本日は「若冲」(辻惟雄)の「二、若冲画小論」に目をとおした。
「若冲の彩色画の濃密、執拗、繁縟(はんじょく)な空間充填は、それが日本絵画史上ほとんど類を絶しているだけに、中国花鳥画の同種のものからの影響が一応予測される‥。〈(動植綵絵の)牡丹小禽図〉のような作品は、若冲自身の常人離れした空間充填の意欲が、中国花鳥画によって触発され、際限なく膨張し自己増殖をとげた、その結果ではないだろうか。」(「若冲と明清画)
この前半の指摘は私の若冲に対する最初の印象であった。若冲の魅力の一つであると同時に、時々は辟易としてしまう世界でもある。それが明代の中国絵画の世界と繋がっていたという指摘である。
「「物」の外形の冷静的確な再現に終始するためには、若冲の視覚は、あまりにも特殊で強烈な自己同化の作用下におかれていたのであろう。それゆえ、かれが「物」に即して‥凝視をこらせばこらすほど、そのかたちは現実を離れ、異様な相貌を帯びて来て、かれを妖しい興奮に駆り立てるのだった。それをつとめて抑え、いわば〈醒めた熱狂〉の状態に身を置いて、見えて来る「物」を正確に写し取り、幾何学的理性的秩序の中に構成する――これがかれのなずべき事のすべてであったと思われる。《動植綵絵》のかたちや空間が、われわれの視覚的意見の枠外に遊離しながら、すみずみまで驚くほど明瞭であり、曖昧なものは何一つなく、見るものをそこに呪縛するような強烈なリアリティを持つのは、そのゆえにほかならない。‥‥かれの行草体水墨画は、いうまでもなく「写意」の放埓に身を委ねた所為であるが、それは《綵絵》の世界の呪縛の外にくつろぎの場所を求めようとする精神の平衡作用のしからしめるところでもあったろう。そしてこの写意の放埓が《動植綵絵》の写生の中の随所にさり気なく組み込まれている‥。」(「若冲と写生」)
ここの文章はなかなか理解しにくいが、この部分は後の「奇想の系譜」「奇想の図譜」へとつながる部分である。なお「写意」「写生」についての定義は、長くなるので別途言及する必要があるようだが、本日は割愛。
「彼が血のにじむ努力によって獲得したであろう描写技術も、中国花鳥画の体験も、動植物の執拗な観察写生も、究極のところ、画家自身の意図を超えて、かれの胸中にある隔絶された「奇」そのものを実体化する役割を担わされていたのではないか‥。蕭白の「奇」はこれにくらべてどうであろうか。‥放縦な筆の表現力と、人目を驚かす衒気によって「奇」を演出するものであって、次元としては必ずしも高くない‥。だがむしろそこにかれの真面目があるとも言えよう。「奇」を高踏的な文人社会から、より低い民衆的、土着的な次元に引き下ろして、たくましく野放図に繰り広げて見せた点に、蕭白の画業の意義があると私は思う。」(「若冲と「奇」」)
ここもまたわかりにくいが、もう一度「奇想の系譜」を再読して両者についての辻惟雄の記述を見たくなった。
「若冲は文字通り真摯な画家である。自己顕示欲の充足ののために画を描いたのではなく、描くことに生涯憑かれた人というのが実相である。」(「若冲と「奇」」)