Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

読了「文学が裁く戦争」

2023年12月25日 21時31分43秒 | 読書

   


 年賀状のあて名書きが早めに終了したので、「文学が裁く戦争 東京裁判から現代へ」(金ヨンロン、岩波新書)に目を通し、全体を読み終わった。
 後日、感想を述べる機会があるかもしれないが、とりあえず現在のところは考えがまとまらない。引用個所もうまくまとめられていない。

 ただし、井上ひさしの「東京裁判3部作」という「夢の裂け目」「夢の泪」、「夢の痂(かさぶた)」は是非とも目を通してみたくなった。
戦前にも「大日本帝国憲法が適用されていなかった」朝鮮人は「半、日本人」だったわけだが、戦後、この朝鮮字をいわゆる「外国人」として扱えば、賠償金や補償金、朝鮮に帰るまでの旅費を日本西武が負担しなければならなくなる。また、戦時中に連行されてきた朝鮮人は、炭鉱や造船所の重要な労働力であるので、それをりようしたいGHQ側も朝鮮人に足止めをかけ、放置しておいた方が利益になる。しかし、あまり「力を持たれては困る」ので、日本の警察とGHQが暴力団と一緒になって、朝鮮人の勢力をけん制しているという。こうした複雑な説明を聞いた健(「夢の泪」の登場人物)は、帝国同士の結託でもう一度植民地の人々が「捨てられた」ことに絶望する。」(第6章)
 今の時代、忘却の向こうに追いやられた歴史に光を当てたいものである。

これらの文学を読む読者たちのほとんどは、戦争や戦争犯罪を直接知らない世代である。犠牲者にも傍観者にも過剰に同一化しないで、弁護人にも検察官にもなり切らないで文学を読むことが必要かもしれない。一つの立場に過剰な同一化を行うと、自分の読み方が道徳的、倫理的に正しいことを疑わなくなる。読者が唯一の裁判官になってしまう。戦争犯罪の再審を求め続ける文学は、読者に裁判官になることを求めていないはずである。様々な立場から出来事を眺めることで、出会い損ねた他者の存在に気づく読者を待っているはずだ。」(おわりに)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。