Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

スマホは本日放置状態

2018年06月06日 22時46分42秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 レインアイよこはまを見る限り、横浜市域からは雨の区域は抜けたようだ。ただし1ミリ未満の弱い雨は降っている。一日中家の中で過ごしたのは何か月ぶりだろうか。

 さて朝からスマホをベッドの上に置いたまま放置をしていた。電話が2本、ショートメールが2通、スマホあてメールが3通ほど来ていた。気が付いたののが21時過ぎだったので、返信や折り返しの電話は明日にさせてもらうことにした。すっかり休養モードになっていた。友人の一人は休養日はスマホの電源を切ってしまうということであったが、私はそこまではしたくない。中には急ぎのものもあるし、大事なものもある。メールなり電話をわざわざしてくれる人に申し訳ないと思う。休養日には出たくなかったり、見たくないものもあることにはあるが、それで命が縮まるわけでもないので、我慢のしどころであろう。しかも私の休養日は土・日・休日ではない。私の都合・身勝手で休んでいる。相手はそれを知らない。

 本日はこれにて終了。

引き籠って休養日

2018年06月06日 18時16分12秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は休養日。のんびりしている。

 一日家に籠っている。引き籠りは性に合わないのだが、昨日のお酒が少し度を超したのか、日本酒を久しぶりに2合も飲んだのがいけなかったのか。もっとも日本酒のまえに目当ての店の開店待ちに、他の店で飲んだハイボール2杯がそもそも間違いであった。目当ての店のおまかせで1500円でお通しの小鉢3皿と刺身3種と蒸し鰈。いづれも美味。お酒2杯を加えて総額2600円というのは破格の値段。ここのお店はときどき昼に天丼だけのランチタイム営業する。それが500円。前回はオクラ、エビ、カボチャ、ナス、レンコン、シイタケの天丼であった。丼は小さめだが、私などにはそれでもご飯が多い。
 また行きたい店である。

 半袖、半ズボンでは少々寒く感じる。引き籠っていると、寒く感じる。最高気温は昨晩日付が変わった直後の0時44分に22.2℃のままの表示が続いている。昼間はそれよりも低かったということである。時間当たり5ミリ未満の雨がずっと続いており、梅雨入り宣言が出されたらしい。平年より2日早い、ということでほぼ平年並みなのであろう。


横浜美術館「ヌード展」から(3)

2018年06月06日 16時34分31秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 グウェン・ジョン(1876~1939)は英国出身の女性画家。私は初めての画家。パリでホイッスラーに学び、ロダンの晩年の愛人であったらしい。他の作品は知らないのだが、この作品(1909-10)は印象に残った。
 生身の人間とは思えない肩の形状、普通ならば顔を動かすはずなのに右目を極端に右側に向け、挑みかかるような表情である。細すぎて長すぎる手、左右で太さが違い過ぎる腕、腹部や太ももに比して張りがなく生気のない乳房の描き方。画家の悪意すら感じられる人物像である。
 解説によると画家は「彼女は可愛い小さな顔をしているけれど、“嫌な性格”だった」と書いたそうだが、具体的にどう「嫌な性格だった」かは記されていない。そんな表現を通り越して悪意ある像である。
 否、嫌悪感を持つような表情とはどういうものかを絵画作品として成立できるものかを試した見た、というのがいいのかもしれない。肉体表現と「内面を描く」ということの困難さの前に多くの人はたじろぐものなのだろうと私は思っている。
 人は他人の表情から、自分の勝手な思い込みによって「この人はこんな性格」とか「今こんなことを考えているはずだ」と判断している。たいていの場合このような誤解によって人間関係は成り立っている。それは得てして人間関係の破たんや悲劇を生み、時には円滑にもする。
 肖像画を除く人物像では、モデルは人物を描くための契機である。モデル自身は画家の眼をとおして変容する自分を常に自覚しているから、作品へ注文は付けられない。だが、モデルの名が作品名になるとすれば、モデルからさまざまな抗議を受けることになるかもしれない。この場合、このように描かれてしまった自分を見て、モデルは画家に文句を言ったかもしれない。それが“嫌な性格”という言葉になった可能性はあるのではないか。画家の言葉として引用されているのは、一ひねりして解釈した方がよさそうだ。




ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)の作品は1点、「詩人のためらい」(1913)。初期の部類に入る作品と思われる。キリコの晩年の作品はあまり評価はよろしくないようだ。
 初期の作品は、古代と現代、男と女などという把握での対立概念で構成されることが多い。これなども古代風のアーチ型建造物と現代の機関車を配置し、ギリシャ風の硬質な胸像と柔らかいバナナの組み合わせである。
 柔らかい植物はバナナだけではあるが、胸像の身の捻じ曲げ方からは、人体の柔らかさも表現している。そして胸像は女の、バナナは男の暗喩であるらしい。それらを結びつけるのが、不思議な遠近法と影の不統一とによる構成である。バナナが男の象徴ならば、お伊勢否生命力の参加なのか、と思うが、胸像は豊饒さとは無縁に硬質である。
 「詩人のためらい」という題、題名に囚われてはいけないが、誰がどこにもったためらいなのか、聴いてみたいものである。


夏掛けの布団も暑い

2018年06月06日 10時26分16秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昨晩から掛け布団を変えた。タオルケット2枚にした。一昨日までは、夏掛けとタオルケット1枚で寝ていた。朝起きてみると暑くて寝ている間にベッドの下に蹴飛ばしてしまっていることが続いた。
 始めは軽すぎて頼りない感じであった。だが朝になってもベッドの下に放り出していることはなかった。
 タオルケットだけというのは毎年のことであるが、替えたころは少々不安がある。薄くて軽いので、寝返りをうった時に体にまとわりついてしまう。ぐるぐる巻きになってしまわないかという危惧が先に立つ。だが思ったほどにはそのような危惧は杞憂である。
 昨年までも梅雨前後にタオルケットだけに変え、さらに8月ともなるとタオルケット1枚にしていたと思う。

★寝息より軽しと思ふ夏蒲団     山田東海子
★明け方の手足に探る夏蒲団     北村貞美


 第1句、上5は多分となりに寝ている人の寝息の印象から。中7、下5は自分が夏蒲団をかけているときの感想。主語が入れ替わっている。これがおかしいと思うか、視点の移動として受け入れられるか、評価は分かれる。前者とすると艶めかしい川柳ともいえる。
 第2句、これは明け方の少し涼しく感じたときの実感として誰もが感じることだと思う。目新しい観点の句ではないが、布団の感触が伝わる。
 こんな句もある。
★夏掛けの男のごとく頼りなき    小林貴子
 「男のごとく」が男一般ではつまらない。そんなら端から男を頼るな、という感想で終わる。これは特定の男を指していると考えた方がいい。「身近にいる」ないし「かつて身近にいた」という形容詞のつく男であれば、話の筋は通る。
 一方で男に惚れるのではなく、惚れさせる女であることに颯爽とした女性像を読み取ることもできる。受け取る人の年代や、時代背景によって、そして個性によって思いは様々。
 私はこの男、作者の「父」ではないかという感想も持った。経済的にか、あるいは軽蔑心が先行した父親への決別の気分なのかもしれない。

 以上3句、俳句としては私のイメージからはちょっとはなれているが取り上げてみた。