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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
おはようございます。
もう7月ですね。
半年が過ぎるのも、1週間が経つのも早い、今日この頃です。
一昨日金曜日、東京で授賞式、祝賀会がありました。
もちろん、私のではありません。
手束耕治さんという古い仲間が、社会貢献者表彰というのを受賞されました。
手束さんは、今から32年前の1984年、現在のシャンティ国際ボランティア会の前身である曹洞宗ボランティア会に入り、ボランティアとしてタイのカンボジア難民キャンプに赴任しました。
その当時東京の事務所にいて、ボランティアを受け容れていたのが私でした。
その後、カンボジア難民が本国カンボジアに帰還するのにともなって、我が会もカンボジアに事務所を開設することになります。
その初代事務所長に就いたのが手束さんでした。
当時は、ようやく内戦が収まってきた頃で、カンボジア国内はまだまだ混沌としている状態でした。
電気はあるものの、しょっちゅう停電していましたし、交差点の信号も消えたままでした。
首都のプノンペンはポルポト時代の強制退去により廃墟と化していました。
政権が倒れ、住まいと仕事と食料を求めて大勢の人々がプノンペンに入ってきました。
交差点には、車と牛車と荷車と自転車と人があふれ、それぞれが自分の行きたい方向を目指してもがいていました。
この国の現状を写している姿でした。
街には内戦のなごりや強盗が頻発し、手束さんも自動小銃を寝床において寝たこともありました。
団体の事業として、文字を失ってしまったカンボジア国民のために、職業訓練を兼ねた印刷工場をつくり、教科書を初めとするたくさんの印刷物を作成しました。
他にも、縫製、電気などの職業訓練所、保育園、図書館、学校などの建設を手がけました。
徹底的な教育破壊を行った後の復興に、やることは数限りなくありました。
当時カンボジア国内に日本人は20名ほどしかいませんでした。手束さんは日本人会の会長にもなりました。
以来30年、生涯の半分をカンボジアの復興のために捧げてきたと言っても過言ではありません。
現在も、徳島から母親を呼び寄せ、カンボジア人の奥さんと娘さんと4人でプノンペンに住んでいます。
そんな彼が、その功績を認められ受賞したのです。
お祝いに駆けつけないわけにはいきません。
会場は帝国ホテル。はじめて入りました。こんな所に用事はありませんでした。
皇室から瑶子女王殿下がご臨席。この国に「女王」という皇位があることをはじめて知りました。
主催者の社会貢献支援財団の会長は安倍昭恵さんでした。
そんなことより、立食の料理がすばらしかった!
築地の寿司屋が目の前で握ってくれたり、吉兆が天ぷらをその場で揚げてくれたり。
もう会話などどうでも良くなっていました。
こんな事でもない限り口にできない料理を、この時ばかりと漁っていました。
でも、会場を出た後、ガード下の居酒屋に陣取って安酒を飲んで落ち着いたのは性分というものでしょう。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
おはようございます。
もう7月ですね。
半年が過ぎるのも、1週間が経つのも早い、今日この頃です。
一昨日金曜日、東京で授賞式、祝賀会がありました。
もちろん、私のではありません。
手束耕治さんという古い仲間が、社会貢献者表彰というのを受賞されました。
手束さんは、今から32年前の1984年、現在のシャンティ国際ボランティア会の前身である曹洞宗ボランティア会に入り、ボランティアとしてタイのカンボジア難民キャンプに赴任しました。
その当時東京の事務所にいて、ボランティアを受け容れていたのが私でした。
その後、カンボジア難民が本国カンボジアに帰還するのにともなって、我が会もカンボジアに事務所を開設することになります。
その初代事務所長に就いたのが手束さんでした。
当時は、ようやく内戦が収まってきた頃で、カンボジア国内はまだまだ混沌としている状態でした。
電気はあるものの、しょっちゅう停電していましたし、交差点の信号も消えたままでした。
首都のプノンペンはポルポト時代の強制退去により廃墟と化していました。
政権が倒れ、住まいと仕事と食料を求めて大勢の人々がプノンペンに入ってきました。
交差点には、車と牛車と荷車と自転車と人があふれ、それぞれが自分の行きたい方向を目指してもがいていました。
この国の現状を写している姿でした。
街には内戦のなごりや強盗が頻発し、手束さんも自動小銃を寝床において寝たこともありました。
団体の事業として、文字を失ってしまったカンボジア国民のために、職業訓練を兼ねた印刷工場をつくり、教科書を初めとするたくさんの印刷物を作成しました。
他にも、縫製、電気などの職業訓練所、保育園、図書館、学校などの建設を手がけました。
徹底的な教育破壊を行った後の復興に、やることは数限りなくありました。
当時カンボジア国内に日本人は20名ほどしかいませんでした。手束さんは日本人会の会長にもなりました。
以来30年、生涯の半分をカンボジアの復興のために捧げてきたと言っても過言ではありません。
現在も、徳島から母親を呼び寄せ、カンボジア人の奥さんと娘さんと4人でプノンペンに住んでいます。
そんな彼が、その功績を認められ受賞したのです。
お祝いに駆けつけないわけにはいきません。
会場は帝国ホテル。はじめて入りました。こんな所に用事はありませんでした。
皇室から瑶子女王殿下がご臨席。この国に「女王」という皇位があることをはじめて知りました。
主催者の社会貢献支援財団の会長は安倍昭恵さんでした。
そんなことより、立食の料理がすばらしかった!
築地の寿司屋が目の前で握ってくれたり、吉兆が天ぷらをその場で揚げてくれたり。
もう会話などどうでも良くなっていました。
こんな事でもない限り口にできない料理を、この時ばかりと漁っていました。
でも、会場を出た後、ガード下の居酒屋に陣取って安酒を飲んで落ち着いたのは性分というものでしょう。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
