」です。

 

間もなく「山と水と、」今年の新酒が出来上がります。

昨年までは12月に仕込んで1月にできる1回の仕込みでしたが、今年は量を増やし2回の仕込みにしました。

その1回目の完成を正月に間に合わせるべく、11月に仕込みました。

但し1回目は生原酒のみです。例年の生酒と火入れ酒は2回目の仕込み2月の完成となります。

当初完成予定は12月20頃と想定していましたが、発酵が遅れているらしく、もう少し先になりそうです。

なにせ発酵は菌まかせなので菌に聞かなければなりません。

和田酒造さんからは「今年もいい出来になっていますよ」とのことなので楽しみに待ちます。

なので、販売は23日の週になる模様です。

昨年までの先行予約販売は行わず、直接販売とします。

町内酒販店での販売開始は未定ですが、メールでの申し込みはこちらで受けたいと思います。

「山と水と、」生原酒、720ml、1980円(税込)。

宅配便で送りますので、専用の箱代、代引き料、送料着払いがかかります。

以下のメールアドレスに、住所、氏名、電話相談、本数をお書きの上お申し込みください。

生酒と火入れ酒ご希望の方は1月末頃お申し込みください。

shorin@cup.ocn.ne.jp 松林寺

 

今週の一言

「善悪は縁に随って起こる」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンデーサンライズ496 成道会

2024年12月08日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第496回。令和6年12月8日、日曜日。

 

先週は断続的にみぞれが降りましたがもちろん積もるほどではありませんでした。

一転昨日は、いわゆる雪が本格的に降り、少し積もりました。

今期初めての除雪機始動です。

 

昨日はボランティア会の古い仲間が取材のために新庄まで来たので、一緒にホテルに泊まり、鴨すきをつつきながらしゃべり、スナックで少し歌も歌いました。

本来、昨日まで蝋八接心で本日は成道会なのに何ということでしょう。

蠟八(ろうはつ)とは、蠟月八日つまり12月8日のことで、修行道場ではお釈迦様の成道の故事に倣い、この日に向けて12月1日から坐り詰めの行が行われます。それを接心(せっしん)と呼びます。

修行時代の一座目、維那和尚さんの「これより接心!」と宣言する新潟なまりの大音声に堂内がピーンと引き締まった記憶がよみがえります。

もちろん、道場だけでなく、一般寺院でも各々まじめに行じられる方もいます。

私は毎朝の坐禅に集約して特別に通常と変わったことはありません。

成道会の法要は12月1日、梅花講の総会で講員のみんなと勤めました。

だとしてもねえ。

彼が今日だというので仕方ありませんでした、と彼のせいにしておきます。

 

永平寺に居た時に成道に因んで詠んだ句があります。

 蝋接心 差定をながめ ながめ坐す

7日間、朝の3時から夜9時まで僧堂で坐り詰めの坐禅が続きます。普段は法堂で行じられる朝課も接心中は僧堂で坐ったまま行います。回廊掃除とトイレ以外は三度の食事も坐禅のままです。一日最大14坐ほど坐ります。最後の夜は日が変わるまで続けられるので、合計すると1週間で100回ほどの坐禅を行ずることになります。その差定(プログラム)が書かれた紙を何度もながめながら、どこまで来た、後何回と指折り数えて坐る心を詠みました。

 経を読む 白き息満つ 成道会

12月8日に日付が変わり、大開静の鐘が鳴るとようやく坐禅から解放されて、僧たちは列をなして僧堂から仏殿へ赴きます。お祝いの五味粥を一さじ掌に受けて口にし、成道を祝うお経を読むのです。仏殿を埋め尽くす200名近い僧が経を読む白い息で堂内がかすむほどです。疲労感とともにやり遂げたという何とも言えない満足感で胸がいっぱいになります。

 満堂に 成道祝う 僧の髭

接心中は本来風呂にも入らず頭も髭も剃りません。参拝者と接する役の僧はその限りではありませんが、特に役にあたらない僧は1週間頭も髭も伸ばしたままです。仏殿で経を読むその顔は、苦行を終えた釈尊のように荒々しく逞しく見えます。接心前と比べて一回り大きくなったようにも感じられます。

 

今年も多くの修行僧が接心を通して一回り成長したことでしょう。

毎年毎日繰り返される同じ行によって、新たな僧を育てていくのです。

僧とは行のことだと言っても過言ではありません。

仏道を行ずるのが僧なのです。行じないのは僧ではありません。

半僧半俗、在家と対比するのは出家なのですが、残念ながらこの国の多くの僧は出家とは言い難い状態です。それでも僧ではあります。

東南アジアなどのテラワーダ仏教では、出家と在家は10か0かで、半僧半俗というような中途半端な状態にはなり得ません。

今我々は在家と変わらない生活を送っている、その内容からして半分どころか2対8、1対9であっても、僧は在家ではありません。

では何を以て僧であると言えるのか、私はこう思います。

1,浄髪 頭を剃ること

原始仏教以来、僧を在家と区別する形として、頭を丸めることと袈裟を身に纏うことになりました。

それは恩愛を断つ意思表示で、周囲の人から見て「あれは僧だ」と判別され、衆目の力を借りて自らを僧らしい振舞いに規制する意味であったはずです。

2,暁天・朝課 朝の坐禅とお勤めを行ずること

曹洞宗の命脈は坐禅です。最低限この二つを以て、宗門の僧は自らを僧であると言える確信としていいのではないか、と思います。

 

今週の一言

「僧である自覚を忘れない」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 

 


サンデーサンライズ495 雪が来た

2024年12月01日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第495回。令和6年12月1日、日曜日。

 

12月、師走になりました。

今月も若干出かけることはありますが、割と落ち着いて来年の準備が出来そうです。

「寺の銀杏が散ると雪が降る」の謂われの通りとなりました。

先週、銀杏の葉について書きました。

あの後、火曜日の朝に強い霜が降り残っていた葉が一気に全て散りました。

この、ある意味潔さは気持ちがいいほどです。

風もなかったので、片付けも今のうちにやらないとと思い、手伝いを要請して4人で一気に片づけました。

次の日には雨が降り出したので間一髪でした。

「濡れ落ち葉」という隠語があるほど、雨に降られると落ち葉は地面にくっついて離れず、特に銀杏葉は片付けるのが難儀です。

躊躇しているうちに雪など降られてしまったら春までそのままになってしまう、と思っていたら、金曜日の朝、来ました雪が。

銀杏葉の片付けを絶妙のタイミングで終えることができホッとしています。

偶然に前日に葉のある写真を撮ってくれた人がいて、一朝のビフォーアフターを比べることができました。

自然の妙を感じます。

 

先週の日曜日千秋楽を迎えた大相撲11月場所。

大関琴櫻が見事優勝を果たしました。

先場所の様子を持て優勝はまだ先かと思っていました。

琴櫻ファンの皆様、大変失礼しました。

どうも先場所は腰痛があったようで、8勝7敗の成績に終わったのはその影響もあったようです。

以前から気になっていた最後の塩の時の鬼の形相ですが、解説の琴風さんによれば、「優しい子なんですよ、あの形相も以前は自分の気持ちを鼓舞するために無理に気合を入れていたようですが、今場所は自然に内から出ているように見えますね」と。

子どもの頃から見てきたいわばおじさんの見方ですから、きっとそうなのでしょう。

確かに今場所は、力が入りすぎて動きが硬いという感じもなく、どっしりと落ち着いて相撲が取れていたように見えました。

14日目の大の里戦の勝ち方は見事でしたね。

来場所は綱取りの場所になります。

これはひょっとするとひょっとするかもしれません。

大谷翔平が50・50をすんなり達成したように、意外とあっさりとなってしまうかもしれませんね。

今の大相撲界は、以前のように強い力士は絶対的に強いという様相ではなく、次から次へとおもしろい力士が顔を出してきて、目が離せない状況にあるように思います。

観ていても琴櫻だけでなく気になる力士がたくさんいます。おもしろい世代です。

来場所も楽しみにしていましょう。

 

外の冬支度は終わりましたが、事務仕事として片付けておかなければならないものがいくつかあります。

花の鶴楯の事業会計報告書提出、新酒販売開始の配布物、連絡業務、新酒を楽しむ会の設定など。

布教師養成所の事前学習、主題講話の原稿などもあります。

寺の方でも、年回表の準備、お札の準備、大掃除など正月に向けた準備も視野に入れておかなければなりません。

ということで、師走の名の通り気ぜわしさを感じる月となりました。

年賀状は出さないことにしたので、その分は事務仕事が軽減されます。

今年も色々ありました。

後もう少し、「忙中閑あり」で今月を過ごしたいと思います。

 

今週の一言

「忙しいかどうかは、主観」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 

 

 


サンデーサンライズ494 銀杏が散れば雪が降る

2024年11月24日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第494回。令和6年11月24日、日曜日。

 

旅行中に一度うっすらと雪が降ったようです。

「寺の銀杏が散ると雪が降る」と地元の人間に言われているので、本格的な雪はもう少し先だと思われます。

先日の旅行を楽しみに今月初めからの業務を頑張ってきました。

19日に帰って来て心地よい脱力感に包まれています。

想定通り、底が抜けるぐらい楽しい旅でした。

旅館の朝食で飲み、昼食で飲み、もちろん夕食で飲み、移動のバスの中で飲み、飲まないのは飛行機の中だけでした。

さすがに飛行機の中でやかんを回すことはしませんでした。

それだけ飲んでも誰一人潰れる者はなく、周りに迷惑をかけることもなく、自分の足でしっかりと歩き観光地を巡りました。なかなかたいしたものです。

松江城の堀川めぐりでは船頭さんの歌に誘われて故郷の民謡を歌ったりして、あいにくの雨も全く気にならないぐらい楽しく過ごしました。

「目のお薬師様」一畑薬師として有名な臨済宗一畑寺にも参詣し、一畑薬師教団の管長でもある住職さんからお話を聴くことができました。

その際、ショルダーバッグを足元に置き忘れてしまいましたが140段の石段の下で思い出し事なきを得ました。

話を聴くまでは目が曇っていましたが、話を聴いて心眼が開けて思い出したんだなと、勝手に解釈しました。

出雲大社の参詣でいろんな縁が結ばれ、更に心の目が開けたかもかもしれません。

誰一人批判的な発言をする者もなく、和合和睦の旅となりました。そうなるような準備はしたつもりです。

今際の際(いまわのきわ)に思い出して微笑むほど楽しい想い出になればいいと思います。

 

寺に帰って来て、手つかずにいた冬支度に取り掛かりました。

植木の方は常にお願いしている人に留守中に済ませてもらいました。

その他に、本堂と庫裡の周囲の窓を囲い、盆栽を片付け、亀とメダカを屋内に移動し、池の鯉を籠で囲って、銀杏葉を片付けるという作業があります。

今年は雪が多いのか少ないのか、分からないけど多い時に備えておかなければなりません。

雪の降らない地方にはこのような作業も必要ないのだと思いながら、ここに棲む者の宿命と受け止めて黙々と続ける以外にありません。

 

最上の地酒を創る会の酒造りも進んでいます。

今年は2回に分けて仕込むことになり、第1回目は正月に間に合わせるよう今月から水の搬送を行いました。

米と水を最上町産にこだわり、酒米出羽燦燦は代表の奥山君が作っています。

水は三和食品さんの湧き水を汲んで運んでいます。

酒造りはいわゆる三段仕込みと呼ばれる方法で造られます。

まずは米と麹と水で酛である酒母を造り、そこに初添え、仲添え、留添えと三回に分けて蒸し米と麹と水を加えて増やしていきます。

その水をその都度全て最上町から河北町の和田酒造さんに運んでいるのです。

会の作業としてはこれが一番大変ですが、和田酒造さんから「この酒はこの水がいいからこの味が出るのだろう」とお墨付きをいただいているので、会員手分けして運んでいます。

1回目の留添えが21日だったので、20日にその分の水600ℓを運んできました。

後は和田酒造さんにお任せです。

第2回目の仕込みも12月25日の酒母造りから始まるので、同じように数回に分けて水運びが続きます。

全ては旨い酒ができるため、町の人々を喜ばせるための作業です。そして、会員の特権で真っ先にその味見をするためでもあります。

今年もいい酒ができますように。

 

今週の一言

「喜びの、三段仕込み」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 


サンデーサンライズ493 役に立つのか

2024年11月17日 04時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第493回。令和6年11月17日、日曜日。

 

先週は木曜日に北海道から戻り、日曜日から東京でした。

今年度2回目の布教師養成所で金曜日まで研修道場に詰めていました。

今年度の年間テーマを「法が良薬ならば」として、現代社会の苦悩に仏法がどう応えられるのかを勉強しています。

その発想の原点は「現代社会に仏教は役に立つのか」という問いからです。

もし現代社会の苦悩に仏教が役立てていないのだとすれば、それは現代に生きる我々僧侶の責任であると言わなければなりません。

仏教・仏法が役に立つのかではなく、僧侶が「役に立てているか」の問題です。

お釈迦様の教えが2600年ほどの長きにわたって生き続けてきたのは、その時その時代の苦悩に仏教が寄り添い、衆生の救いとなってきたからに違いありません。

そこで今年度は、現代の苦悩を3つに分類し、7月の第1回は「根本苦、スピリチャル・ペイン」つまり、生老病死をはじめとする根本的な苦悩について、どんな薬・法を伝えられるかを学んできました。

第2回目の今回は「社会苦、ソーシャル・ペイン」についてでした。

「社会苦」とくくられるものには多種多様な苦悩があります。

今回養成所員が対象として設定した現場は、中高生、フリースクール、いじめ、教職員、保護者会、養護施設、人権学習、LGBTQ、SNSの問題、思春期の子どもと親、子育てママ、介護職員、過疎問題、環境ボランティア、被災者のつどい、北方領土の島民、平和のつどい等々。

実に多様な現場の苦悩に真剣に向き合って法話を作成してくれました。

その一つ一つの実演に対して、講師と所員が率直な感想や意見を述べ合い、ブラッシュアップしていきます。

50名の所員の実演が2回ずつ、研修課程の所員はさらに一般聴聞者を前にした「法話の会」と、とげぬき地蔵さんでの辻説法も行い、5日間で計100回以上の法話を聴きました。まさに飽和状態です。

今後、多くの布教師が上記のような現場に出向き実際に布教を行っていけば、社会の目は変わってくるだろうと思います。

「お坊さんもこういう問題を真剣に考え向き合っているんだ」「抹香臭い話だけじゃないんだ」という気づきから「今度お寺に行って和尚に相談してみよう」と思ってくれるのではないかと期待します。

お寺と和尚の存在意義の再構築です。

第3回目は2月に「生きがい苦、ライフプラン・ペイン」を対象として研鑽を重ねます。

 

金曜日に松林寺に戻り、今日から檀家衆と出雲方面への旅行です。

男性13名女性27名、総勢40名の団体です。

これを楽しみにして今月前半頑張ってきました。

松林寺団参恒例のやかんも準備しました。クーラーボックスに焼酎と割物も詰めて飛行機に載せていきます。

バスの中でこぼさないように、やかんに氷と焼酎と割物を入れて飲み具合のいい酒を作ってカップに注ぐのです。

以前は、調理用のボールに作りお玉で掬っていましたが、走行中の酔っぱらいはこぼしてばかりでさんざんな目に遭いました。

その反省から、このような形になったのです。今では松林寺の定番です。

そのまま飲める蓋つきのプラカップも用意しました。蓋にそれぞれの名前を書くためのマジックペンも忘れていません。

バスの席に貼る名前のタックシールをバス会社に送ってあります。

隣の席が誰かによって旅行は楽しくもなりつまらなくもなります。顔を思い浮かべながら組み合わせて指定席にしました。もちろん宿の部屋割も完璧です!

その場面を想像しながら準備を進めていくのが何よりも好きです。

きっと帰り着くまで笑い続け飲み続けることでしょう。ああ楽しみ。

 

今週の言葉

「楽しみは、自分で作る」

 

今週はここまで。また来週お越しください。

 


サンデーサンライズ492 真偽を自らに聞く

2024年11月10日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第492回。令和6年11月10日、日曜日。

 

先月31日木曜日から7日木曜日まで北海道巡回でした。

この間道内では一部降雪がありましたが、道東は割と天気が良く暖かく過ごしました。

特に北海道のお寺の本堂は、どこも暖房設備が完璧で法話中汗ばむほどでした。

このような長期の法話巡回は今回で最後かなと思われ、最後の晩は少し高級な鮨屋に行き、一人打ち上げをしてきました。

お任せというシステムで、ちょうどいい量の食事でした。

中で茶碗蒸しが出たのですが、中にはモッツアレラチーズが入っていると。普段あまり好んで茶碗蒸しは食べませんがこれは美味しくいただきました。

私の発案でワサビを少し入れてもらったら、これがまたアクセントになって旨かった。

少し贅沢して北海道を堪能しました。

 

アメリカの人が選ぶのだからよその国の人がとやかく言うことではありません。

ありませんが、どうしてこのような結果になるのか理解に苦しむ感じです。

仮にもアメリカの大統領ですからね。世界に及ぼす影響は少なくありません。

しかし、この選挙のやり方はどうなのだろうかと思います。

全国民が投票するのに直接選挙ではなく州ごとに推薦人を選ぶという方法。州が独立している「合衆国」だからそうなるのですかね。

二つの党の代表二人だけのどちらかを選ぶという方法。いずれにせよ国を分断する方法に見えます。

しかも莫大な選挙資金を湯水のように使って。選挙で儲けている人もいるのでしょうが、たかだか一時の選挙に消えてしまう資金を国民のために使ったらどうなのかと思います。

毎日抽選で一人の人に1億5千万円をあげるというバカげた人もいました。

金で人の心が買えるということがまかり通る社会、国、それを堂々と国の代表選挙でやってしまうという、しかもそちら側が勝つという、この国は一体どうなってしまっているのか。

次の大統領で、グローバル化や多様性や寛容性や地球温暖化などがどうなっていくのか、大いに不安を感じます。

ただ、私が知らないだけで、彼のいいところもきっとあるのでしょうね、と思います。

そうでなければ、あれほど多くの人が支持することもないのではないか、と逆説的に思います。

北海道の最後に中標津空港まで送ってくれた和尚さんが、「コロナとワクチンの闇をトランプさんが暴いてくれるだろう」などと期待を込めて言うのです。

元々農薬アレルギーがあって食物に敏感で、その情報を集めている中からそのあたりの情報をコロナの前から見つけ追いかけているのだそうで、ワクチンを打ったらだめだということをかなり詳しく説明するのです。

ワクチンが免疫を弱め体の弱い部分を突いて病人が増える。コロナはただの風邪でワクチンを打つからコロナは減らない。始まりはアメリカ人の陰謀で金儲けだ。等々。

彼の言うことが真実だとすればかなり大きなスキャンダルになりそうですが、真偽のほどは分かりません。

コロナのワクチンに関しては、発生の直後から賛成派と反対派の情報が錯綜していたのは確かです。陰謀論的な都市伝説かもしれません。

しかし、もし暴かれる「闇」があるのならば、どんなに混乱するとしても真実を明らかにしてもらいたいと思います。

いやはや、真にしても偽にしても、情報操作により政治も経済も意図的に捻じ曲げられてしまうのだとすれば庶民は何を信じていいのか暗中模索になります。

仏法を信じ、智慧によって正しく見るというのは間違いないところですが、その正しく見るところの基礎情報が根底から虚偽であるならば何をもって正しく見ればいいのか。

疑うことが対処法だなどというのは実に寂しい限りです。

誰か答えを教えてください、と言いたいところですが、おそらくその答えも誰かのフィルターを通しての情報でしょうから、誰かに頼るのではなく、自分を頼りにして自分に聞いてみるしかありません。

例えば、坐禅をして情報を断ち、記憶や先入観念を捨て、ストーリーから離れて、心の免疫作用とでもいうべき自己の第六感に従っていく、それもいいかもしれません。

そそけ立つとか、鳥肌が立つ、とか。何となく嫌な感じというのはあるものです。

 

今週の一言

「心の免疫は、断捨離から」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 


サンデーサンライズ491 暇とスマホ

2024年11月03日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第491回。令和6年11月3日、日曜日。

 

北海道に来ています。

昨年に引き続き根室市、標津町、別海町方面の布教巡回です。

特派布教とは違い、現地からの直接指名によって巡回しています。

二人の布教師で、昨年半分、今年残り半分を担当します。

 

暇であることの問題。

人生において、全ての生物が同じでしょうが、本来「暇」という時間はないでしょう。

全ての存在が生きる意味があり、同時に他を生かしているのだとすれば、その時間は全て意味のあることだと言えます。

お寺の生活は誰から使われるということでもなく、自分で時間の使い方を決められる生活です。

ある意味農業と似ていて、やろうと思えばやることは無限にあり、やらないから誰かに責められるという訳でもありません。

それでも「今日は何もない」などと「暇」と感じる日、あるいは時間があります。

それは、何もすることがないのではなく、目の間に突き付けられた用事がないだけのことで、すべきことしなければならないことはたくさんあります。

それを、したくないから「用事」から除外しているだけに過ぎません。

その「暇」としている時間を埋めるのにスマホほど有用なものはないでしょう。

電車の中あるいは待つ場所などで、スマホを見ていない人を見つけるのが困難なほどです。

かく言う私も、その一人であると白状しなければなりません。

先日寺に居ながら「暇」を感じ、しばらく遠ざかっていたスマホのゲームを開いてしまいました。

こんがらかったロープをほどいていくというパズルのような単純なゲームです。

そんな単純なものでも、ほどけたという快感は脳に対するご褒美のような喜びで、ついつい次へ次へと進みたくなります。

すると、一々入ってくる広告が邪魔になり、求められるままに広告を消す課金に同意してしまいました。

この時点で既に沼にはまってしまっています。なかなか抜け出すことができません。

暇だからゲームを始めたのだから、広告が邪魔だなんて、暇ならそれも見ればいいのに、その時間がもったいないと思う。

現在レベル645まできてしまいました。

ゲームの動機が暇ではなくなってしまっています。

さらには用事を後回しにして「暇」を作る始末。まさに時間が潰されていきます。

スマホから流れてくる膨大な情報は、そこから広告企業の利益に誘導するように仕組まれているでしょう。

つまりスマホは、手にする者の時間とお金を容赦なく奪う吸い取り紙のようになっていると言っても過言ではありません。

利用者次第だとは言っても、特に真偽を見分け難い若い者などは赤子の手をひねるより簡単に騙されてしまうこと必定と言えましょう。

68歳の老人も簡単にはまるのですから。推して知るべしです。

暇だと感じることを何とかしなければなりません。

生きている限り暇な時間などないのですから。

 

サンベギドウのローマ字表記は「GIDO SAMBE」になっています。

パスポートを取得するときにそのように指導されました。

「GIDOU」でも「SANBE」でもありません。ヘボン式なのだと思います。

ところが、ブラジルに行ったとき、「ジドウ」ですかと聞かれ「ギドウ」ですと答えると、それなら「GUIDO」の方がいいと教えられました。

確かに「ギター」は「Guitar 」と表記します。ラテン語表記でしょうか。詳しくは知りません。

「Guido」の方がかっこいいですかね。どうでもいいことですが思い出したので。

 

今週の一言

「本来、暇な時間などない」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 


サンデーサンライズ490 絶滅危惧種

2024年10月27日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第490回。令和6年10月27日、日曜日。

 

昨日土曜日は、花の鶴楯を創る会の秋の作業、終わって慰労会でした。

作業は、山道の急坂に丸太の横木で階段を作る作業でした。

上り幅を決め、横木の丸太を2本の杭で押さえ段面を調えていきます。

同時に周辺の枝を払い、草を刈っていきます。

60段の階段を作るのに今日一日でできるかと思いましたが、手はずが分かってくると作業は早く、15人弱の男たちはちゃっちゃと仕事をこなしていきました。

何と昼前には全ての作業を終えました。仕事のできる男たちです。

協働作業を終えた後の慰労会が楽しくない訳がありません。

次々とビール、酒、焼酎が開けられ、良くしゃべり且つ良く飲みました。

 

この世代の男たちは、長男が家を継ぐということにさほど疑問を感じずにきた最後の世代かもしれません。

小さい頃から「お前は家を継ぐんだ」と言われて育ち、周りも同じような環境でしたから、そんなもんだと受け止めて来たように思います

責任感はあったでしょうが、決して悲観的でも自己犠牲的でもなかったように思います。うーん、多少はあったか。

それよりも、残る者たち同士でどのように生きていくか、楽しいことを作っていくか、助け合っていくか、そこに注力してきたのだと思います。

もう少し若い者たちは、生活の場をそこに置きながらも、その中にあるいはその外に個人の楽しみを見つけようとしているように見え、そこに住む仲間たちと共に生きるということに意味を見出そうとしていないのかもしれません。

集団から個へはこの国の生活文化の時代的な流れでしょうから、抵抗したり止めようとしたりしても詮無きことですし、善悪の問題でもないでしょう。

集団にさほど疑問を感じずに来た者たちは、それが当然のことであり、それが楽しく楽なことであるからそうしているに過ぎません。

田舎の人口減少、流出の問題も、そこに楽しみを見つけられなければ他所に求めるのは当然のことで止めることはできません。寂しさを感じないわけでもありませんが、仕方ありません。

古い時代の男たちは、ただ自分の楽しみに素直に従っているだけです。

その姿を見て楽しそうだと思う人がいれば多少は残っていくかもしれませんが、それは知ったことじゃありません。

絶滅危惧種。なのだと思います。

田舎の農業は共同作業が基本でしたから、集団から孤立してしまうことは即ち死活問題でした。

集落の中では、仲間外れにならないように悪目立ちしないように、個性を消しながら生きていく必要がありました。

生きづらさの中に安全性を見出さなければならない状況だったといえるでしょうか。

農業が機械化によって共同作業の必要がなくなっていき、田舎にも個の流れが浸透してきました。

集落の目を気にして生きる圧力から解放されてもきました。

 

集団と個の価値観の境目の時代を今生きているのだと思います。もうずいぶん個に寄ってきていると思いますが。

そんな時代に、集団の喜びを大事に感じる生き残りのような人間たちがいるのです。

それが絶滅危惧種。

流れに乗れない、パソコンを使えない、朝早く目が覚める、仕事ができる、夕餉の前にコップを持たないではいられない、酒を飲まないでうまくしゃべれない、そんな男たち。

そんな男たちの憩いの場を作っていきたい、保持していきたいと思います。花の鶴楯の事業を始めたのもその意味です。

だってこれが最後だもの。楽な方、楽しい方にしがみついてもいいじゃないですか。

絶滅危惧種は絶滅危惧種の楽しみ方をしているに過ぎません。

どうぞ冷ややかに見守っていてください。

 

今週の一言

「自分にも、他人にも、正直に」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンデーサンライズ489 一番若い今日

2024年10月20日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第489回。令和6年10月20日、日曜日。

 

好きな俳優の一人西田敏行さんが亡くなりました。

色んな役をいい味で演じられていましたね。

画面にこの人が現れると安心感を感じたりしました。

印象に遺っているのは『遺体 明日への十日間』という映画で、東日本大震災の釜石の遺体安置所を舞台にした、ジャーナリストのルポルタージュ、実話が元になっている作品です

西田さんが扮する相葉は葬儀社で勤務経験のある民生委員で、ナンバーが付けられ「死体」として扱われることに心を痛め、自ら申し出て安置所の運営にかかわることになります。

ブルーシートが敷き詰められた体育館に次から次へとご遺体が運ばれてきます。

雪が降りしきる中そこを訪ねた相葉は、土足のままでは申し訳ないと靴を脱いで裸足で入って行く。

「死体ではなく、ご遺体ですよ」と。

実際には危険があるので靴を脱ぐことはなかったそうだが、おそらくは西田さんの強い思いでそうされたのではなかったかと思います。

そして、一人ひとりのご遺体に言葉をかけながら顔を拭い、化粧を施していきます。

理不尽な死を受け入れられない遺族は、家族と向き合うことを拒みます。

次第にきれいになり、生前の顔に近くなると遺族の受け止め方も変わっていき、感謝の気持ちを持って手を合わせるようになります。

どんな状況であろうとも、ご遺体を尊厳を持ってその命を見送ることができるようにというテーマだったと思います。

「ご遺体であっても話しかけられると人としての尊厳を取り戻すんだよ」という言葉が心に響きました。

西田さんの人柄がそのまま役柄に投影されて心に残るシーンでした。

 

もう一つ、散歩のお伴として聴いているNHKのラジオ番組『新日曜名作座』は、西田さんと竹下景子さんとのいわゆる二人芝居で、何年も続いている番組です。

たくさんの登場人物を二人が演じ分けるのですが、年齢も人柄も職業も違う人々を方言も含めてそこにその人がいるように、声だけで演じ分けるすばらしさにいつも聴き入っていました。

毎週楽しみにしていましたが、それが聴けなくなると思うととても寂しく残念でなりません。

 

先週は葬儀が二つ続きました。

数え年92と98の高齢でしたが、今さらながら、改めて、人は死ぬんだなと感じさせられます。

みんなみんな死ぬのです。

そのみんなの中には、もっと身近な、知人や友人、親族や家族、そして自分も含まれます。

この歳になると、出会う人の数よりも見送る人の数の方が加速度的に増えていくことは否めません。

他人の死に向き合うことは、自分の死にたいする受け止めの準備運動なのかもしれないと思います。

体が思うように動かない、疲れが取れない、ぐっすりと眠れない、薬ばかりが増える。

そんな老いの自覚の中で、それでも生きるか死ぬかは命にお任せしていくしかない。

寝ても疲れが取れない朝など、病気も疲れもなかった少年時代のように、この体をきれいさっぱりクリーニングでもできないものかと思ってしまいますが、それは無理というものでしょう。

命は完璧に不可逆的にできています。

今より古い過去には戻れないのです。

年齢はただ重ねて行くだけ。引き算はありません。

やがて死んで行く身として、今日の自分が一番若いという事実。

誰かと比べることではなく、自分の命をしっかり見つめれば、究極、自分の人生で一番若い今日をどう生きるのかに問題は収斂されます。

過去は問わない、明日より若い今日の過ごし方、それを他人の死から学んでいくしかありません。

ああ、私もやがて死ぬ。

それまでにどう生きるか。とりあえず今日、どう生きるか。

 

今週の一言

「みんな死ぬ、なのに今生きている」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンデーサンライズ488 まかせれば自由

2024年10月13日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第488回。令和6年10月13日、日曜日。

 

昨日12日は母親の命日でした。

ごく近い親族で三回忌を勤めました。

思い出すことはあっても、寂しいとか悲しいとか、亡くなって以来未だに涙がこみあげてくることはありません。

無感情人間になってしまったのか、何なのか理由は分かりません。

突然のことだったからかもしれませんが、それでも丸2年も経つのに思い出して感極まるということがありません。

逆に不思議な感じです。

母は19歳で寺に嫁ぎ、保育士をしながら寺を支え子どもを育ててくれました。

その言動から、父である住職よりも寺が好きだったのではないかと思います。

まじめで几帳面できれい好きで、怒るということがまずなく笑顔で人に接することができる人だったので寺族に向いていたと思います。

子どもの頃体が弱かったらしく、滋養強壮にマムシ酒を飲まされていたとか、とても農家の嫁は務まらないと女学校に行かせてもらい、お寺に嫁ぐことをその母親の策略で決められたようでした。

お寺の境内にあった公民館が季節保育所となり、農繁期に臨時の保母として勤め始め、それがきっかけで保育士の道を歩むこととなりました。

寒い冬凍った道で転倒した後遺症が出てむち打ち症でしばらく苦しみました。

首にコルセットを付けて痛々しい姿だったことが記憶にあります。

それからは健康オタクのように、いいと言われることは片っ端から試し、病院や診療所に通い、人にも勧め、そのために生きているような生活でした。

検診で胃がんが発見され、4分の3を摘出し、食が細くなりました。

「体が弱いから」「胃がないから」と言いながら、それから20年以上も元気で生きてきましたが、アルツハイマー型認知症になり、少しずつ機能が低下していきました。

ひ孫がやって来るとニコニコしていたのですが、感情が薄れてくるのか、感情はありながら表情が作れなくなるのか、だんだん笑顔も見えなくなってきました。

寝たきりの介護度4となり、デイサービスとヘルパーとの併用で自宅介護を始めました。

お試しで1回だけという言い様で初めてデイサービスに行ってきた帰り、「楽しかったべ」と聞くと「楽しいわげないべ、だれ」と、頑としてもう行かないと言い張りました。

父親の時もそうでしたが、チーチーパッパの子ども扱いされるのがプライドを傷つけるのかと思いました。

特に母親は保育士でしたから、その扱いに嫌悪を感じたのかもしれません。

そんな母も、意思表示がうまくできなくなり抵抗する気力がなくなったのか、扱われるままに車椅子ごと迎えの車に乗せられていきました。

娘たちはその様子を「ドナドナ」と言い交わしていました。

本人の意思があろうがなかろうが、当人の扱いは周囲の人の都合で決まるのであり、それはやがて当然の処遇となります。

子どもをダマすと言いますが、老人もダマされます。

ダマされるのだと知りながら、それに身を委ねるしかなくなるのです。

 

そして思います。

委ねるしかないのだとしたら、身を任せるしかないのだと。

抵抗すると、それは不自由に感じることでしょう。

身を任せることによって、心は縛られず自由になるように思います。

認知症は幸か不幸か抵抗する意志も奪ってくれるように見えます。

死の準備として、身を任せることができることはその受容につながるのではないかと思えます。

そうでなければ、あれほどの穏やかな顔で逝くことはできないのではないか。

本当にきれいな顔でした。

 

あとはひと 先は仏にまかせおく おのが心のうちは極楽(貞心尼)

 

晩年の良寛さんと親交のあった貞心尼の辞世だと言われる歌です。

そうであるならば、認知症も死も怖くはない。

怖くはないように、死へ向かう体と心の連動はプログラムされているのかもしれません。

母は、極楽の心の中に旅立ったのだと受け止めています。

 

今週の一言

「極楽はあります」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。