Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「永遠のソール・ライター」展

2020年02月13日 19時58分17秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 参議院議員会館での屋内集会終了後、渋谷駅で降りてBunkamura ザ・ミュージアムで開催されている「ニューヨークが生んだ伝説の写真家 永遠のソール・ライター」展を見てきた。何とも仰々しい謳い文句であることか、とあきれながらも楽しんできた。

  

 チラシにも記され、ホームページにも掲載されている文章は以下のもの。

2017年、Bunkamura ザ・ミュージアムで日本初の回顧展を開催し、大きな話題を呼んだ写真家ソール・ライター(1923-2013)。 1950年代からニューヨークで第一線のファッション写真家として活躍し、1980年代に商業写真から退いた後、世間から突如姿を消しました。ほとんど知られていなかった写真家の展覧会がこれほどの反響を巻き起こした背景には、画家として出発し、天性の色彩感覚によって「カラー写真のパイオニア」と呼ばれた個性と才能がありました。約8万点のカラー写真をはじめとする作品の大半を整理することなく世を去った写真家の「発掘作業」は今もなお、現在進行形で続けられています。
本展では、ニューヨークの膨大なアーカイブから、世界初公開作品を含むモノクロ・カラー写真、カラースライド等の作品をはじめ、豊富な作品資料やデジタル技術を駆使して、知られざる一面を紐解きながらソール・ライターの更なる魅力をご紹介します。

 会場を2回ほどまわってきた。私にはとても好ましい写真である。ちょうどハマスホイ展を見たばかりなので、つい比較しながら見て回った。比較すること自体があまり意味もないのだが、面白いことに気がついた。
 ハマスホイの作品は、人は描かれているが、人間は非在である。人の生活の痕跡を丁寧に消し去っている。ソール・ライターの写真作品からはまったく逆の印象を受けた。極端なことをいうと人が映っていない作品からも人の気配が濃厚に立ち上ってくる。
 ただしそれは生活感というものとは違う。また夭逝した妹や生涯ののパートナーであった女性を除いて、撮影者と被写体の関係は希薄である。作品に登場する都会に住む人間同士の関係も希薄であり、互いに没交渉の人の集団である。だが、確かに都会での人の息吹が伝わってくる。都会で生きている人間が、そのまま写っている。そして撮影者独自の構図や色彩感覚の中で息づいている。

 ボケ味を最大限生かし、雪や雨を独特の視点で多用し、窓枠効果を駆使し、そして狙った被写体は小さながら明確に描いている。焦点にする対象人物や物よりもボケた周囲を大胆に大きく写し、より効果を高めている。そして思い入れを拒否したようなごくありふれた題名が普遍性を前面に押し出している。
 「喧騒の中の一瞬の静寂」「群衆の中の一瞬の静止」「都会の中の一瞬の自己確認」などという言葉が湧いてきた。
 「都会」は被写体にとっても撮影者にとっても特に疎外物でも対立物でもない。息苦しさをもたらすものでもないようだ。「都会」だけでなく社会総体からの疎外感を感じられない。「都会」そのものを所与のものとして受け入れている。
 戦後の社会との格闘ばかりが頭と体の中で渦巻く私などからするとちょっと不思議な気もするが、決して違和感はない。

 赤いカーテン 1956

 帽子 1960


 最近は私もこのように周囲を見ることが出来るようになったと、思うことが多くなってきた。そういった意味では、いい作品を見ることが出来たと思う。私自身が老いたとか、社会との緊張を喪ったとか、言われることもあるが、私は違うと思っている。ただし反論はしていない。

 こんなことを考えつつ会場をまわり、帰途の電車の中でそれをとりとめもなく反芻していた。

   



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