三ちゃんのサンデーサンライズ。第413回。令和5年4月23日、日曜日。
木の芽が出てきました。
と言っても、当地で「木の芽」と呼ぶのは山椒の芽ではなく、色々な木の新芽を総称してそう呼びます。
代表的なものはアケビで、それはそろそろ終わりです。その後に出てきたのがハシノメで、朝の散歩の途中にあるので毎日のように摘んできています。
タラノメ、コシアブラ、ウコギなども好まれる木の芽ですね。
考えてみれば、春の山菜はどれも、コゴミ、ワラビ、ゼンマイ、シオデ、アイコ、クワダイ、タケノコなどなど、植物の新芽なわけで、厳しい冬を乗り越えて顔を出した瑞々しい命をいただく、この上ない贅沢だと思っています。
冬の間に眠っていた体を目覚めさせるために、多少苦みやエグミのある味が、山の動物も含めて必要とされるのだということです。
17日、6月の講演の打ち合わせで八戸へ。
青森県第2の人口の漁港の街。豊富な海産物が水揚げされ昔から賑わってきました。
市仏教会は宗派を超えて和合していて、毎年大規模に花まつり法要を開催してきました。
今年4年ぶりの本格開催で呼ばれています。
間を取り持ってくれた和尚さんと久しぶりの再会をし、地元の美味しいお酒も頂戴しました。
19日は仙台で東北管区の布教師協議会でした。
こちらもお仲間の和尚さんたちと一献傾けましたが、連日の疲れもあっておとなしく休みました。
今月はこれで4回目の外出でしたが、まだもう1回あります。
3月4月は葬儀も多く、都合10件を勤めました。
「忙しい」と口にするのは恥ずかしいことという認識があり、負けを認めることのように思い込んでいるので意地でも言いません。
だいたいにして、多くの用事があろうが特に何もすることが無かろうが、一日の時間は24時間と決まっており、ほとんど同じ回数の心臓の動きと呼吸を繰り返しているので、この時間をどう過ごしたかの違いだけです。
自分だけ速度の違う時間を過ごしたわけではありませんし、多くの時間を生きたわけではありません。
バタバタ動いているから偉いわけでもなく、人気があるわけでもありません。
自分の時間を、心臓の動き、呼吸のリズム、足の運びの速度に合わせて、無理をせずに使っていけばいいでしょう。
私は寝るのが好きなので、夜8時には寝て朝4時過ぎに目が覚めます。しっかり8時間は寝ます。
他人の時間を使うことはできません。他人と比べることでもありません。
自分の時間の使い方が、命の使い方です。
そして、自分の務めをきちんと勤めることを第一としなければなりません。
お釈迦様の言葉をまとめた『法句経』に次のような一節があります。
おのれのつとめに励む上で、行動の判断基準として心にとめておかなければならないのは、お釈迦様が示された正しい生き方「八正道」です。
それは次の八つです。
1,正見ー正しく見る、先入観で色付けして見ない。
2,正思惟ー正しく見て、正しく考え判断する。
3,正語ー正しく考えて、相手に対して適切な言葉を使う。
4,正業ー正しい判断で、正しい行いをする。
5,正命ー正しい行いによって、正しく生活する。
6,正精進ー正しく生活できるよう正しく努力する。
7,正念ー正しい祈りを持つ。全ての人が幸せであるように。
8,正定ー正しい姿勢で座り、心を静かに保つ。そうすれば、正しく見、正しい判断ができる。
このように、八正道はそれぞれ一つが八つあるのではなく、八つがつながり連動しているものです。
「正しさ」とは、誰にとっても幸せであることと言ってもいいでしょう。
そんなことは理想論だ、世の中は勝つか負けるかだと一蹴する人もいるでしょうね。
そのどちらの立場に立つのか、それが仏教徒かそうでないかの分かれ目なように思います。
現実は理想とは違う、全ての人が幸せなどなり得ようがない、と思う人の側に立つ人は仏教的ではありません。
現実ではなく、理想として目指すものを見つめて、そのための努力を続ける人の側に立つ人、それを仏教徒あるいは仏教的だと言いたいと思います。
「衆生無辺誓願度(この世に苦しむ人々は数限りなくいるが、一人残らず救うことを誓願する)」が仏教徒の願いだからです。
そういう意味では「誰一人取り残さない」も仏教的だと、私は受け止めます。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
木の芽が出てきました。
と言っても、当地で「木の芽」と呼ぶのは山椒の芽ではなく、色々な木の新芽を総称してそう呼びます。
代表的なものはアケビで、それはそろそろ終わりです。その後に出てきたのがハシノメで、朝の散歩の途中にあるので毎日のように摘んできています。
タラノメ、コシアブラ、ウコギなども好まれる木の芽ですね。
考えてみれば、春の山菜はどれも、コゴミ、ワラビ、ゼンマイ、シオデ、アイコ、クワダイ、タケノコなどなど、植物の新芽なわけで、厳しい冬を乗り越えて顔を出した瑞々しい命をいただく、この上ない贅沢だと思っています。
冬の間に眠っていた体を目覚めさせるために、多少苦みやエグミのある味が、山の動物も含めて必要とされるのだということです。
17日、6月の講演の打ち合わせで八戸へ。
青森県第2の人口の漁港の街。豊富な海産物が水揚げされ昔から賑わってきました。
市仏教会は宗派を超えて和合していて、毎年大規模に花まつり法要を開催してきました。
今年4年ぶりの本格開催で呼ばれています。
間を取り持ってくれた和尚さんと久しぶりの再会をし、地元の美味しいお酒も頂戴しました。
19日は仙台で東北管区の布教師協議会でした。
こちらもお仲間の和尚さんたちと一献傾けましたが、連日の疲れもあっておとなしく休みました。
今月はこれで4回目の外出でしたが、まだもう1回あります。
3月4月は葬儀も多く、都合10件を勤めました。
「忙しい」と口にするのは恥ずかしいことという認識があり、負けを認めることのように思い込んでいるので意地でも言いません。
だいたいにして、多くの用事があろうが特に何もすることが無かろうが、一日の時間は24時間と決まっており、ほとんど同じ回数の心臓の動きと呼吸を繰り返しているので、この時間をどう過ごしたかの違いだけです。
自分だけ速度の違う時間を過ごしたわけではありませんし、多くの時間を生きたわけではありません。
バタバタ動いているから偉いわけでもなく、人気があるわけでもありません。
自分の時間を、心臓の動き、呼吸のリズム、足の運びの速度に合わせて、無理をせずに使っていけばいいでしょう。
私は寝るのが好きなので、夜8時には寝て朝4時過ぎに目が覚めます。しっかり8時間は寝ます。
他人の時間を使うことはできません。他人と比べることでもありません。
自分の時間の使い方が、命の使い方です。
そして、自分の務めをきちんと勤めることを第一としなければなりません。
お釈迦様の言葉をまとめた『法句経』に次のような一節があります。
他人を利すること 多かるとも
このことのゆえに おのれのつとめに 怠るなかれ
おのれのつとめをしり そのつとめにこそ 専心なれ
このことのゆえに おのれのつとめに 怠るなかれ
おのれのつとめをしり そのつとめにこそ 専心なれ
おのれのつとめに励む上で、行動の判断基準として心にとめておかなければならないのは、お釈迦様が示された正しい生き方「八正道」です。
それは次の八つです。
1,正見ー正しく見る、先入観で色付けして見ない。
2,正思惟ー正しく見て、正しく考え判断する。
3,正語ー正しく考えて、相手に対して適切な言葉を使う。
4,正業ー正しい判断で、正しい行いをする。
5,正命ー正しい行いによって、正しく生活する。
6,正精進ー正しく生活できるよう正しく努力する。
7,正念ー正しい祈りを持つ。全ての人が幸せであるように。
8,正定ー正しい姿勢で座り、心を静かに保つ。そうすれば、正しく見、正しい判断ができる。
このように、八正道はそれぞれ一つが八つあるのではなく、八つがつながり連動しているものです。
「正しさ」とは、誰にとっても幸せであることと言ってもいいでしょう。
そんなことは理想論だ、世の中は勝つか負けるかだと一蹴する人もいるでしょうね。
そのどちらの立場に立つのか、それが仏教徒かそうでないかの分かれ目なように思います。
現実は理想とは違う、全ての人が幸せなどなり得ようがない、と思う人の側に立つ人は仏教的ではありません。
現実ではなく、理想として目指すものを見つめて、そのための努力を続ける人の側に立つ人、それを仏教徒あるいは仏教的だと言いたいと思います。
「衆生無辺誓願度(この世に苦しむ人々は数限りなくいるが、一人残らず救うことを誓願する)」が仏教徒の願いだからです。
そういう意味では「誰一人取り残さない」も仏教的だと、私は受け止めます。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。