なあむ

やどかり和尚の考えたこと

花立峠へ

2014年10月27日 21時38分36秒 | ふと、考えた
土曜日花立峠に行って来ました。
松林寺から黒沢を通って約30分、峠には宮城県ナンバーの車が10台ほど停まっていました。
秋になったら禿岳に登ってみようと家内と計画していました。
こう見えて、高校時代は山岳部、家内もワンダーフォーゲル部という経歴で、山には関心がないわけではありません。
金曜日に何も予定がないので、朝から登ってみることにして計画をしてきました。
そういうときに限って葬儀が入るというのはよくあることです。
それじゃ次の日、という予定でしたが、何と次の日にも葬儀が。
秋の紅葉を見ながらの山登り、今年は無理かと諦めました。
土曜日、朝から濃霧です。今日は晴れるはず、こんな時は雲海が出るに違いない、ということで、急遽、葬儀の前に出かけました。
霧の中の山道を登っていくと、次第に霧が晴れてきました。雲の上に出てきたのです。
紅葉の木陰から見る里は雲の下です。
既に紅葉は晩秋の装いでしたが、青空に赤や黄色が映えてきれいでした。
峠から少し登って、なぜか「賽の河原」と名付けられたケルンを積んである場所で、鬼首方面、最上町方面をパノラマで眺めました。遠くには月山も望めます。
たまたまその場所で一緒になった檀家さんと、雲海の故郷を眺めていました。
その昔ここは湖だったという伝説があるが、昔の人もここを通ってこの景色を眺めたろう。この雲海を湖にたとえたロマンがいいねえ、などと楽しんできました。
こんな近くにこんな名所があるとは、改めて宝物を発見しました。

お引っ越し

2014年10月22日 07時28分26秒 | ふと、考えた
これまで使ってきましたOCNのブログ人がサービスを終了するということで、こちらに引っ越すことになりました。
本格的に書き始めたのは2008年来ですから、6年ぐらいになります。記事もかなりの数となり、昨年『なあむ』としてその抜き書きを上梓しました。
こちらのgooブログの使い勝手がどうなのか、未だ手探りですが、今後も続けていきたいと思っています。引き続き時々のぞいてくだされば幸いです。
皆様のご清祥を祈念しております。

母の一周忌

2014年10月05日 07時13分00秒 | ふと、考えた
昨日は家内の母の一周忌でした。

昨年の昨日、82歳で亡くなりました。

私と家内の結婚は見合いでした。しかも、1回目顔を合わせて、その6日後に会った2回目で決まってしまうという慌ただしいものでした。

当人二人の決断というような感覚はなく、周囲の雰囲気でまさに「決められた」というような流れでした。

その日のうちに結納の日取り、結婚式の日時、会場まで押さえるという、周到ぶりでした。

その慌ただしさのためか、決まってしまった後に、家内の方は次第にブルーというか、悩んで落ち込んでしまっていたようでした。

その状態は結婚式を挙げたその後もしばらく続き、二人の仲は決して穏やかではありませんでした。

ある日、母親を交えて話をしていた時に、大声を張り上げて家内を責めた時がありました。

その時、母親は、結婚生活なんていうのはそんな最初からうまくいくものではない、時間をかけて仲良くなっていくものだ、というようなことを話し、涙をこぼしながらこう言ったのを覚えています。

「何十年か経って、昔はこうだったなあと笑いながら話せることができることを夢見てる」と。

その母親の言葉の通り、次第に二人は互いに歩み寄り、我慢もし、欠点は見て見ぬ振りしながら、何とか折り合いをつけてきました。

今では、こんな風に笑い話として、振り返ることができるようになりました。母親の夢が現実になったと思います。

結婚を「ゴール」などという人がいますが、それは間違いです。

どれほど長くつきあってきた仲であっても、結婚生活は恋愛とは違います。

夫婦という一つの単位で新たな生活をつくっていく「スタート」に違いありません。

誰と結婚したか、よりも、その人とどう生きていくか、が結婚というものだと思うのです。


中島みゆきも歌っています。

 そんな時代もあったねと いつか話せる日がくるわ
 あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ 

そんなことを思い起こした一周忌でした。

極楽鳥の努力

2014年09月22日 09時39分44秒 | ふと、考えた

NHKBS、「ワイルドライフ」は好きな番組です。

今朝のテーマは、パプアニューギニアの密林に棲むフウチョウ、いわゆる極楽鳥の生態を追ったもの。

世界で2番目に大きな島ニューギニア島、高い山は5000メートルにも達し、海の湿気を吸い上げて、日本の2倍以上も雨の降る多雨地帯。

猿や山猫なども生息しないことから独自の進化を遂げてきました。

特に40種以上いるといわれるフウチョウは、その生態がまことに奇妙な進化を遂げてきました。

邪魔だと思われる異常に長い尾や、無駄に見える飾り羽根。そして、不思議な求愛ダンス。

オスがメスを引きつけるために行う求愛の仕草は、体の色や形まで変えて鳥とは思えないような姿になります。極楽鳥と呼ばれる所以でもあるでしょう。

なぜそこまでするのか、その理由は、外敵がほとんどいない、そして食べ物に事欠かないということらしい。

つまり余裕があるので、生殖活動にすべてをかけるという理由のようです。

メスを引きつけるためだけに体を進化させてきた、そのことが「極楽」鳥かもしれません。

しかし思ったことは、メスの心を引くために努力するのはオスで、選ぶ権利はメスにあるのだということ。

それは、この鳥に限らず、生命の基本的な位置関係なのかもしれません。もちろん人間も含めて。

うーん、人間の男は極楽鳥のように努力しているのだろうか。

それは、そのことだけに力を注げない生存の厳しさからなのか。しっかり稼ぐということが人間の男の求愛ダンスに相当するのか。

いずれにせよ、オスは努力しないといけないらしい。

Bluebirdofparadise_img01l


カンボジアの弟妹

2014年08月15日 09時37分39秒 | ふと、考えた

お盆前の9~11日、カンボジアの弟家族と妹が訪ねてきました。

34年前、難民キャンプで出逢い、5年後に日本に移住した家族。

元気だったお父さんもお母さんも亡くなり、宿用院でお骨を預かっています。

私にとって弟と妹になる一男二女は日本に住んで、いろいろな苦労を背負いながら何とか暮らしています。

お盆でもあるのでお父さんとお母さんのお参りをしたい、ということで訪ねてきました。

宿用院で法要の後、加茂水族館、岩出山感覚ミュージアム、前森高原など、二泊して遊んでいきました。温泉にも泊まりました。

せっかく厳しい生活の中がんばって来てくれたのだから、思う存分楽しんでもらいたいと思いました。

松林寺に泊まった次の朝、朝課が始まるとすぐに後に座り、ずっと祈っていました。

終わって振り向くと、涙を流しながら、私の膝下に手をついて感謝の言葉を述べました。

アジアの人に対する日本人の対応は必ずしも優しくありません。仕事に就いてもいじめや嫌がらせもあるようです。

弟が30年も勤めている会社も、未だに1ヶ月契約の不安定な雇用でしかありません。

奥さんもせっかく勤めていた仕事をいじめで辞めざるを得ませんでした。無理して娘を保育園に入れたばっかりだったのに。

それでも「がんばりますから」と涙ながらに仏様に誓っているのでした。

50歳になる弟は、日本で暮らす方が長くなり、今さらカンボジアには帰れません。

しかし、その日本も安住の地ではないのです。未来に不安もあります。

そんな健気な弟妹を見放すわけにはいきません。

苦労の多い環境の中でも、何とか希望を棄てずに生活してもらいたい。

困った時にはいつでも頼って欲しい。と願うばかりです。

1919618_504975579646414_7416239201510592914_504975769646395_330874865310392505_505597396250899_913955476810599261_505597139584258_3787639663


食べる意味

2014年07月30日 08時08分29秒 | ふと、考えた
新幹線で朝食のおにぎりを食べながら父親を思い出していた。
とうに言葉を失い、歩くのが覚束なくなってからも、食欲だけは旺盛だった。
片手が動かせるときはその手に海苔巻きを握り、黙々と食べていた。
手が利かなくなってからは、家族がさしだす箸やスプーンに、どこまでも口を開けていた。
「よく食べるね」「食欲だけはあるんだね」などという声が聞こえていたのかどうか。
食べる様子に、安心もし、嘲笑の気持ちがあったことも否めない。

「生きていることに意味があろうがなかろうが、生きてやる」
そんな命の声が、今聞こえてくる。
周囲がどう思おうが、自分自身がどう思おうが、そんな声には耳をかさず、命の欲求に素直にしたがっていた姿なのかもしれない。
そう思うと、黙々と食べる様子を思いだし、泣けてくる。
意味など問う意味もなく生きる力を、素直に受けとめられればよかった。
父の姿は、いつも後悔を強いる。


目を覚ませ、企業よ

2014年07月04日 07時23分43秒 | ふと、考えた

トップ一人が替わるだけで国がこんなにも変わるんだということを目の当たりにしている。

もしかしたら我々は、今、独裁者誕生のプロセスに立ち会っているのかもしれない。

戦争が始まるそのスタートの目撃者なのかもしれない。

トップ一人の決断で憲法の解釈が変わってしまうという前代未聞の現場に我々は居合わせてしまった。

解釈を変えれば憲法さえ意のままになるのだから、これからは何だってできるのだろう。

暴走の助走は経済政策にあったように思う。

経済を立て直す政策として三本の矢を喩えとした。

三本の矢?それが暴走の進む方向を暗示していたとすればなかなかの詩人だ。

その政策が多少成功するや、済界も護送船団よろしく、取り巻き船から下りようとはしない。

経済という虎の子を質草にとられ沈黙を守っているうちに、とんでもない海域に漕ぎ出して元に戻れなくなりはしないか。

暴走の目標は経済再建ではなく、戦争なのかもしれない。

黙して伴走することが片棒を担ぐことにもなりかねない。

目を覚ませ、企業よ。

黙している場合ではない。

国が戦禍に見舞われれば経済の地盤が崩壊するのだから。

永続した安定のためには平和が一番なのだから。

それとも、戦争のための死の商人を目指すのか。

済界が目を覚まして諫めることによって暴走は止められるかもしれない。

経済のために国を戦争に導くことのないように。

経済よりも大事なのは命であることを、企業が示して欲しい。

それが日本を守ることかもしれない。


強さと豊かさ

2014年07月01日 13時56分10秒 | ふと、考えた

強い国というのは経済的に豊かなことを言うらしい。

豊かなためには命の犠牲も仕方がないと思うことらしい。

危険だと分かりきっている原発も動かすことらしい。

強いためには弱いものの声と存在はうっとうしいと感じることらしい。

国を守るためには戦争も辞さないと思う人が多くいることを目指すことらしい。

国とは何を指すのか。それは国民か、それともそれ以外のものか。

国を守るとは何を守ることなのか。国民か、それともそれ以外のものか。

弱いものの声を無視し、弱いものの存在を脅かし、何を守るのか。

弱いものは非国民か。

弱いものの犠牲の上に生き残るもののみを国民と呼ぶのか。

一部の 血統が生き延びることを国を守るというのか。

戦いを否定することは弱いことか。

平和を希求するのは弱いものか。

弱いものの声は威勢のいい声によってかき消される。

平和を守るために強くなるのらしい。

強くなければ生きられない。

強くなければ守れない。

本当にそうなのか。人間として。

強さに対抗するために強さをもって制する。

各国はそのようにして戦争をしてきたのではなかったか。

それで平和になったか。

永遠の戦争放棄は決して弱いことではないだろう。

戦いの他の方法で平和を維持していくのが叡智というものだろう。

智慧を使わずに武力に頼るのは野蛮でしかない。

他国を威圧するための豊かさならば豊かさそれ自体が罪悪だ。

貧しくとも、人としての道をまもり、支え合いながら仲良く生きていく。

日本人の人間性こそ、我等が誇る宝だと自負したい。

それこそを豊かさと呼ぶのではなかろうか。


猿舞座

2014年06月19日 21時12分56秒 | ふと、考えた

さくらんぼの時期となり、宿用院の檀家さんから選りすぐりのところを順次送ってもらっています。その御礼の電話が入ってきており、懐かしい声と会話を楽しんでいます。

「元気ですか?」

「バカは風邪ひかないんです」

「風邪じゃなくても色々な病気があるでしょう」

「風邪もひかないのに、他の病気にはなりません」

「心臓はどうですか?」

「不整脈?」

「そう」

「心臓だってね、たまに休みたくなるでしょう?何十年も動き続けているんだから」

「呑んでるの?」

「今ね、山口県から猿まわしの一行が来てて、毎晩酒盛りしてたけど、明日人間ドックだから今日は休み」

「しっかり診てもらって」

「わざわざ悪いところ探す必要もないのにね」

「お気をつけて」

「おやすみなさい」

せっかくだからもう寝ます。


あぶらっこ

2014年04月26日 21時26分13秒 | ふと、考えた

子どものころ「あぶらっこ」という言葉がありました。

子どもが遊ぶのは屋外であり、誰かと集団で遊ぶのが遊びというものだと思っていました。

遊び場には同年代ばかりでなく、大きな人も小さな人もいて、それらがまざって遊ぶものでした。反対にいうと、まざらなければ遊べないものでした。

小さいころ、大きな人と遊ぶのは怖いことであり、怒られないように、いじめられないように気を遣いながら遊んだと思います。もうそれは、社会でした。

そこで、年齢差のある子どもたちが同じ遊びをする場合、どうしてもまだ一人前(子どもとして)の仲間になれない小さな者は、「あぶらっこ」と呼ばれ、あぶらっこのルールが適用されるという決まりでした。

たとえば、野球の一塁ベースが少し近かったり、缶蹴りの鬼にはさせない、というような特別扱いをされるのがあぶらっこの存在でした。

それは子どもにとってうれしいことではなく、まだ一人前の子ども扱いされない惨めさを感じるものでした。

それでも、まぜてもらえなければ遊べないので、泣きながらでもついていくのでした。

ここで言いたいのは、あぶらっこ側の問題ではなく、どんな小さなものでも仲間はずれしないで一緒に遊ぶことになっていた「大人の」子ども社会のことです。

ルールを変えて特別扱いしても一緒に遊ぶ、という許容量の大きさが子ども社会にもありました。

もう少し以前には、福祉もましてやボランティアもありませんでした。

村社会は、村の仲間を社会の一員として仲間はずれしないで生きてきたので、福祉という隔離政策や、ボランティアのような「善行」が必要のない、「当たり前」のことでした。

「ボランティア」という言葉が日本語になりにくいのは、そういう概念すらこの国には必要なかったということだと思います。

もちろん、障がいや老人に対する対応が、必ずしも優しい社会ではなかったと思います。

でも、隔離せずに一緒に暮らしていれば、そういう人も社会にはいるのだということを知って育ったことは間違いありません。

福祉やボランティアという行為が声高に言われるのは、仲間はずれしない社会が崩壊した現れなのかもしれません。

SVAシャンティ国際ボランティア会の初代会長、松永然道現名誉会長が初期のころよく口にしていたのは、「我々は我々の団体が必要なくなるためにやっているんだ」という言葉でした。

けだし名言だと思います。

元々(本来の意味は若干違いますが)いわゆるボランティア活動は、非日常の状況での活動であり、日常的には、特別な人が特別な行為をしなくても、みんなが助け合って支え合っていける社会が本来であり、その社会の実現のために我々は行動しているのだ、という思いであったでしょう。

この地に、いつからあぶらっこがいなくなったのでしょうか。

この国に、ボランティアが必要のない社会をとりもどすのはもう無理なのでしょうね。