本日は以前から本棚に積んであった「「海の民」の日本神話」(三浦佑之、新潮選書)に眼を通した。読んだのは、序章「古代ヤポネシア[表通り]、第1章「海に生きる 筑紫の海の神と海の民」、ならびに第2章「海の道を歩く 出雲・伯伎・稲羽」。なかなか読む踏ん切りがつかなくてそのままになっていた。
「「日本」という単一の世界に収斂されてゆく歩みを肯定的に後追いするのではなく、「日本」という呪縛から解き放たれたそれぞれの場所へと飛翔し、そこから飛翔しようとする試みでありたいと願っている‥」(序章)
「「古代出雲地方と新羅とのあいだに交通または交渉があったからだという説が多」い理由なのである。そうした多くの意見を否定して、「国引き」詞章に限定していえば、結果的には国家や権力の側からしか表現と歴史をみようとしなかったところに石母田正の誤りはあった。左にしろ右にしろ、政治的な立場が鮮明であればあるほど、国家や権力を対象とする学説の寿命は短いというのがよくわかる。自戒もこめていえば、国家や権力を相対化する視座がなかったということに尽きると思う。」(第1章の「大和中心主義の限界」)
「出雲西部地域に起源をもつ四隅突出型墳丘墓は、出雲西部から対馬暖流と共に出雲東部へ、鳥取、福井をはじめ、遠くは富山湾沿岸まで点在することになった。そこでは、人と文化が西から東へと移っていることが確認できるわけだが、一方でストーン・サークル状に巨木を建てる文化は東から西へと動き、出雲(杵築)大社を支える三本柱へと綱刈っていることも指摘されている。」(第2章の「外につながる出雲」)