Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「仕事」(吉野弘)

2018年06月17日 23時24分23秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 仕事     吉野弘

定年で会社をやめたひとが
--ちょっと遊びに
といって僕の職場に顔を出した。
--退屈でしてねぇ
--いいご身分じゃないか
--それが、一人きりだと落ち着かないんですよ
元同僚の傍の椅子に坐ったその頬はこけ
頭に白いものがふえている。

そのひとが慰められて帰ったあと
友人の一人がいう。
--驚いたな、仕事をしないと
  ああも老けこむかね
向い側の同僚が断言する。
--人間は矢張り、働くように出来ているのさ
聞いていた僕の中の
一人は頷き他の一人は拒む。

そのひとが、別の日
にこにこしてあらわれた。
--仕事が見つかりましたよ
  小さな町工場ですがね

これが現代の幸福というものかもしれないが、
なぜかしい僕は
ひところの彼のげっそりやせた顔がなつかしく
いまだに僕の心の壁に掛けている。

仕事にありついて若返った彼
あれは、何かを失ったあとの彼のような気がして。
ほんとうの彼ではないような気がして。


 何とも身につまされる詩である。私も現役時代に幾度も同じような体験と感想を持った。そして私が定年となって、ふと懐かしく昔の職場に出向いたことも2度ほどある。そして後輩や元同僚と椅子に腰かけて、2~3分ほど話をして退出した。
 現役時代はこの詩のような会話が主であった。ほとんどの先輩はそれほど老け込むようなことはなかったものの、それでも「仕事をしているときのほうが張り合いがあってよかった」「生活にメリハリが無くなった」と愚痴をいっていた。
 その都度私は、「私なら他のことをしたい」と思いながら、それでもやはり「仕事が無くなるというのはこういうものなのか」と感じていた。
 「彼のげっそりやせた顔が懐かしく」というのは極端かもしれないが、「生活に張りがなくなった」と愚痴をいう先輩のあり様こそが、仕事に振り回された現役時代よりも本当は肯定されるべきなのではないか、と心の片隅で考えていた。仕事を離れてこそ生きがいを見つけられるのだ、生きる張り合いがあるのだ、といつも思っていた。
一方で、労働組合の役員としては「働き甲斐・生き甲斐、誇りをもって働き続けられる職場を!」「家族に胸を張って誇ることのできる仕事を!」と、これは本気で主張していた。だが、これを主張する私自身は、仕事以外の生き甲斐を模索していた。定年延長を主張しても私自身は60歳で現役を退きたかった。

 今でも、この矛盾した感慨がつきまとっている。

群馬県南部で震度5弱

2018年06月17日 20時13分21秒 | 天気と自然災害
 先ほど出かけて15分ほどしてから携帯に地震情報が横浜市から来た。群馬県南部で震度5弱という情報であった。震度5弱では木造家屋に被害が出ている可能性もあるとは思いつつ、そのままウォーキングを続けた。
 先ほど帰宅してニュースを見ると、木造建築の屋根瓦が落ち、車を直撃したとのこと。大事には至らなかったようだ。

 気象庁のホームページでは、

地震情報(顕著な地震の震源要素更新のお知らせ)
6月17日17時31分 気象庁発表
6月17日15時27分 群馬県南部の地震
北緯36度27.3分(北緯36.5度)、東経139度10.2分(東経139.2度)
深さ14km(深さ10km)、規模(マグニチュード)4.6


と記されている。

 群馬県の内陸部の地震は私はあまり聞いたことがない。どちらかというと空白域に近い。しかし日本列島はどの区域もいつなんどき強い地震が起きても不思議てはないところである。用心に越したことはない。この地震によるさらなる被害や、土砂災害等がないことを祈りたいものである。

 地震の詳細は⇒http://www.jma.go.jp/jma/press/1806/17a/kaisetsu201806171730.pdf

「自分自身に」(吉野弘)

2018年06月17日 12時54分02秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 自分自身に     吉野弘

他人を励ますことはできても
自分を励ますことは難しい
だから--と言うべきか
しかし--というべきか
自分がまだひらく花だと
思える間はそう思うがいい
すこしの気恥ずかしさに耐え
すこしの無理をしてでも
淡い賑やかさのなかに
自分を遊ばせておくがいい


 2行ずつ読んでいく。その2行のことばのリズムがいい。詩人の詩が私の凡庸な思考とちがっているのは、たいてい「起」の叙景と「承」の抒情、「転」と最期の「結」の部分の転調と飛躍の見事さである。「転」と「結」に含まれる作者の「意」、これが反映している叙景である「起」に戻って再度読みなおしたくなるのが優れた「詩」であろう。
 この詩がその見事な典型がどうかは「詩」に詳しくはないので、判断はできない。叙景がないのが寂しいし、欠点といえば欠点なのだろう。しかし私の気分にはよく合致して印象に残っている。
 自分を励ますことの難しさを、今年の前半はずっと味わってきた。そして未だどこかもう少し、という段階である。そして「だから」「しかし」といつも相反する接続詞で同じことを呟いている。
 ただし「自分がまだ開く花」とは思っていない。私はただただ息をするためにもがき続けるだけである。それでも「気恥ずかしさ」だけは際立って私を追い詰めてきた。「自分を遊ばせる」術は60数年経ても身に付いていないが、結果として世の中を泳がされるように泳いできた。それがどこかで「自由な浮遊」であったのであろうか。心にゆとりがあった時は「自由な浮遊」を楽しむ自分を眺めていたような気もする。