Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「江戸絵画 八つの謎」 その2

2022年12月15日 20時48分20秒 | 読書

   

 本日までに「江戸絵画 八つの謎」(狩野博幸、ちくま文庫)の第3章までを読み終えた。

 第1章では岩佐又兵衛を取り上げ、「牛若の母・常盤御前が山中宿で盗賊に襲われ惨殺される場面が、執拗に描かれることで今日有名なこの絵巻こそが、又兵衛がPTSDを克服したことを逆に証明している。母の非業の死という人生のトラウマを、描き尽くすことで乗り越えたのである」と記している。
 真の意味でPTSDを完全に乗り越えたのか、ということについては保留しつつ、荒木村重の妻子・一族郎党が惨殺された中に岩佐又兵衛の母に相当する妻妾がいたということについては説得力はあったと思う。がPTSDを克服しえたかということについては疑問は残ると思う。作品が完全な手がかりになるとは言えないが、もう少し丁寧に追う必要があるようだ。

 第2章では英一蝶の三宅島遠島が徳川幕府の法華宗不受不施派の禁教という「寛文の大惣滅」の一環であったという結論は頷けた。ただし不受不施派の日奥について「日奥の思想はヨーロッパをはるかに凌駕していた。神の名のもとに何万人というアイルランド人を虐殺したクロムウェルなど、足元にも及ばない宗教者だった」という一文は何を言わんとしているか不明である。何の前提や注釈もなしにこのような文章が出てくるのが不思議な著者である。クロムウェルは熱心なピューリタンではあった。アイルランド人の虐殺で有名であるが、政治家・軍人である。日奥との比較というのはよく理解できない。

 第3章では伊藤若冲を取り上げている。若冲は錦高倉市場の存続問題に忙殺されて成果を得ているが、「(若冲は)一生絵を描くだけの生活を送りたかったに違いないものの、否応もなくなればこの社会の不正に対して逃げるのではなく、むしろ最後まで斬り結ぶ覚悟をもち、かつ実践する胆力をもつ人間であった‥。‥伏見の「七人の町人」の義挙に無関心と思うほうがむしろおかしい」。この指摘は今ではかなり広範に知られた見方となっている。
 この章で、私は好きであるが意味合いがよくわからなかった若冲の「伏見人形七布袋図」が、若冲が錦市場の存続で奔走したのちの1788年の伏見の「7人の義挙」について感心をしめしていたことの反映とする理解が可能かもしれない。
 この指摘については是非記憶しておきたいと思った。

 以降も論理の飛躍などに注意を払いながら読み進めたいと思っている。
 



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