三ちゃんのサンデーサンライズ。第472回。令和6年6月16日、日曜日。
12日、東北管区教化センター資料作成委員会の会議で仙台泊。
懇親会の後、外に飲みに出る力は残っていませんでした。体力が落ちています。
今日は広島、呉に来ています。
昨日の夜、神応院さんの仏教講話会に呼ばれてのことです。
コロナで3年休みましたが、18年ほど前から毎年呼んでいただいています。
今は「四無量心」の話を5回にわたって話し、今回が最終話でした。
過去のレジュメを繰ってみると、挿入に同じような話が出てきます。
一人の人間に経験談や知識が無尽蔵にあるわけではなく、回数を重ねれば同じような話になるのは仕方のないことです。
それを怖れることはありません。聞法者も全てを正確に記憶している訳でもないでしょうし、繰り返し聴くことで話者が大事に思っていることが伝わるということもあるでしょう。
例えば、「親父から何度も聞かされた」というような話は、親父という人間性、信条が分かる事象であり、その理念が家族子孫に伝えられていくことにもなるでしょう。
繰り返すことで心に染みてくる、それ自体に意味があるものと言えます。
母が元気だったころ、帰る度に決まって「広島で何うまいもの食ってきた?」と聞かれるのでしたが、どこかで食事ということはなく、お寺で手作りの夕食と終わってからの懇親でこちらも手作りの料理をご馳走になるのが常でした。
それはどれもおいしくいただいて来ましたが、母親の聞くような広島だからといっていわゆる名物のお好み焼きだとか牡蠣だとかを食べることはありませんでした。
それに対して私は「観光しに行っている訳じゃない」とつっけんどんに答えていましたが、母親が聞きたいのは食べ物ではなく、「あんなことがあった、こんなことがあった」という話を聞きたかったのでしょう。
どこに行って帰って来ても何か話すわけでもなく憮然としているだけなので、話の糸口として食べ物のことを聞く以外になかったのだと今は思います。
まことに、親を喜ばせることのできない息子でした。いや、何を求めているのかは気づいていたと思います。しかしそれに応えることが億劫というか、面倒くさいというか、甘えていたのだという以外にありません。
ひとは、その心が分かるのはいつも亡くなってからばかりですね。
『なぜヒトだけが老いるのか』という本を興味深く読みました。
生物学者小林武彦の『生物はなぜ死ぬのか』の続編のような著書です。
『なぜ死ぬのか』では、生物は「変化と選択」によってたまたま環境に適応したものだけが命をつないできた、という説明でしたが、『老いるのか』では、ヒトだけが獲得した「老後」の意味について語っています。
かいつまんで言うと、ほとんどの生物は生殖能力がなくなると死ぬ。いわゆるポックリと。なので「老いる」という期間はない。
ではなぜヒトだけが「長い老後」を獲得したのか。
ここにも「変化と選択」という仕組みがあるというのです。
ヒトが二足歩行を始めてから、産道が狭くなり未熟児のまま産むことを選択した。すると子育てをするとき、一人では手がかかり次の子どもを産むまでに時間が必要だった。
そこにその母親、おばあちゃんがいた場合子育てに手を借りられて子どもを産みやすくなった。
そのようにして多くの子どもを産むことができたヒトが多く生き残ってきた、おばあちゃんの存在が有効であり寿命が延びた。という仮説です。
ではおじいちゃんはどうか。
ヒトは一人では生きられない。集団で社会を形成して生きている、というのが前提です。
その社会においては、様々な問題が起こった時の対処法として、豊富な経験と智慧を持った存在がいる社会が問題解決に有効で永続できた。
つまり、子育てに関わりはしないけれど、社会をまとめる「知識」としての存在がおじいさんの存在意義だった、というのです。
そして、85歳を過ぎたあたりから、欲が支配する世界から超越した「老年的超越」という心理状態になるというのです。
おもしろいですね。
その他さまざまな示唆に富む好著でした。二冊合わせて読むことをお勧めします。
今週の一言。
「老いには意味がある」
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。