8月6日の広島の原爆忌は立秋前なので、夏の季語。9日の長崎の原爆忌は秋の季語の扱い。合わせて原爆忌ということもあり、それは夏の季語の中に入れているようだ。また原爆忌と記して広島の原爆忌を差している場合も多い。
★原爆の地に直立のアマリリス 横山白虹
★人に仕事ゆづりて戻る原爆忌 岩田昌寿
★原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ 金子兜太
第1句、アマリリスも直立して黙祷という、よくある句に見えたが、誤解だったと思う。まず季語はアマリリス。「原爆」だから夏の季語、ということはない。アマリリスの姿を思い浮かべてこの句を読む必要がある。アマリリスはヒガンバナ科。人を悼む秋の彼岸に咲くヒガンバナの代わりにアマリリスを配したかもしれない。そしてアマリリスの直立の様が、われわれ生きているものが追悼のために立ち並んでいるのではなく、原爆で亡くなった方の姿とすると、胸がきりりと締め付けられるような気分に襲われる。
第2句、定年等になって仕事を人に譲ったので、この日に広島に戻った、と理解するのがいいのだろうか。あるいはこの日だけは人に自分の仕事を頼んで、広島に帰省するなり、式典で親族や友人の追悼のために広島に足を運ぶ、ということなのか。私は前者だ理解してみた。定年になってようやく人を悼むことができるようになった感慨、それには作者の中で長い時間が経過したのであろう。
第3句、有名な句であるが、果たして蟹は誰のことか。犠牲者が川に水を求めて殺到した光景なのか、時間の喩えなのか、あるいは金子兜太その人が広島の町を、かつての瓦礫に覆われた街をさまよい歩いているのか。「かつかつ」とはどんなイメージを喚起させようとしているのか、これもまた気になる。いろいろに考えていると、それだけで時間が経つ。人と戦争の関係を考えるきっかけになる。考えさせられる句である。それが俳句というものなのだろう。