ピエール・ボナール(1867-1947)の作品をこれまで見る機会は少なかった。この作品「浴室の裸婦」(1925)も初めて目にした。展示されているボナールの作品は他に「浴室」(1925)があり、連作のうちの2点ということらしい。58歳のときの作品となる。
いづれの作品も独特の視点と構図で、見る者に不思議な印象を与える。上から見下ろしたような女性像(妻のマルト)と解説には記載してある。安定した存在感どころか画面全体が不安定で、見つめていると描かれている三次元の空間が歪んでいるように錯覚する。浴槽など重力の呪縛から解き放たれてしまって、その存在を自ら誇示している。
「浴室」の解説に「モティーフがもつ魅力によって、描く対象が決まる。この魅力や最初の着想を失ってしまうと、画家はただ目の前にあるモティーフや物に支配されているに過ぎない。そのような段階では、もはや画家自身の想像は終わっている」というボナール自身の言葉が引用されている。
もしもここでいうモティーフというのが妻マルトの身体だけとするとどうもよくわからない言葉である。ボナールの言葉は、画家とモデルの関係が時間とともに変化し、そしてモデルや描く対象に画家が支配されるようにななる、ということをいっているのではないか。初期の感動が時間とともに変質することは嫌ったのであろう。
なお、妻マルトは結核に苦しみ、当時の療法として水療法で湯船に浸かることをしていたと解説に記してある。
長年連れ添った妻であろうと、画家とモデルの関係から言えば、画家にとっては描きたいと思ったモティーフが時間とともに変容することを嫌ったのだと解釈できる。それは最初の感動が、モデル自身の存在感そのものではなく、周囲との関係の中で一瞬の輝きを示した場面だということなのではないか。
窓から指す日の光、室内調度などによる光と色彩の一瞬の輝き、あるいは視点の設定による構図的な感動などである。それを画家がじっくりと見つめ続ければ、画家の感情によってさまざまに作り替えられて変容していく。その変容をどのように排除して、初めの感動を維持するのか、それがボナールにとってのこだわりだったのではないか。
「浴室」は妻マルトの全身像が描かれているが、白い浴槽の質感、敷物や壁の色との対比などが不思議な遠近感、立体感を強引に平面に落とし込める視点によって描かれている。モティーフというのがモデルとしてのマルトその人体ではなく、人体の部屋の中における存在感に主眼があったと考えてみると、画家の言葉が頷けるように思う。
この「浴室の裸婦」はモデルの下半身だけがモデルの存在を示している。作品の主たるトーンは白い硬質な浴槽の存在感と人物の柔らかい陽射しに包まれた存在感、この対比が主調音であるようだ。そして黄色の敷物の質感との対比、また立っている人物の着物と裸身の対比が添えられているような気がする。
なお、「浴室の裸婦」の左側に描かれた人物、解説ではボナール自身であろう、と記されている。私はその端正な足首の描き方や服装からはどうしても女性に思える。女性とした場合どのような物語、ドラマがこの作品に込められているのだろうか。あまりドラマチックな物語性をボナールの作品に求めてはいけないのかもしれない。するとどういう意味でこの人物を配置したか、知りたいものである。