本日は退職者会のイベントの一つとして、横浜市市電保存館を訪れた。特にたくさん歩いて健康増進という取り組みではなく、退職者会の会員にとっては懐かしいものに触れる機会である。
私も1964年の4月から7月半ばまで、短い帰還ではあったが、横浜駅東口から不動下という電停まで市電を通学で利用した。5系統と11系統であった。
夏休みになる直前に根岸線が桜木町駅から磯子駅まで延伸・開業して利用しなくなったはずである。
当時の運賃は定期利用ということもあり、記憶にないが、根岸線もずいぶん安かったと思う。
当時花園橋という電停が現在の横浜スタジアムの近くにあり、朝の通学時突然運転席から火が上がり、煙が出る事故があった。若い車掌に誘導されて後部ドアーから車外に避難した記憶がある。その電車をどのようにして運搬したか記憶にはないが、後続の市電に乗り換えて不動下までいつものように通ったことは覚えている。
市電はそれから乗車した記憶がない。本日58年ぶりに乗ろうとして、入口のステップの段差の高いことに驚いた。現在あちこちにある都市施設内の階段の段差の倍近くあったのではないか。当時まったく気にしないで乗降していたが、本日は杖を突いてやっとのことでこのステップを乗降した。当時はバリアフリーという概念もなく、高齢者はとても苦労して乗降したと思った。
また説明では他都市よりも軌道の幅が広かったといわれ、現在も運航している他都市には横浜の市電を譲ることが出来ないとのこと。小学生の低学年の時に馴染んだ函館の市電と比べてとても車内が広かった。
もうひとつ懐かしかったのが、市電の前後に掲げられた系統番号についている広告。ここに掲げた写真にもある「ヴィオラ靴クリーム」を見たとき、思わず「懐かしい」という声を出してしまった。乗車していた市電はこれほど新しい型ではなかったと思うが、この5という系統番号と広告をどうしても撮影したくなった。
この系統図をよく見ると路線は横浜市の中南部に偏っていて、北部・西部には無く、さらに東部も臨海部に1系統があるだけであったのがわかる。私が現在住んでいるところのすぐそばにも市電は通っていたが、中・高生の頃はほとんど利用することがなかった。