なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ404 意味よりも続けること

2023年02月19日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第404回。令和5年2月19日、日曜日。

朝がだいぶ明るくなってきました。
冬の終わりが近いと感じます。もう少しですね。
15日は予定通り当山の涅槃会を勤めました。
涅槃会は「だんごまき」とも言って、大量のだんごを撒いて拾ってもらうのですが、今年は感染予防の観点から、あらかじめ袋に小分けして手渡しで配布することにしました。
それでも、家族、親戚、友人に、お守りとしてだんごを分けてあげるという人も多く、なので大量のだんごを丸めなければなりません。
14日、涅槃図の前に20名が丸く座り、手と共に口をせわしく動かしながら、賑やかに楽しく丸めていきます。
外に出ることの少ない雪の季節、お寺に集まり、情報交換というかうわさ話に花を咲かせ、御詠歌を唱え、大きな声を出しながらだんごを拾う、それがこの時期の楽しみとして続いてきたのでしょう。

例年1月後半から2月初めは最も積雪のある時期で、毎日毎日、もう嫌というほど朝の雪かきをするのですが、今年は少雪で楽をさせていただいてきました。
たまにこういう年があってもいいですね。
ただ、毎日降っていると、除雪が朝のルーティンになり、何も考えずさほど辛いとも思わずにできるのですが、しばらく解放されると再開する度に「何でこんな大変なことをやっているんだ」と愚痴も出てくるということはあります。
何でも同じだと思いますが、毎日の当たり前になれば、さほど苦労とも思わないものです。
朝の洗面に「顔を洗って何になるのか」と悩んでいる人はまずいないでしょう。
同じように、朝の坐禅やお勤めも、はじめの頃は「そこまでしなくてもいいのではないか」とか「少しぐらいサボっても」と気持ちがグラグラ揺れ動くことはありましたが、それがルーティンとなれば、その意味などに振り回されることなく、当たり前の日常としてできるようになるものです。
要は、一々意味など考えなくてもできるようになるまで続けるということですね。
母親の介護をしていた時に、周りの人から「大変ですね」とねぎらわれたことがありましたが、それが当たり前になってしまえば、それほど大変とも思わずにできるものです。「大変だったのは奥さんだったでしょう」と言われればその通りですが、周囲の思いほどでもないと思いますよ。
赤ん坊がいればそれは毎日そのお世話が大変です。
おしめを替えたり、ミルクを飲ませたり、夜中に何度も泣いたり、大変には違いない。
しかし、子育てとはそんなものだと、自分のこととして受け止めてしまえば、いや、受け止めてしまわなければ、誰も子育てなどできないでしょう。
意味など考える前に、目の前のことを自分のすることだと、自然に体が動くまでやり続ける、それが大事なのだと思うのです。

幼稚園や介護施設、病院での虐待が後を絶ちません。仕事を他人事のように受け止めているのではないでしょうか。
自分の仕事を自分の仕事だと引き受ける覚悟のない人にとっては辛いのでしょうね。
誰も楽して生きている人はいません。でも、他人から見て大変そうだと思えても、自分の用事だ、自分の生きる道だと受け止めて生きている人にとって、日常は大変とか辛いなどと考える間もない日常です。その中には気づきや楽しみもあるはず。
永平寺など修行道場の修行も「厳しいのでしょう。辛いでしょうね」などと言われますが、辛いのは慣れるまでの三か月、慣れてしまえば何ということもありません。
何でも、意味に悩みながらも続けることですね。
このブログも、毎週書くことがルーティンになっているので、今さら辛いとか大変だということはありません。常に次は何を書くかと考えていますし、書き出せば手は勝手に動くものです。
自分の生き方を、自分で考え自分で判断し決定して、そして行動していく。
自分の命の使い方を自分で決める。
間違いも失敗もある。その失敗の経験から判断の修正を行っていく。
その経験の積み重ねが自信となる。自信はそこからしか生まれてこない。
自分の判断を他人に委ねることから自信は生まれてきません。
判断を誰かに尋ねることが習慣になってしまうと、何でもかんでも聞いてからでないと行動できなくなります。
判断の依存です。それは支配につながります。それは自分の命を自分で生きていることにならないでしょ。
思い切って自分の判断で、自分の決めた方向へ、自分の足で一歩を踏み出してみましょう。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。