Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「弥勒」第5章・第6章

2023年09月23日 16時31分40秒 | 読書

   

 「弥勒」(宮田登、講談社学術文庫)の第5章「鹿島信仰と弥勒」、第6章「朝鮮半島と沖縄の弥勒」を読み終えた。

「鹿島踊りの中に弥勒仏が来臨してくるという‥茨城県から神奈川・静岡あたりで地域が限定されていれば、説明がつくのであるが、もう一ヵ所集中的に現れてくる場所が沖縄県の八重山地方なのである」
「布袋の仮面が(中国から)沖縄に伝播して、子だくさんの布袋弥勒というイメージが沖縄にも伝えられ、豊年踊りに現れている。人間の生殖行為と、農耕の豊穣ということが結びついた結果である。豊年踊りの中で弥勒が巨大なお腹をして、こともを大勢引き連れて歩いている姿と、中国、朝鮮などで伝えられている布袋=弥勒の考えが類似した構想をもつ形となっている」
「日本の本土のほうに広がっている弥勒踊りの中には、こうした具体的なイメージが一切ない。‥具体的な姿で、これが弥勒であるという形で表示するものが、非常にうすいということがわかる。」
「日本の民俗宗教には二つの世界が対立・交代するという考えがどうもはっきりしない。いまが最悪の世界であるから、新たな世界が次に出てくるのだという風な思考へと展開していない。」
「日本の社会は徹底的危機に追いつめられたという認識に至らない。飢饉で全員が死亡すことはありえない。飢饉で農村側がだめになっても、漁村のほうは豊漁なのである。国内は交通網が発達しているから、危機的状況になりながらうまく陸と海とが交流し合って切り抜ける。生活能力が永い間に根付いていった。追いつめられてまったく新しい世界を構想して、そこに再生しようという思考になっこない。‥構想雄大な世界観がここには生まれていないのである。」

 素人の私が断言するのは憚れるが、私はこの最後の結論にはおおいに違和感を感じた。朝鮮半島も農業社会であり、漁業も発達している。交通網もおおいに発達している。「二つの世界が対立・交代するという考え方」が日本と朝鮮でおおきく異なるという理由にはならないのではないか。確かに地域的な分立は戦後の最近まで政治的にも引きづっていたとはいえ、民俗レベルでの差異として結論してしまうことに無理があると思える。

 宮田登「日本ではどうして世界が対立・交代するという考え方が生まれていないのか」というのは問題意識としてとても惹かれている。まだ第7章、第8章もあるので、引き続きここら辺に着目しながら読んでいきたい。

 



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