横浜美術館のホームページの解説を再度掲載してみる。
3.とらえられた身体
身体という言葉から想起されることは様々です。このセクションでは異なる視点、異なるアプローチによって身体の持つ豊かな、そしてだからこそ謎めいたテーマに挑む作品を紹介します。
4.入れかわる身体
このセクションでは入れかわる身体と題し、名画の登場人物に自らが扮した作品で知られる森村泰昌が、メキシコの女性画家を題材にした「私の中のフリーダ」シリーズをはじめ、平野薫による横浜美術館での滞在制作によるオブジェ、同じく横浜に滞在制作の経験のある遅鵬のCGによる巨大な平面作品などをご紹介します。
5.そこにある身体
日頃、自分の身体の存在を意識する機会は多くはありません。
一方で私たちの身体は今ここにあり、それに目を向けることは、世界に相対する手がかりとなり得ます。ここでは、作品と鑑賞者の身体との関係を想起させるような作品を中心にご覧いただきます。
この3つのセクションから私が気になったり惹かれた作品は、3では1959年生まれの石原友明の「Untitled」(1995)、4では1951年生まれの森村泰昌の「私の中のフリーダ」(2001)、5では、1973年生まれの三瀬夏之助の「ぼくの神様」(2008)。しかし三瀬夏之助についてはまだ私の考えはまとまらない。今回は省かせてもらうしかない。機会があれば挑戦してみたい。

石原友明のこの3枚の組写真の作品を見ていて不思議な感覚を味わった。まず真ん中と右側の写真からは作家が自らの身体にどこか常に違和感を持ちながら捜索活動をしているように思った。それが作家の原点であるかのような記載があった。自身の像がぼやけて明確な像を結ばない、しかも目を瞑っているというのは、ポートレートを写真にしろ絵画にしろ作成することにおおいなためらいを常に持っている証だと思われる。対照的に点字とそれをなぞる指先にはピントが合っているということは、「見る」ということよりも皮膚感覚に大きな親和性を持っているという宣言なのではないか、と感じた。
しかしふたつとも黒枠に囲まれている。これは決別、あるいは過去に自己に対する否定を意味するのだろうか。同時にこの3枚の時間の流れも気になる。
一方左側のシャンデリアと思しきものを接写で焦点を合わせて撮った写真は中央と右側の写真とどのような関わりがあるのかが未だにわからない。可能性としては電気の明かりの温みとガラスの硬質な皮膚感覚には親和性がある、という暗喩なのかとは思ったが、それだけでは単純すぎないかとも考えている。
いづれにしても「視覚」というものに対するどこか否定的な感受性を持っていそうである。だが、この感覚が「見る」ことを前提とした作品として提出する、という行為にもまだ私には飲み込めない感情が湧いてくることも事実である。
さて、このコーナーの始めに以下のような解説が掲げられている。「石原友明も自身を作品の中に登場させています。写真が可能にしてくれる自らの肉眼で見ることのできない自分の姿は、言わば自身の身体の発見でもあります。石原は自分自身が抱く自らの身体イメージと画面上で変化させるそれとの間で生まれる差異に注目します。こうした石原の視点は、突起にすぎないものが実は豊かな意味を持ち、触れることでコミュニケーションが生まれる展示を扱った作品においても示されています。」全体として、特に3番目と4番目の文章のつながりがどうしても私には意味がわからない。このような難解な説明は困りものである。
この作品を前にして、一挙にこれだけの疑問が湧いてきた。少なくともこれだけの感覚的な刺激を与えてくれた作品は、このコーナーではこれだけであった。私は是非とも作者の言葉を聞いてみたいと思った。

次が、あのフリーダ・カーロに触発された森村泰昌の作品。私がフリーダ・カーロの作品を知ったのは何時だったか。とても強烈な印象を受けた。「私の中のフリーダ」はいくつかの作品につけられているが、特にこの作品に惹かれた。私のフリーダ・カーロの体験をもっとも鮮烈に思い出させてくれた。
自らの身体の、しかも見方によっては負の部分をさらけだすことで自己表現を執拗に繰り返した稀有の画家の像である。
「折れた背骨」(1944)をほぼそのまま額に入れたような写真である。空と接する地平線と、空の広さ、そして髪の毛のボリュームが少し違っている。しかしもっとも大きな違いは背骨の描写である。実際の作品ではコンクリートの柱のようなまっすぐな背骨がところどころ亀裂があるのだが、こちらの作品は人間の腕のような形状の骨である。ものすごく太く、首のところが手首のような形に成っている。さらに乳房の上のバンドの締め付けが実際の作品よりもさらにきつい。
実際のフリーダ・カーロの作品よりも痛々しさを強調しているのかもしれないが、同時に彼女の痛みの原因が背骨だけではなく、人間関係によってもたらされたものでもあることを示しているのだと感じた。それは周囲の政治的な集団の軋轢というのではなく、夫ディエゴ・リベラとの厳しい関係であることは彼女の伝記を紐解けばすぐに理解できる。

さらに彼女の頭部と髪は細長く変形している。日本人的な顔と髪に変えられている。フリーダ・カーロの作品よりも生々しい肉体に見える。これはどういう暗喩なのであろうか。気になっている。
3.とらえられた身体
身体という言葉から想起されることは様々です。このセクションでは異なる視点、異なるアプローチによって身体の持つ豊かな、そしてだからこそ謎めいたテーマに挑む作品を紹介します。
4.入れかわる身体
このセクションでは入れかわる身体と題し、名画の登場人物に自らが扮した作品で知られる森村泰昌が、メキシコの女性画家を題材にした「私の中のフリーダ」シリーズをはじめ、平野薫による横浜美術館での滞在制作によるオブジェ、同じく横浜に滞在制作の経験のある遅鵬のCGによる巨大な平面作品などをご紹介します。
5.そこにある身体
日頃、自分の身体の存在を意識する機会は多くはありません。
一方で私たちの身体は今ここにあり、それに目を向けることは、世界に相対する手がかりとなり得ます。ここでは、作品と鑑賞者の身体との関係を想起させるような作品を中心にご覧いただきます。
この3つのセクションから私が気になったり惹かれた作品は、3では1959年生まれの石原友明の「Untitled」(1995)、4では1951年生まれの森村泰昌の「私の中のフリーダ」(2001)、5では、1973年生まれの三瀬夏之助の「ぼくの神様」(2008)。しかし三瀬夏之助についてはまだ私の考えはまとまらない。今回は省かせてもらうしかない。機会があれば挑戦してみたい。

石原友明のこの3枚の組写真の作品を見ていて不思議な感覚を味わった。まず真ん中と右側の写真からは作家が自らの身体にどこか常に違和感を持ちながら捜索活動をしているように思った。それが作家の原点であるかのような記載があった。自身の像がぼやけて明確な像を結ばない、しかも目を瞑っているというのは、ポートレートを写真にしろ絵画にしろ作成することにおおいなためらいを常に持っている証だと思われる。対照的に点字とそれをなぞる指先にはピントが合っているということは、「見る」ということよりも皮膚感覚に大きな親和性を持っているという宣言なのではないか、と感じた。
しかしふたつとも黒枠に囲まれている。これは決別、あるいは過去に自己に対する否定を意味するのだろうか。同時にこの3枚の時間の流れも気になる。
一方左側のシャンデリアと思しきものを接写で焦点を合わせて撮った写真は中央と右側の写真とどのような関わりがあるのかが未だにわからない。可能性としては電気の明かりの温みとガラスの硬質な皮膚感覚には親和性がある、という暗喩なのかとは思ったが、それだけでは単純すぎないかとも考えている。
いづれにしても「視覚」というものに対するどこか否定的な感受性を持っていそうである。だが、この感覚が「見る」ことを前提とした作品として提出する、という行為にもまだ私には飲み込めない感情が湧いてくることも事実である。
さて、このコーナーの始めに以下のような解説が掲げられている。「石原友明も自身を作品の中に登場させています。写真が可能にしてくれる自らの肉眼で見ることのできない自分の姿は、言わば自身の身体の発見でもあります。石原は自分自身が抱く自らの身体イメージと画面上で変化させるそれとの間で生まれる差異に注目します。こうした石原の視点は、突起にすぎないものが実は豊かな意味を持ち、触れることでコミュニケーションが生まれる展示を扱った作品においても示されています。」全体として、特に3番目と4番目の文章のつながりがどうしても私には意味がわからない。このような難解な説明は困りものである。
この作品を前にして、一挙にこれだけの疑問が湧いてきた。少なくともこれだけの感覚的な刺激を与えてくれた作品は、このコーナーではこれだけであった。私は是非とも作者の言葉を聞いてみたいと思った。

次が、あのフリーダ・カーロに触発された森村泰昌の作品。私がフリーダ・カーロの作品を知ったのは何時だったか。とても強烈な印象を受けた。「私の中のフリーダ」はいくつかの作品につけられているが、特にこの作品に惹かれた。私のフリーダ・カーロの体験をもっとも鮮烈に思い出させてくれた。
自らの身体の、しかも見方によっては負の部分をさらけだすことで自己表現を執拗に繰り返した稀有の画家の像である。
「折れた背骨」(1944)をほぼそのまま額に入れたような写真である。空と接する地平線と、空の広さ、そして髪の毛のボリュームが少し違っている。しかしもっとも大きな違いは背骨の描写である。実際の作品ではコンクリートの柱のようなまっすぐな背骨がところどころ亀裂があるのだが、こちらの作品は人間の腕のような形状の骨である。ものすごく太く、首のところが手首のような形に成っている。さらに乳房の上のバンドの締め付けが実際の作品よりもさらにきつい。
実際のフリーダ・カーロの作品よりも痛々しさを強調しているのかもしれないが、同時に彼女の痛みの原因が背骨だけではなく、人間関係によってもたらされたものでもあることを示しているのだと感じた。それは周囲の政治的な集団の軋轢というのではなく、夫ディエゴ・リベラとの厳しい関係であることは彼女の伝記を紐解けばすぐに理解できる。

さらに彼女の頭部と髪は細長く変形している。日本人的な顔と髪に変えられている。フリーダ・カーロの作品よりも生々しい肉体に見える。これはどういう暗喩なのであろうか。気になっている。