なあむ

やどかり和尚の考えたこと

味覚の変化

2015年01月25日 20時55分57秒 | ふと、考えた
味覚というものは年齢と共に変化するものらしい。以前にも書いたような気もするが。
永平寺に修行に行く前までは、甘いものなど見るのも嫌だった。
饅頭だとか羊羹だとか。およそ人間の食べ物とは考えられなかった。
それが何と不思議なことに、あの精神的な極限状態におかれると、なぜか無性にというよりも、命の底から必要とするように食べたくなることを自分でも信じられなかった。
饅頭によだれが出て、羊羹に涙するような経験だった。
もっとも、それ以外の食べ物全部に食べたい欲求はあったので、その一部とも言えるが、それまで眼中になかった甘いものまで食べたくなることに驚いたのかもしれない。
その後、永平寺にも慣れてくると次第に甘いものの欲求は薄れて、娑婆に戻った頃には元通り見向きもしなくなった。
ビールだとか、レバ刺しだとか、痛風の直接的な原因をひたすら求めていた。
それなのに、不思議でしかたない。
いつから甘いものがおいしいと思えるようになったのだろう。
年齢的には五十を過ぎてから、体よりも頭の労働が多くなってからのような気もする。
お茶菓子にロールケーキやどら焼きなどが添えられれば、心から食べたいと思う。時には口中に唾液が泌み出す。もちろん食べる。
高校生の頃、叔母が「ご飯食べた後甘いものを食べると胸がスーッとするのよね」という言葉を気味が悪いような思いで聞いていたが、今なら分かるような気がする。
年をとるとなぜ甘いものが欲しくなるのか。私には分からない。
肉の摂取量も減ったことは確かだ。体の欲求?
甘いものは何に必要?
今日も退屈なので、屋根から落ちた雪の片付けをしていたが、途中から低血糖の症状となり、糖分が必要となった。イチゴのお菓子を食べ、バナナを1本頬張ってようやく落ち着いた。なのに、予備として堅くなった饅頭をレンジで温めてポケットに押し込んで雪かきに戻った。少し動いてから雪の上で食べる饅頭は何とおいしかったことか。
お陰様で糖尿の心配はないので気兼ねなく食べている。
糖尿も高血圧も体質の問題らしく、痛風も血統だからしょうがない、自分のせいではないと、責任をDNAに押しつけて何の反省もない。
食べたいものを食べないで少し長生きするのが幸せなのか、食べたいものを好きなだけ食べて少し短く生きるのが幸せなのか、私には、分からない。