Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

本日の俳句(110309)

2011年03月09日 22時13分30秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★春寒し港の夜景の近からん
★廃船の軋み合う音春寒し
★春寒の蟇の一歩にある重さ
 
 啓蟄を過ぎたが、寒さが続く。団地に池があり、大きな蟇蛙が少なくなったとはいえ時々姿を見せる。3月の声を聞くと同時に二度ほど帰宅途中の道の真ん中をのそのそと歩いている姿を見かけた。近くで覗き込んだ私を認識しているのか、定かではないが鈍重な、しかしたしかな足取りで横切っていった。
 3月の日を受けながらも寒い北風に軋む河口の廃船の一群は寒さを一層際立たせる。

本日の読書

2011年03月07日 21時43分38秒 | 読書
「萬葉集に歴史を読む」(森浩一、ちくま学芸文庫)

 万葉集の歌を味わうのは久しぶりだ。著者の森浩一氏は、もっと久しぶりに読む。
 森浩一氏ももう80歳を超えている。それでこの著作を出版である。
森浩一氏が地域史のフィールドワークをかなりこなしていることがよく推察される著作である。特に東国の古代史の着眼点はなかなか魅力に満ちている。
 私の印象は「第6章 天平8年の遣新羅使関係の歌」が中心をなすと感じた。ページ数からももっとも多い。万葉集の巻第15である。
 ここで取り上げられている歌は、普通万葉集の評論や秀歌選などではあまり扱われない。私もむろん初めての歌ばかりであった。
 著者の主眼はあくまでも「歴史を読む」であり、万葉集の歌の鑑賞ではない。だからこそかえって細かな字面に右往左往しながら悩むこともなく大意を、文章の流れから汲むことができ、理解しやすかった。これをもとに万葉集の巻第15を読んでみたいと思った。
 ここで取り上げられた「遣新羅使」、大使は安倍継麻呂。この大使の歌を筆頭にした一連の歌群は宴席でのものであろうが、「娘子」として女性の歌があるが、私の持つ万葉集の解説も含めてこの種の歌などを作れる特殊な「遊行遊女」の類とするが、この著作では地域(郷)の長クラスの縁者とみる。私もその説に惹かれる。
 ついつい私たちは古代の人々の教養を低く見がちだが、はたしてどうだろうか。今で言えば市区町村長クラスの地位の人の縁者ともなれば、古代であっても、いや古代だからこそかなりの教養と文化程度を身に着けていたと見るべきだし、一般庶民も決して教養は低くはなかったと思うがどうだろうか。
 ただ著書では遣新羅使は新羅から入国を断られ、残された短歌から大使の継麻呂は責任をとって自死したとなっているが、こればかりはちょっと飛躍しすぎあるいは深読みしすぎかな、と感じた。
 『(3700)あしひきの山下光る黄葉の散りの乱ひは今日にもあるかも』がその自死の決意だと言うことだが、同じ歌群の
 『(3706)玉敷ける清き渚を潮満てば飽かず我れ行く帰るさに見む』
もおなじ大使の歌であるから、3700が辞世の歌とはならないと私は感ずる。
 しかしこのような大胆な仮説とある種の飛躍がこの著者の魅力でもある。

 そういえば網野善彦氏との対談もあったが、まだ目を通していない。これを機会に早めのこの対談も手に入れて読んでみたいものだ。

本日の俳句(110306)

2011年03月06日 13時16分53秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★砂時計春の陽射しを刻みゆく
★春の時ゆたりゆたりと河波へ
★雛飾り時のとどまる窓の裡

 「時」と題しての3句。
 この時期、窓越しの陽射しはうれしい。何の変哲もない砂時計でも、砂が落ちる様は見ていて飽きない不思議な魅力がある。砂鉄にきらめく陽射しは春を告げてくれる。
 横浜の街の中の河、運河のような河であるが、ゆったりとした波が視線をひく。すっかり春の水の様相である。
 もうしまわれてしまったが、雛飾りをかざっていたしもた屋風の古い家、どこか時間が止まってしまったようにひっそりとしていた。雛の飾りもすっかり時間の毛布にくるまわれているように、きらびやかさは感じられず、静かなたたずまいが雛飾りを覆っているようであった。

日本フィル定期演奏会

2011年03月05日 22時12分08秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は日本フィルの定期演奏会。大友直人指揮でヴォーン・ウィリアムズの交響曲第2番<ロンドン交響曲>、エルガーのチェロ協奏曲と行進曲<威風堂々>というプログラム。チェロのソリストは菊池知也。ロンドン交響曲は初めて聴く曲。チェロ協奏曲も聴いたことはあると思うが記憶には無い曲。
 ロンドン交響曲、妻は「暗い曲」との評だが、そのとおりだ。解説を読むと作曲の時期も背景も、第一次世界大戦勃発直前の暗い時代のロンドンという都市の様相が色濃く反映しているようだ。ロンドンという街の雑踏と喧騒、失業者の群れ、それらを覆う深い霧。
 しかし印象にのこるメロディーはなかった。シベリウスのようにメロディーが闇のそこから浮き上がるようにして浮き上がりきらずに繰り返されるのではなく、強奏もありながら静かにまたしずんでゆく印象である。繰り返し聞きたくなるという曲でも、口ずさんでみる曲でもないが印象に残る曲であった。

読書覚書

2011年03月04日 21時33分14秒 | 読書
「二十歳の桜」(岡野弘彦、岩波「図書」3月号)より

「二度目の東京大空襲に遭遇して‥土手の上の花ざかりの桜並木が吹きすさぶ熱風に耐えかねて、次々に炎となって燃えあがってゆくのを見ていた。‥立ち木のまま焼けほろびていった桜の花の幽気のようないまわの際の姿は、今もまざまざとわが胸の内に刻みつけられている。‥私のうたう桜の歌はいつも、暗くさびしい。

 ほろびゆく炎中(ほなか)の桜見てしより 我の心の修羅しづまらず
 焼け焦げて 桜の下にならび臥す 骸のにほふまでを見とげつ

 私はいつまでたっても、すがすがと美しい桜の歌は、ついに歌えそうもない‥。」