なあむ

やどかり和尚の考えたこと

何を以て好きなのか

2015年01月08日 21時27分36秒 | ふと、考えた
好きな人と嫌いな人がいる。
何を以て人は人を好きになり、嫌いになるのだろう。
顔が嫌い、声が嫌い、話し方が嫌い、態度が嫌い、匂いが嫌い。
嫌いな要素はいくらでもありそうだ。
何を以て好きなのか。
顔か、声か、匂いか。
人は、特に子どもは母親が好きだろう。父親も少し好きかもしれない。
では、なぜ母親が好きなのか。
顔か?母親の顔がきれいだから好きなのか?そうではないだろう。
世の中、きれいな顔の母親ばかりではない。半分はきたない、いやいや普通の顔だろう。
どんな顔であれ、子どもにとって母親は世界で一番きれいに見えるかもしれない。
それは美醜ではない。
声か、これも子どもにとって母親の声が最もいい声に聞こえるに違いない。
人間にとって、いやいや全ての命にとって、自分以外の存在を心から好きになるのは、美醜やアイテムによってではないだろう。
自分の最も必要とする、自分にとって最も安全な存在を、心から愛し、全てが美しく見えるようにできているに違いない。
ということは、嫌いな人というのは、自分にとって必要ではない、安全を脅かす存在なのか。
しかし、我々には、当初嫌いと感じていた人が、あるきっかけで好きになる、ということもある。
それは、危険だと警戒していた人間が、よく知ってみると危険ではなかったというようなことかもしれない。
だとすれば、それは単によく知らなかっただけ、とも言えるだろう。意外とこれが多いのかもしれない。
悲しいのは、あれほど大事な存在だった母親が、自らの成長とともに、うっとうしくなったり、嫌いなところが次々増えてくることだろう。
必要な存在ではなくなったということか。
全ての人を好きになれればいい、などと考えたこともあったが、それは難しいことであるし、ある程度の年齢に達すると、その必要もないのかと思う。
好きな人を増やさないで、嫌いの人も増やさない方がいいのではないか。
今嫌いだと思っている人も、自分がその人のことを知らないだけかもしれない。
かといって、無理に知ろうと近づく必要もないように思う。
嫌いを増やさないために、近づかないこともあっていいのではないか。
元々友だちが少ないが、増やそうとも思わない。
その一方で、気の合う存在は、友だちを通り越して親戚、兄弟にまで近づく傾向にある。
広く浅くではなく、深く濃くというつながりを求めているようだ。
その存在は、顔がどうの声がどうの、話し方も態度も、匂いも、全く気にならなくなる。
ああ、自分にはこの人が必要なんだ。


全てが変わった。

2014年12月28日 19時40分31秒 | ふと、考えた
シーパップをつけて4晩を経過した。
とても具合がいい。
全くイビキをしない、らしい。
家内が夜中に生きているか覗き込むほど。
1晩過ぎた朝、自分の布団をみて驚いた。全く乱れていない。
夜中に何度も寝返りするので、朝方までに布団は毎晩グチャグチャだったのに。
深く眠っているのだろう、朝の目覚めはスッキリしている。
細胞が目覚めているということか、見るものがハッキリ見え、ハッキリ聞こえる。
これまでは、朝目覚めても、頭の奥がジーンとしているような、重い感じがあった。
体の動きも重くないように感じる。
大袈裟に言えば、全てが変わったという感じ。
この機械は、ホースのついた鼻だけをカバーするマスクのようなものを装着して寝るのだが、舌が気管を塞いで呼吸が止まると、自動的に鼻から空気を送り込み、気道を確保するというもの。
そんな状態で寝れるのか、という心配の向きは、こういう症状の人には杞憂に過ぎない。
はじめは少し邪魔な感じがあったが、すぐに慣れた。
深酒をすると胃酸が逆流して胸焼けして途中目が覚めたのだが、なぜかそれもない。
この機械、なかなかのスグレモノだ。
これで運転中の居眠りの症状もなくなり、夜中の突然死のリスクも軽減されるとすれば、延命機器と言っても過言ではない。
もし、無呼吸の症状がある人がいたら、是非検査を受けて試していただきたい。

D判定

2014年12月22日 20時05分34秒 | ふと、考えた
睡眠時無呼吸症候群の検査結果が来た。
検査結果、判定D。
RDI(呼吸障害指数)52.1回/h。1時間あたり無呼吸(10秒以上)と低呼吸(気流が通りにくくなる)が何回あるか。
5回ー正常。15回までー軽度。30回までー中度。30回以上ー重度。
イビキ 199.4回/h。
驚きましたね。1時間に50回以上呼吸が止まっているか低下しているというのだから、ほとんどずっとということでしょう。
1時間にイビキの回数が200回。本当かね。これでは隣で寝ていられないでしょう。
まあ、結果は結果なので、神妙に受けとめ、ついにCPAP(睡眠時マスク)を装着します。
以前から予測はしていたし、これをつけると昼に眠くならずに頭がスッキリする、と声を聞いていたので少しは期待もしてました。
ただ、一度つければ一生になるということに抵抗もありました。
でも、運転中の眠気は自分ばかりでなく、他人の命にも関わることなので、心配もしていたのです。明後日には機器が届き装着が始まることになります。
併せて、不整脈と動脈硬化の検査も受けることにしました。

あーめんどくさい

2014年12月17日 21時13分10秒 | ふと、考えた
何が何だか、訳が分からなくなってきた。
民主主義というのは機能しているんだろうか。
個人個人の意見の集約とはいうものの、それすらもマスコミやメディアで空気が造られてしまっているのだとしたら、純粋な個人の意見と言えるのか。
あるいは一部分だけを見せて、ある部分は隠し、今関心のありそうなキャッチフレーズで誘導することもどんなものか。
それでもそれらを見極めて、裏の裏まで考えて選ぶのが肝要、とは言いながら、そういうことができる人はどれほどいるのか。
一人ひとりが未来のことを考えて、本当に大事なのは何か、と判断できればいいのでしょうが、どうもそういう社会にはなっていないらしい。
香港の若者に、日本の若者ももっと政治に関心を持って自分で社会を造っていくために選挙に行って欲しい、などと言われても、果たしてそれすらもどれほどの若者が聞いたものか。
日本では政治は政治家に任せておく、エライ人は間違いをしないだろ、ぐらいなのんきな人が多いのか。
それでも民主主義と言えるのか、はなはだ疑問に思うこの頃。
fbでニュースなどをみれば、あろう事か選挙の投票用紙を数え間違えただの、不正があっただの、それだけはと信じていたものまで信じられなくなるとすれば、選挙そのものにも嫌気がさしてくる。
アフガニスタンの総選挙で、選挙に行くと指を切り落とす、殺すとタリバンに脅されながらそれでも60%以上の人々が命がけで投票したというような情報を知れば、選挙とは、命がけで自分たちにの国を造るものだと言えるでしょうが、この国の選挙はどれだけレベルが低いのか。
今回の選挙は、多くの国民が関心を持たないうちに国の形は一部の政治家の思うままに変えられてしまうような選挙だったと思うのだが。
何かものを言うことすら空しくなってきた。
それなら黙っていろと聞こえてきそうだ。
でもおかしい。
この国の中で、自分の住んでいる町を追われ、故郷に帰れない人、国内であっても難民と同じ状態の人々が10万人を超えているというこれまでこの国が経験したことのない事態の真っ最中でありながら、そのことには触れないようにしているかの如く、原発を再稼働するという方針は、普通に考えたらあり得ないことだと思うのだが。
そんなことを言ったって電気のない生活に戻れないでしょう。薪を拾って暮らすのか。などと江戸時代にでも返るかの如くの極端な対比で、物事にふたをしようとする考え方。
これから経済が成長して、数年後に日本人全員が所有物を倍に増やしたからといってその将来が明るいとも幸せだとも思えない。
50年前の日本人の所有物と比べてその何百倍をもっているだろうと思われる現代日本人が、豊かさを実感しているわけでも幸せにあふれているわけでもないことから見れば、それは明らかだ。
そうではなく、将来の将来、何代か先の子孫のことを考えて、今どういう方向に進むべきなのか、そのために今何をすべきなのか、それが国の姿勢であり、それを指し示すのが政治だと思うのだが。
民主主義のあやふやな状態で、流れにゆだねるだけの国民意識からは、強いリーダーシップのみを求めるのかもしれない。
あーめんどくさい。
もう考えるのも嫌になった。
仏の方ばかりを向いて、社会に背を向けて、我関せずで上求菩提だけを目指した方がいいのだろうか。

若者に冷たい国、ニッポン

2014年12月16日 08時48分11秒 | ふと、考えた
いつも配信いただいている、山形大学教授長岡昇先生のメールニュース。
今回のニュースもとても心に響きましたので転載させていただきます。

小石川通信21「若者に冷たい国、ニッポン」
 北国に住む住民の感覚で言えば、今回の総選挙は「みぞれ雪のような選挙」でした。晩秋の氷雨に感じる哀愁もなく、初冬の新雪がもたらす凛とした厳しさもない。やたら水分が多く、ぐずらぐずらと降って始末に困るみぞれ・・・。ふたを開けてみれば、自民党と公明党は合わせて1増の325議席、衆議院で3分の2を維持しました。弱々しい野党各党の議席数がいくらか増減しただけ。投票率が戦後最低を更新したのも、選挙戦を見ていれば「そうだろうな」と思えるものでした。なんとも虚しい結末です。

 けれども、その意味するところは重大です。これから4年間、安倍晋三首相は心おきなく、自ら信じる政策を推し進めることが可能になりました。彼の政治信条と政策を支持する人たちは「してやったり」と快哉を叫んでいることでしょうが、私は「とんでもないことになってしまった」と受けとめています。

 民主党政権時代の政治があまりにもひどかったため、安倍政権の手綱さばきが国民に安心感を与えていることは理解できます。株価もそれなりに持ち直しましたから、財界の受けがいいのも当然でしょう。おまけに「日本の法人税は先進諸国に比べて高すぎる。法人税の減税を検討する」と言い出していますから、なおさら受けはいいはずです。ですが、安倍政権が推し進める「アベノミクス」がこの国を苦境から救い出してくれるとは到底、思えないのです。

 エコノミストの浜矩子(のりこ)同志社大学大学院教授は「株価が上がれば経済がよくなるという考え方は本末転倒です」「最大の眼目が成長戦略だというのも時代錯誤です」と、アベノミクスを批判しています。私も同感です。今、日本が直面しているのは「冷戦後の混沌とした時代、多極化する難しい過渡期をどう生きていくのか」という難題であり、「人類が経験したことのない急激な少子高齢化の中で、富の分配をどう変革していくのか」という難題です。そういう新しい時代に、アベノミクスは「過去の延長線上の政策」で対処しようとしている、と考えるからです。「ビジョン」が欠落しています。前回の総選挙の際のスローガン「日本を取り戻す。」は、そのことを何よりも雄弁に物語っています。

 私は「自民党の政治など元々どうしようもないのだ」などと言うつもりはありません。新聞記者として働く中で、私は何度も「自民党の強さ」を思い知らされる経験をしました。懐が深い人が多い、と感じたのも自民党でした。なるほど、彼らの政策や主張はいわゆる革新政党のように筋道立ってはいません。正義や公平にも鈍感です。が、自民党は肌で知っているのです。多くの人にとって、何よりも大切なのは今日の暮らしであり、明日の糧を得ることです。そこにピタリと寄り添い、彼らは全力を尽くしてきたのです。敗戦の焼け跡から立ち上がり、経済成長の道をひた走るためにはそれが何よりも重要な政策であり、路線であると彼らは信じ、行動してきたのです。グダグダ言わずに一生懸命働き、ひたすらパイを大きくする――1980年代までは、それで良かったのかもしれません。

 しかし、世界の風景は激変しました。寄り添う大樹(米国とソ連)はもうありません。比較的落ち着いていた海は荒れ、海図も当てにならない時代。見たこともない航路も通らなければならなくなったのです。「日本を取り戻す。」などと過去を振り返っている場合ではありません。この難しい過渡期をどうやって生き抜き、道を切り拓いていくのか。今日と明日に加えて、もっと先の未来をも語らなければならない時代なのです。なのに、選挙戦で「今という時代」と「未来のビジョン」を語る政党と政治家がいかに少なかったことか。有権者もまた、それを求めることなく、選択を避けようとしているように見えました。

 未来が不透明であればあるほど、私たちは多様な価値観を理解する懐の深さを持ち、かじ取りを確かなものにするための手立てを考えなければなりません。また、若い人たちが難しい航海に乗り出すために準備するのを手助けしなければなりません。なのに、この国はますます「若者に冷たい国」になりつつあります。落ち着いて働き、将来の計画を立てることができるような仕事は減るばかり。財務省が発表している「世代ごとの生涯を通じた受益と負担」というデータを見ただけでも、それは明らかです。若者は重い負担と少ない受益に甘んじ、年寄りは負担した以上のものを受け取る仕組みになっており、その傾向は強まっています。それでいて、「今時の若者は内向きだ。覇気がない」などと平気で批判する世の中。若者に冷たい国、ニッポン。

 総選挙の公示日(12月2日)の翌日、私が勤める山形大学で「グローバル化への対応」をテーマにしたシンポジウムがありました。その席で、フランス人の講師が「アジア各国の英語習熟度」というデータを紹介してくれました。留学を希望する大学生や社会人が受けるTOEFL(トウフル)というテストの成績比較表(2013年)です。それによれば、1位はシンガポール、2位はインド、3位はパキスタン、4位はフィリピンとマレーシア、6位が韓国。以下、香港、ベトナム、中国、タイと続き、なんと日本は遠く離されてビリから3番目。日本より英語の成績が悪いのはカンボジアとラオスだけでした。

 それは、日本の英語教育のお粗末さを無残なまでに示すデータでした。アジアで長く取材してきた私の実感とも合致するデータでした。英語が世界の共通語となりつつある世界で、日本の若者は先進諸国どころか、アジア各国の若者にも遅れを取っているのです。「英語支配に追随する必要はない」という意見もあります。まっとうな意見です。が、それなら、スペイン語でもドイツ語でも、中国語でも韓国語でも構いません。「日本語以外の言語で意思の疎通を図る資質」を養う必要があります。日本の教育はその努力もしていない。これからの時代を、この島国に立てこもって生きていけと言うのか。

 若者への富の分配をどんどん薄くし、新しい時代に備える機会も十分に与えない。それでいて、膨大な借金の返済を彼らに押しつけ、原発の運転で生じた廃棄物の処理も押しつける――それが今、私たちが暮らしている社会の現実です。こんな社会でいいはずがありません。選挙こそそれを変えていく機会であり、政治こそそれを変革する原動力であるべきなのに、師走は虚しく過ぎ去りました。とんでもないことになってしまった、と思うのです。

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長岡 昇 Noboru NAGAOKA

最近のうれしいこと

2014年12月14日 21時00分09秒 | ふと、考えた
最近、モンテディオ山形がJ1復帰を果たした他はあまりおもしろいことがありません。
瀬見、盛岡、東京と三連続飲み会があってそれはそれで楽しかった。
冬は肥えると実感。酒を呑むと食べるので太ります。
猫も夏は痩せるのに冬前には脂肪をつけるために太るけどあれと一緒か?
選挙など、何のおもしろみもありません。むしろ冷め切った感じ。これでいいのか、いろんな意味で。
正月の準備といっても、これといって気が乗らず。雪かきにほのかな楽しみを感じるだけ。
楽しくない日常は、それはそれでいいのかとも思います。
毎日が、ハリがあって充実感のある必要もないでしょう。何も感じず何も考えず、ただボンヤリ用事をこなし、食べて寝て、気がついたら日が暮れる、それもありかなと思うこの頃です。
先日、河北中三年生の進路講座という時間をいただきました。
こんなに若い人に話すのは珍しいこと。普段は水戸黄門の世代がほとんどなので、力が入りました。
言いたいこと、伝えたいことは山ほどありました。
しかし、聞いてくれない話をして彼らの時間を無駄にしたくありません。
かといって、脈絡のない話しの羅列ではこちらがおもしろくありません。
一応、流れを考えて100人ほど?の前に立ちました。
自分が中学三年の時、こんなに若かったんだなあ。
マシンガンのように話しました。
言いたいことを言いたい、飽きさせたくない。
途中から目の輝きが変わってきたのが分かりました。
下を向いている子は一人もいません。
1時間、伝えたいことはある程度伝えられたと思います。
感想を聞きたいと思っていました。
来ました。感想文。(ひとに貸してしまったので今手元にない)
読んで涙が出ました。
ちゃんと聞いてくれた。話しを受けとめてくれた。生き方を考えてくれた。
一人の1時間の話しで、人生に決定的なインパクトを与えることもあるだろう。
そんな機会になればうれしい。
そうか、思い出してみればうれしいこともあったね。

日本人の美意識

2014年12月01日 09時44分45秒 | ふと、考えた
日本人とよその国の人が、美しいと思う感覚は同じではないのでしょう。
庭園なども、欧州では人工的な造形美を競い、日本ではいかに自然に見せるかを美の極致とするように思います。
うがった見方をすれば、自然をどう利用するかを考える欧州に対して、無作為の自然そのもの、人智の及ばない神々しさに畏敬の念を抱く日本人の違いかと思います。
ですから、山の紅葉を美しいと感じる日本人の感覚は他所の国の人々とは違うのではないかと思うことです。
日本人の美意識は、単なる絵画鑑賞的な美醜に留まらず、人としての生き方にも及んでいるでしょう。
桜の花をこよなく愛するのは、花そのものを愛でるというよりも、散る姿に価値観を見いだす生き様の美意識を投影しているからでしょう。
我々は、ズルいこと、利己的な行為、依怙贔屓や不公平なことに「キタナイ」「醜い」と感じます。
逆に、潔い、利他的、正義、などを「美しい」ことだと思います。
簡単な言葉で言えば、「清く、正しく、仲良く」を美しい態度だと思う美意識があります。
それは、自然を手本として、無作為の、貪りのない姿を良しとする美意識を根底にするものだと私は思うのです。
武者小路実篤が「仲良きことは美しき哉」という言葉を残し、それをまた、美しいと感じる日本人が多くいました。
さて、今の若い日本人にこの美意識がちゃんと伝わっているでしょうか。
ズルいことを醜いと感じる心を持ち合わせているでしょうか。
少し不安に思います。
この国の向かっている方向は間違っていないでしょうか。
経済成長戦略、経済最優先、この道しかない、本当にそうでしょうか。
その先にあるのは、利己的、不公平、ズルしても強いものだけ生き残るというような、美意識とはかけ離れた道ではないのか。
未来の日本人に伝え残す宝は、日本人固有の美意識なのではないかと思うこの頃です。
高倉健、菅原文太の生き方は、まさに日本人の美意識を表現して見せたものだと思いますが、過去のものと捨て去るのでしょうか。
美意識を失った日本人など誰が評価してくれるでしょうか。
残念。

伊豆 風邪 初孫

2014年11月25日 16時52分14秒 | ふと、考えた
風邪をひきました。珍しく38.8℃まで熱が上がりました。
熱が出るとつらいです。体の置き所がないという感じでした。

11月9日から15日まで特派布教巡回で伊豆半島を回りました。
温泉と豪華食事で贅沢な思いをさせていただきました。

その出かける直前に、背中に寒気を感じることがあって、風邪になったらマズイと思い気をつけていました。
列車を乗り継いで下田までの6時間あまり、毛糸の帽子にマスク、マフラーを巻いて、ほっかいろを貼り、コートの襟を立てて、ピクリとも動かず座っていました。
かなり危険な人物に見えたでしょう。
そのお陰なのか、初日からのお勤めは無事に進んでいきました。
最終日二日前の宿は冷泉が売りらしく、1時間ぐらい浸かるのがよい、という効能書き。せっかくだからと、試してみた。本当の冷泉は水と変わらず、これはとても無理だと、2番目の冷泉に。ぬるいけど大丈夫そう、と45分浸かってみた。期待したように内からポカポカとはいかず、その後熱いお湯に入っても、サウナに入っても解消されませんでした。
山形に帰った途端、喉の痛み、咳、痰、そして発熱と本格的な風邪となりました。

18日から、自殺防止ネットワークの研修会、SVAの用事、永平寺修行仲間の会合があり上京の予定でしたがすべてキャンセル。

今日も完全には治らず、医者に行って薬を変えてもらいました。10日にも及ぶ風邪などこれまで経験がなく、体の衰えというべきか。
たまに体を休めてよかったのでは、などという人がいますが、あれはウソですね。本当に病気の時は、体そのものがつらいわけですから、休むというような悠長な状態ではありません。

風邪をきっかけに睡眠時無呼吸の症状も悪化し、こちらの治療も考えています。

そうそう、初孫が生まれました。11月8日無事に出産。女の子です。
翌朝、病室でチラッと見てすぐに出かけたので、その後まだ対面していません。風邪をうつすといけないので。


杣寺に嫁して―矢口セツ子句集―

2014年11月03日 09時46分56秒 | ふと、考えた
前回の記事『紅葉の意味』の最後に付け加えた句「燃えて散る さだめも 深山紅葉かな」の作者は矢口セツ子さん。
今年3月に88歳で他界された、真室川町大沢長泉寺ご住職のご母堂でした。
60歳過ぎから始められたという句作は、才能が開花したと云うべきか、数々の受賞歴を連ねておられます。
ご逝去の知らせでお邪魔した際、ご遺体の祭壇に

  杣(そま)寺に 嫁して悔いなし 吾亦紅(われもこう)

の句を拝見してから、その句に惹かれ、是非他の句も拝読したいと願っていました。
この度、長泉寺方丈様より手作りの句集を頂戴し全句を拝読したところです。
1050余の句はどれも名句ばかりと拝読しましたが、その中でも私の心に響いた数句を紹介したいと思います。

  息子いて 嫁いて孫いて 注連(しめ)飾る

  注がれて 鋼(はがね)びかりの 甘茶仏

  子はいつか 住職たりし 竹の秋

  聞き流す ことも一芸 ところてん

  逆らわぬ ことも手の内 いぼむしり

  引き際の 今がしおどき 夏つばめ

  ひとことの 言えぬはがゆさ 蜆貝

  言い切って 心むなしき 秋の風

  丸き背を 丸め直して 草むしる

  何なくも 曾孫七人 菊根分け

  小春日の あればみちのく 捨てられず

  ぐち聞くも 介護のひとつ 窓は雪

そして、東日本大震災を詠んだと思われる句

  追悼の 黙祷ながし 春の海

等々、心に残る句を数多く遺されました。

お元気な頃は、毎日本堂の拭き掃除と草むしりの日課であったと伺いました。
お若い頃に詠まれたという和歌があります。

  老いるまで 拭かせたまえと 願いつつ 今日も御堂の 床を拭きぬく

田舎の寺にはこのような、名も知れぬ、しかし自分のつとめを果たしきった寺族様方がいらっしゃいます。そのような方々によって寺は維持されてきました。
セツ子様を代表として、感謝の気持ちでいっぱいです。





紅葉の意味

2014年11月01日 21時52分07秒 | ふと、考えた
木の葉が、散る前に赤や黄色に色づき、人間に「美しい」と感じさせる意味は何なのでしょうか。
そんなことを最近考えています。
緑鮮やかに生まれて、枯れ落ちる、云わば死ぬ間際に色を変える意味。
いわゆる常緑樹、椿や松のように、緑のまま落ちる葉もあるわけですが、それはそれでもいいわけで、あえて色変えて落ちるのは、そこにどんな使命を帯びているというのか、そんなことを考えることはないでしょうか。
紅葉は本当に美しいと思います。
体に必要な要素を「食べたい」と思ったり、「旨い」と思ったりするのだとすれば、同じように、人間が「美しい」と思うのにもそれなりの意味があるように思うのです。
そのために色を変えるわけではないでしょうが、自然の現象を「美しい」と感じるにはそれなりの意味があるのではないでしょうか。
新緑を美しいと感じるのは分かります。新たな命の誕生ですから、希望を感じ明るい未来を連想させるのでしょう。
いろいろ考えられることはあると思います。
たとえば、命の終わりというのは、誰にとっても、どんな命であっても寂しくつらいものでしょう。
高齢に至って亡くなる場合は、病気の苦しみや老醜などという言葉を使われるように、美しさとは対極に位置するような状態も覚悟しなければなりません。
しかし、すべての命の最期が醜いわけではない、最期を美しく飾る紅葉のような存在もある、人間にだってそういう見方ができるではないか、という救いになるためだろうか。
すべての命の最期が寂しい存在であれば救いがないように思うのです。
あるいは、冬の、色のない世界に入る前に、寂しさの前に、一時心を喜ばせ、温かい思いで冬を乗り越えようとするものか。
確かにそう考えれば、厳しい冬のない、いわゆる常夏の国には美しい紅葉の季節がないように思います。
忍耐に対するご褒美の先渡しのようなものでしょうか。
いずれにせよ、我々はこの一瞬の美しさを求めて旅をしたり、名所に足を運んだりします。それがきっと何かの意味を持っているはずです。
春には花を愛で、秋には紅葉を愛でる。それが人生にとって必要な、正しい過ごし方に違いありません。

 燃えて散る さだめも 深山紅葉かな  矢口セツ子