今年は箱根駅伝は見に行かなかった。というよりも最後の走者が横浜駅を通過する頃に、沿道から50mほどのところを妻と歩いたものの、杖をついて人混みに紛れるのも嫌でそのまま見物せずにわき道を通り過ぎた。
実は昨年までは横浜駅の近くで7~8回ほど往路で先頭から最後の走者まで見物していた。特にどこの大学を応援するでもないし、個人的に好きな走者がいるわけでもない。ただ30歳のころからジョギングを続けていて、10キロの距離もそれなりのタイムで走っていたので、一人でもくもくと走るということについては楽しみであり、そして応援したくなる選手もいた。短距離でも中・長距離でももくもくと走る、という人についてはどこか哲学者めいたことを想像して親近感が湧くのである。
しかしこの箱根駅伝、どうしても馴染めないところがあり、応援にも熱は入らない。何が気に食わないかというと、あのがなり立てる監督車と監督である。
走る選手は18歳から22歳の成人である。否、中学生でも高校生でもあそこまで大声でがなり立てないと自分のペースや、相手との競り合いができないわけがない。それまでの練習は何なのだろうという疑問が先に立つ。
あそこまで選手の主体性を押しつぶす指導がまかり通る大学の陸上競技部とは何とも情けないものである。あんな指導が当たり前だと思う選手はたぶんもう伸びないのではないか。もしも伸びる選手がいたとしたら、それはあの過剰な干渉と虐められ体質から、極めて大きなエネルギーと時間を掛けて脱却できた人に限られると思う。
昔一時あのような品のない拡声器の音を規制したことがあったと思うがいつの間にか復活してしまった。とても残念だと思っている。
あのような指導を受けた選手が次代の指導者となっているとしたら、とんでもない指導者となるのではないだろうか。大学の体育指導があれでは日本の体育の将来はますます暗い。
いくつかの大学のチームではあのようながなり立てる監督車がない。私はそのような大学のチームを応援したい。
日本の社会、特に体育会系と断定してしまうのは申し訳ないとは思いつつ、やはり未だ根性論がベースなんでしょうかね。
とても情けないですね。