午前中は退職者会の仕事、午後は「定家明月記私抄 続編」(堀田善衛、ちくま学芸文庫)と「百年戦争」(佐藤猛、中公新書)を交互に読んで過ごした。
「定家‥」は「承久の乱 政治と文学(承久三年)」、「歌の別れ (貞応元、二年、元仁元年記)」、「京都頽廃 言語道断ノ事カ (嘉禄元年記(1))」、「京都頽廃 年号毎日改ムト雖モ (嘉禄元年記(2))」、「京都頽廃 百鬼横行 (嘉禄二年記(1))」を読み終わった。
その前の節「為家の結婚」で引用を忘れていた個所があったので、まずそれから。
「君臣の間で、経済生活についての絆が切れかかっているのである。やがて上皇もまた、経済問題にかかわって鎌倉に宣旨といったかたちで、実際には懇願をしなければならなくなった。また宗教上の事としても、浄土宗、禅宗などの現世安穏、後世善処といった、救いを個人内部に求めるものが主流となりはじめれば、国家宗教などの、手の込んだ仰々しいものとは、次第に手が切れて行くことになる。ここでもまた、国家宗教の主宰者としての、宮廷の役割というものが次第に空洞化して行かざるをえない。宮廷はやがて教団を兵力視さえするであろう。残るものは文学だけである。そうして残るものとしての文学もまた、その内部に深刻な病巣をすでに宿しているのである。源氏物語の世界の、色好みにあわれを見る文化は、すでに夢のまた夢と化している。その病巣は、やがて政治問題化さえるであろう。」(「為家の結婚)」
「あらゆる戦争、戦乱の発起というものには、いずにもすべて、説明不可能な部分がともなっているように思われる。‥近頃の経験としても、緒戦に日本軍が真珠湾を攻撃して、その成果をほとんどの国民が喜び迎えていたとき、‥チャーチルがその回想録に「全国民が発狂するということは、ありうることである」と書いた‥。もっとも恐るべきものは、やはり支配者、るいは支配層の妄想であり、その妄想の国民への強制である。‥乱後の結果から逆算をして行けば、‥後鳥羽院の妄想に発する、としか言い様がなことに結論は落着してしまう。‥後鳥羽院の妄想とは何か、ということになる。妄想は妄想であれ、当然説明のしがたいものである。乱後、後鳥羽院は隠岐の島に、‥戦争責任者として流刑にし寄せられ、そこに十九年刊も生存してい、多くの書き物を遺しているのではあるが、この乱に、直接触れたものは何もない。‥戦争責任の当事者が、十九年の長きにわたって終身刑に処せられながら、弁明の一つもしていないのである。」(承久の乱 誠司と文学)
「戦争責任の当事者が口を噤んで何も言わぬというのは、‥おそらく自らの妄想の結果と、その妄想自体の両者を、事後につなげて説明も弁明も出来ないからである。その妄想の結果として出来させた、多大の人命の喪失に対しては、いかなる言葉をもってしても対応も何もできないからである。」(承久の乱 誠司と文学)
「勅選になる新古今集に象徴される、文化の場としての宮廷が成ったとしても、政治と軍事の場における天皇制の権威が、このままの現状では、まったく失われてしまうという、危機感に侵される天皇制である。‥剣なくしては、天皇制は名目だけのものと化するという危機感である。(しかし)定家は、文化文学の場に、軍事的冒険などという物騒なものが持ち込まれることなとは以ての外であり、生涯を通じて真平御免であるとしている。‥定家は、後鳥羽院、すまわち宮廷の側から見て、究極的には、たとえ宮廷というものがなくとも、独立し得る歌の道を構想している、ということになる。政治と文学との軋轢の典型的、かつきわめて高度な劇がここにある。」(承久の乱 誠司と文学)
「京都頽廃」の3つの節は、承久の乱後の京の治安の悪化、そして宮廷秩序の崩壊、貴族の悪事に走る頽廃を定家と共に暴いていく。経済的に宮廷・貴族が困窮し、政治的・文化的なたかがはずれたときの、人間社会の崩壊がいかにひどいものであるか、倫理もなにもない世界が描き出されている。
同時に定家が、後鳥羽院外3上皇と天皇が一瞬のうちに「消えた」のち、如何に御子左家の家が生き延びさせるか、そして歌学・歌家の確立に腐心したか、明月記の記載が欠落しているゆえに、また乱後の京の惨状を逆に克明に饒舌に記述していることで、推