本日は2回目の会場訪問となった。雪・雨ともに昼前から弱まって助かった。テレビでは都内の交通機関は大変交雑しているような報道であったが、私たちが乗った電車は空いていた。
今回は2回目ということで、最初からじっくりと見ながらまわるのではなく、印象に残っている作品だけに時間をかけてまわることが出来た。何より良かったのは天候のため今回はとても空いていた。人を気にせず見てまわることができた。
この作品、かなり人気があるらしく空いていた本日も人だかりがしていた。
1571~1572年ころの作品とのことだが、クレタ島からヴェネツィアにわたり、3年後のティツィアーノの死後にローマに移住して2年後くらいの作品である。
ビザンツィン様式の画家としての経歴からわずかにこれだけの期間で画風がまったく変わったことを物語っている。すっかりヴェネツィアのルネサンス様式に変わっているとの解説になっている。
暗い背景に燃えさしから蝋燭に火が点火した一瞬を割りと荒い筆致で劇的に、ある意味誇張して描いている。この劇的な一瞬と言うのが、当時の絵画に求められた要素なのかもしれない。私はちょっと大げさであまりに劇的効果にこだわりすぎた絵のような感じもする。前後の時間の流れを暗示させるのだが、物語としての深みは感じられない。しかし一瞬の時間を切り取る力量というか、些細な一瞬をあたかも劇的な一瞬に仕上げる力量に脱帽する。
この二つの作品、構図はほぼ同じ、筆致はずいぶん違う。会場では少し離れて展示されていたが、私としてはこれは並べて展示してほしかった。向かって左は1610~1614年頃の作品で国立西洋美術館所蔵のもの。右はゲッティ美術館所蔵で1600~1610年の頃の作品とのこと。いづれも晩年に近い頃の作品だ。右のほうが少し小さい。
ミケランジェロの作品の影響が見られるとのことだ。磔の場面としては他のルネサンス期の当時の作品に比べ、苦痛に身を捩じらせるような劇的な描写にはなっていないと解説されている。確かに「肉体的苦痛を超越した法悦の表情」という解説は理解できる。天を見上げる表情はかえってさまざまな思念を呼び起こすようだ。
この二つの絵、左のほうが明らかにタッチが荒い。そして背景の雲とその合間のひかりは右に較べていっそう暗く劇的である。キリストの表情に比べ背景のほうが劇的な一瞬を強調しているが、どちらかというと右の背景は少しおとなしい。実は足元の髑髏や骨の描写も、去り行く馬と人の描き方も左のほうが荒い。右の方が丁寧に描いている。
左のほうの署名はどうもエルグレコ本人の署名ではなく真似た字体らしい。工房での手が入っているとのことだ。右の方は本人の署名と解説に書いてある。しかし腰布については右の方はあまりに精緻、フリルのついた装飾性鮮やかなレースのような布に仕上げてある。これはあまりに不自然で、後からの書き込みのようだ。
だから、いろいろ好みはあるだろうが、左の方が現代受けする表現なのかもしれない。私としては細部での違和感はあるものの右の方が原作者のタッチに近いものを感ずる。好き嫌い、どちらがエルグレコの本位に近いかは見る人により違いがありそうだ。
「無原罪のお宿り」という作品がある。私もよく知らなかったのだが、「無原罪のお宿り」とはキリストの受胎のことではなく、聖母マリア自身もその聖性から、その母アンナに宿った時は、原罪を免れた受胎だったというカトリックの教義によるものらしい。
母性への崇拝を利用したキリスト教のヨーロッパでの定着に、マリア信仰は大変重要な役割を演じている。この聖母マリアの聖性の強調は対抗宗教改革の流れの中でも重要な要素だったと思われる。
この「無原罪のお宿り」というのは、天からマリアがアンナの胎内に降下するのだから絵としては上から下への流れで理解しなくてはならない。
この「福音書記者ヨハネのいる無原罪のお宿り」では絵の正面から眺める視線で鑑賞すると確かに天から光臨してくる流れが見えてくる。私もこれはすんなりと理解した。
さて今展覧会の目玉である最後の作品サンニコラス聖堂の「無原罪のお宿り」はどうであろうか。
私は知識のなかった頃この絵を見て聖母マリアの昇天、即ち聖母マリアの死を描いた作品化と思っていた。即ち下から上への流れに見えたのである。天に向かって登っていく、天に帰っていくマリアと思っていた。
しかし題名が「無原罪のお宿り」ということを知り、またその題名の意味を知り、ずっと不思議に思っていた。
実は先日見に行ったときは、この絵の前に人がかなりいて、少し膝は曲げたがほぼ立ったままこの絵を鑑賞して、やはり下から上への流れに見えて疑問は解消されないままだった。雪山行二氏の講演で、実際に祭壇に飾られているような見方をすると細長い人物も違和感なくながめられると教わったものの、知識としてだけ覚えていた。そしてNHKの日曜美術館でも下からのアングルで広角レンズで映したこの絵を見せてくれた時、マリアの顔が丸みを帯びて見え、スカートがとても広がって見えたのは心に残っていた。しかしそれ以上の感慨はうかばなかった。
本日この絵の前に人だかりはしていたが、それほどでもなかったので、思い切って絵の正面でしゃがんで見上げてみた。ちょうど一番下の花の辺りに目を据えて下から見上げてみた。
するととても奇妙な感覚に襲われた。下の天使の羽が実に目の前で浮き上がって見えたのである。羽が実に生々しい。黄の着衣も浮き上がって強調される。さらに視線を上にずらしていくと、天使からかなり距離がある上方にマリアが見える。テレビの画像ほどマリアの顔は丸くは見えなかったが、何よりびっくりしたのは天から、上方から下方に向かってマリアが下降してくるように見えたことだ。絵の頂点の精霊の鳩がとても遠い、それこそ天にあるように見える。
私は始めてこの絵が、マリアがアンナの胎内への流れを持つ絵だと納得した。
図録によればこの絵を見るものが動くと下の天使の羽を軸に動いているように見えると記載されているが、確かに羽を軸に絵全体が回転するようにも見えた。
また花が、絵全体からは独立した花のようにも見えて、この花だけは絵に含まれない祭壇にかざられた花に見える。そして目の前にあるマリアの象徴としての鏡・ヘビ・泉がクローズアップされて見える。たったままの視線では見落としてしまう箇所だ。左下のトレドの町を描いたといわれる町も実に生々しい。
しゃがんでいると周りの人も私の真似をしてしゃがみ始めたのでちょっとあわてたが、それでも私はとても興奮してしゃがみこみ続けた。ようやくこの絵の迫力がわかったような気がした。人物や天使の長い肢体も違和感なく見ることができたし、人物のうねるような回転も上から下に向かっての流れに見せる技術だったようだ。しかし膝が痛いのを我慢してしゃがみ続けたために、立ち上がるときに声を上げてしまいとても恥ずかしかった。
実は雪山行二氏は講演で、今回はこの絵を元の祭壇にあるような位置に飾りたかったと述べていたが、改装なったこの美術館では不可能になってしまったととのことだった。以前の都美術館なら可能だったかもしれなかったとのこと。残念である。
本日空いている日に会場で鑑賞できてとてもよかったと思った。
エルグレコ展の感想はこれで終了。
今回は2回目ということで、最初からじっくりと見ながらまわるのではなく、印象に残っている作品だけに時間をかけてまわることが出来た。何より良かったのは天候のため今回はとても空いていた。人を気にせず見てまわることができた。
この作品、かなり人気があるらしく空いていた本日も人だかりがしていた。
1571~1572年ころの作品とのことだが、クレタ島からヴェネツィアにわたり、3年後のティツィアーノの死後にローマに移住して2年後くらいの作品である。
ビザンツィン様式の画家としての経歴からわずかにこれだけの期間で画風がまったく変わったことを物語っている。すっかりヴェネツィアのルネサンス様式に変わっているとの解説になっている。
暗い背景に燃えさしから蝋燭に火が点火した一瞬を割りと荒い筆致で劇的に、ある意味誇張して描いている。この劇的な一瞬と言うのが、当時の絵画に求められた要素なのかもしれない。私はちょっと大げさであまりに劇的効果にこだわりすぎた絵のような感じもする。前後の時間の流れを暗示させるのだが、物語としての深みは感じられない。しかし一瞬の時間を切り取る力量というか、些細な一瞬をあたかも劇的な一瞬に仕上げる力量に脱帽する。
この二つの作品、構図はほぼ同じ、筆致はずいぶん違う。会場では少し離れて展示されていたが、私としてはこれは並べて展示してほしかった。向かって左は1610~1614年頃の作品で国立西洋美術館所蔵のもの。右はゲッティ美術館所蔵で1600~1610年の頃の作品とのこと。いづれも晩年に近い頃の作品だ。右のほうが少し小さい。
ミケランジェロの作品の影響が見られるとのことだ。磔の場面としては他のルネサンス期の当時の作品に比べ、苦痛に身を捩じらせるような劇的な描写にはなっていないと解説されている。確かに「肉体的苦痛を超越した法悦の表情」という解説は理解できる。天を見上げる表情はかえってさまざまな思念を呼び起こすようだ。
この二つの絵、左のほうが明らかにタッチが荒い。そして背景の雲とその合間のひかりは右に較べていっそう暗く劇的である。キリストの表情に比べ背景のほうが劇的な一瞬を強調しているが、どちらかというと右の背景は少しおとなしい。実は足元の髑髏や骨の描写も、去り行く馬と人の描き方も左のほうが荒い。右の方が丁寧に描いている。
左のほうの署名はどうもエルグレコ本人の署名ではなく真似た字体らしい。工房での手が入っているとのことだ。右の方は本人の署名と解説に書いてある。しかし腰布については右の方はあまりに精緻、フリルのついた装飾性鮮やかなレースのような布に仕上げてある。これはあまりに不自然で、後からの書き込みのようだ。
だから、いろいろ好みはあるだろうが、左の方が現代受けする表現なのかもしれない。私としては細部での違和感はあるものの右の方が原作者のタッチに近いものを感ずる。好き嫌い、どちらがエルグレコの本位に近いかは見る人により違いがありそうだ。
「無原罪のお宿り」という作品がある。私もよく知らなかったのだが、「無原罪のお宿り」とはキリストの受胎のことではなく、聖母マリア自身もその聖性から、その母アンナに宿った時は、原罪を免れた受胎だったというカトリックの教義によるものらしい。
母性への崇拝を利用したキリスト教のヨーロッパでの定着に、マリア信仰は大変重要な役割を演じている。この聖母マリアの聖性の強調は対抗宗教改革の流れの中でも重要な要素だったと思われる。
この「無原罪のお宿り」というのは、天からマリアがアンナの胎内に降下するのだから絵としては上から下への流れで理解しなくてはならない。
この「福音書記者ヨハネのいる無原罪のお宿り」では絵の正面から眺める視線で鑑賞すると確かに天から光臨してくる流れが見えてくる。私もこれはすんなりと理解した。
さて今展覧会の目玉である最後の作品サンニコラス聖堂の「無原罪のお宿り」はどうであろうか。
私は知識のなかった頃この絵を見て聖母マリアの昇天、即ち聖母マリアの死を描いた作品化と思っていた。即ち下から上への流れに見えたのである。天に向かって登っていく、天に帰っていくマリアと思っていた。
しかし題名が「無原罪のお宿り」ということを知り、またその題名の意味を知り、ずっと不思議に思っていた。
実は先日見に行ったときは、この絵の前に人がかなりいて、少し膝は曲げたがほぼ立ったままこの絵を鑑賞して、やはり下から上への流れに見えて疑問は解消されないままだった。雪山行二氏の講演で、実際に祭壇に飾られているような見方をすると細長い人物も違和感なくながめられると教わったものの、知識としてだけ覚えていた。そしてNHKの日曜美術館でも下からのアングルで広角レンズで映したこの絵を見せてくれた時、マリアの顔が丸みを帯びて見え、スカートがとても広がって見えたのは心に残っていた。しかしそれ以上の感慨はうかばなかった。
本日この絵の前に人だかりはしていたが、それほどでもなかったので、思い切って絵の正面でしゃがんで見上げてみた。ちょうど一番下の花の辺りに目を据えて下から見上げてみた。
するととても奇妙な感覚に襲われた。下の天使の羽が実に目の前で浮き上がって見えたのである。羽が実に生々しい。黄の着衣も浮き上がって強調される。さらに視線を上にずらしていくと、天使からかなり距離がある上方にマリアが見える。テレビの画像ほどマリアの顔は丸くは見えなかったが、何よりびっくりしたのは天から、上方から下方に向かってマリアが下降してくるように見えたことだ。絵の頂点の精霊の鳩がとても遠い、それこそ天にあるように見える。
私は始めてこの絵が、マリアがアンナの胎内への流れを持つ絵だと納得した。
図録によればこの絵を見るものが動くと下の天使の羽を軸に動いているように見えると記載されているが、確かに羽を軸に絵全体が回転するようにも見えた。
また花が、絵全体からは独立した花のようにも見えて、この花だけは絵に含まれない祭壇にかざられた花に見える。そして目の前にあるマリアの象徴としての鏡・ヘビ・泉がクローズアップされて見える。たったままの視線では見落としてしまう箇所だ。左下のトレドの町を描いたといわれる町も実に生々しい。
しゃがんでいると周りの人も私の真似をしてしゃがみ始めたのでちょっとあわてたが、それでも私はとても興奮してしゃがみこみ続けた。ようやくこの絵の迫力がわかったような気がした。人物や天使の長い肢体も違和感なく見ることができたし、人物のうねるような回転も上から下に向かっての流れに見せる技術だったようだ。しかし膝が痛いのを我慢してしゃがみ続けたために、立ち上がるときに声を上げてしまいとても恥ずかしかった。
実は雪山行二氏は講演で、今回はこの絵を元の祭壇にあるような位置に飾りたかったと述べていたが、改装なったこの美術館では不可能になってしまったととのことだった。以前の都美術館なら可能だったかもしれなかったとのこと。残念である。
本日空いている日に会場で鑑賞できてとてもよかったと思った。
エルグレコ展の感想はこれで終了。