三ちゃんのサンデーサンライズ。第506回。令和7年2月16日、日曜日。
先週日曜日に上京し、昨日戻ってきました。
令和6年度曹洞宗布教師養成所の3回目で、研修道場に缶詰めで1週間を過ごしました。
今年度は主任講師を務めたため、1年間365日、養成所のことが頭から離れませんでした。
自分の持っているものしか出せない訳ですから、どうやったら全てを出し切ることができるか考えて考えて務めてきました。
ほぼ出し尽くして抜け殻のようになったつもりでしたが、自分が出した以上にいただいて受け取ったものが多く、一回り大きくなったかもしれません。もうこれ以上は増えなくてもいいのですが。それは体重の話です。
年間テーマを「法が良薬ならば」として、①根本苦、②社会苦、③生きがい苦に分類して3回学んできました。
現代社会の苦悩に仏教は「役に立つのか」という命題を立てて取り組んできましたが、それは現代に生きる僧が「役に立てているのか」を自らに問い、怠惰を恥じ、自らを鼓舞することでした。
50名の養成所員が、その人々の苦悩に向き合う法話作成に真剣に取り組んでくれました。
様々な場面を想定し、その救いとしての法、良薬を施そうとしてくれました。
大いに刺激をもらいました。
この歳になってこれほど学べることは幸せなことだと感じています。
全ての日程を終え、ようやく肩の荷が下りて、ため息をつきつき帰ってきたところです。
そして昨日2月15日は、お釈迦様のご命日涅槃会でした。
いつものように梅花講の皆さんに前日大量の涅槃団子を丸めてもらい、お供えして法要を勤めました。
涅槃図には、沙羅の林に横たわるお釈迦様を取り囲み、大勢の人々、菩薩、鬼神、動物、昆虫、いわば生きとし生けるものが泣いています。
涅槃図の みな泣いていて あたたかし (阿部月山子)
2600年ほど前のこの場面はおそらく実際にこのような光景であったのだろうと思います。
お釈迦様は、聖人だとか立派な人だとかの前に「あたたかいお人」であったのだろうと想像します。
そのお人柄に接したすべての命が、あたたかい涙を流しているのだろう。
虫魚や草花に至るまで、そのあたたかいまなざしに触れたのに違いないと思います。
生まれた人は必ず死ななければなりません。
我々の最期も、お釈迦様のように、その人生を讃え、寿ぎ、あたたかく見送られる、そんな葬儀でありたいと思います。
現在の仏式の葬儀はお釈迦様の最期のお姿に真似て勤められます。
お釈迦様は生前から、頭寒足熱として頭を北にして休まれました。沙羅の林でもその通りでした。
ご遺体を「北枕」にするのはそこに由来します。
最期に弟子阿難に「水が飲みたい」と言われたことから「死に水」という風習に続いています。
お釈迦様が亡くなるのを悲しんで沙羅の樹の林の半分が葉を白く枯らしたと言われます。それが「四華(花)」となりました。
一番弟子の迦葉尊者は説法の旅に出ていて臨終に間に合いませんでした。旅先で一輪の枯れた花を持つ人に出会いお釈迦様が亡くなられたことを悟ったと言われます。それが「一本華」の由来です。
お釈迦様が誕生して7日目に亡くなられたとされる実母のマーヤ夫人が、天上から妙薬を投下したけど間に合わず、それを団子にして供えたとされる故事により「枕団子」となりました。
すべて、お釈迦様のお別れの様子を再現したいという思いから、行われ続けてこられたことでしょう。
死は悲しいことではあるけれど、あたたかい別れでありたいとのことだと受け止めています。
そこに仏教のありがたさを感じます。
「世は無常」であることを、徹底して腹落ちするからこそ、志を強くすることができます。
怠けてはならぬ、精進しなければならぬという志です。
その志を以て修行を続ければ、どんな人も悟りに至らないということはない、と仏祖は教えています。
涅槃図を拝む度に無常を観じなければなりません。精進せよ、弁道せよ。
今週の一言
「学ぼうとしなければ学べない」
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。