先ほど、パソコンの前に座っている時間が長くなったと書いたが、どうもパソコンを操作していないと落ち着いて眠れなくなっているのかなとちょっと心配になった。
確かに現役の頃は何かに追われるようにパソコンでさまざまな文章を作成し、組合の機関紙を一人で作成なるなど、パソコン漬けの日々であった。退職後は出来る限り体を動かす時間を多くして、就寝前にパソコンと睨めっこすることは自覚的に控えてきたが、今年に入ってからそのことに無自覚になっていた。反省である。
昨日は、パソコンの操作を止めるために、先日書店で見つけた「淫女と豪傑-武田泰淳中国小説集-」(中公文庫)を読み始めた。武田泰淳、書店でその名をたまたま見つけたとき、実に久しぶりで懐かしかった。武田泰淳の小説をまとめていくつか読んだのは、勤めてまもなくの頃であったか。学生時代に魯迅をむさぼり読み、卒業直後から竹内好に傾倒し、その流れの延長戦で武田泰淳を読み始めたが、全集は手に入らず、当時出ていた文庫本や単行本を探した。この文庫に収められている題名は記憶にないが、読んでいないのではなく、記憶がないだけかもしれない。
実は武田泰淳に限らず、時代小説・探偵小説を除いて、いわゆる純文学といわれる範疇の小説を読むことも何年ぶりだろう。純文学とか大衆文学というような分類がはっきりいってあまり意味のない分類であるとは思うが、たまには昔読んだ作家の小説を再度読んでみようという気にさせてくれる数少ない作家の一人だと思う。
しかしちょっと刺激的な題名である。いかにも武田泰淳らしい表題だが、この本の最後に収録されている評論にこの名がついている。初めて読む題名だ。あるいはかつて読んでも、そのことを忘れているのかもしれない。それは読み進めてからの楽しみだ。発行が1月25日となっているから出版されたばかりだ。
話はガラッと変わって、本日は、神奈川大学の公開講座の「神奈川の自由民権運動」の第1回目。これから3月末まで5回の講座。2月7日締め切りで50名を募集していたが、2月20日まで延期してようやく13名の聴講生が集まり開講が決まったようだ。はっきり言って採算が取れるような応募人数ではないと見受けられる。応募者の数からはこの自由民権運動というものへの関心の風化がうかがえるのかもしれない。
本日の講義でも触れていたが、1981年に横浜市で「自由民権百年全国集会」が開催された。その時は私も2日間の日程で1日目の全体集会、2日目の第1分科会「現代と自由民権」と第3分科会「現代の自由民権運動」を掛け持ちで聞いた記憶がある。30歳になったばかりであった。たまたま当時の組合で聴講券を安く配布していたのを利用した。
当時、県知事であった長洲一ニ、その他松本清張、色川大吉、大江志乃夫、小田実、遠山茂樹の発言は、かなりの違和感は持ちつつも熱心に聞き入っていたと思う。その違和感はこの歳になっても、言葉で、かつ他人に伝わるようにはうまく表現できない。しかしその違和感は今でも変わらずに持っている。
学生時代に色川大吉の「新編明治精神史」をつまみ読みしていたので、自由民権運動にはとても関心があった。そして多摩地域から神奈川県央地域にかけて、自由民権運動の大変さかんであったということだけは一応知っていた。そんなことを思い出しながら本日の第1回目の講義を聴いた。
先ほど書いた違和感、これをこの講義を聴きながらうまく表現できるようになるだろうか。心もとない。この違和感は自由民権運動そのものに対する違和感ではない。
色川大吉氏などは私よりも26歳も上の世代だが、その著作にはずいぶん影響を受けた。そしてあの1981年の集会は自由民権運動が弾圧を受け、内部対立の果てに時の権力者から徹底的な迫害を受け、マイナス評価の果てに埋もれていたものを復権させ、浮かび上がらせたという意味では大いに評価されてしかるべきであることは承知しているつもりだ。
しかし当時の集会の時も多くの発言者が「国民運動」「民主主義運動」としての「研究」という把握をしているようで、それが前面に出てきてしまうと、私など団塊の世代に揉まれた世代には「民主主義」なるものの評価、感覚、体に染み付いた体験とはずいぶんと違うのではないかと思う。世代論というのはとても乱暴なくくり方で、一般化して語るのはとても危険なのだが‥。
この違和感と付き合うのはしんどいような、もどかしいような感じがする。5回の聴講を終わってどのような感慨・感想となるのだろうか。
しかし、こんなことばかり言っていては、それこそ地道な研究を続けておられる方々にはとても不遜に聞こえるだろうと思う。そして研究の先端ではそんな政治的な思惑や感想など寄せ付けない努力が続けられていると思う。外野で騒ぐな、邪魔をするなと批判されてしまうだろうとも思う。人の成果の上前をさらうだけの興味なら、余計なことはいうなと言われてしまうだろう。
だからせめて現在の研究の状況を謙虚に学ぼうという気持ちに立ち返って、謙虚に講座を聞こうとは思っている。
確かに現役の頃は何かに追われるようにパソコンでさまざまな文章を作成し、組合の機関紙を一人で作成なるなど、パソコン漬けの日々であった。退職後は出来る限り体を動かす時間を多くして、就寝前にパソコンと睨めっこすることは自覚的に控えてきたが、今年に入ってからそのことに無自覚になっていた。反省である。
昨日は、パソコンの操作を止めるために、先日書店で見つけた「淫女と豪傑-武田泰淳中国小説集-」(中公文庫)を読み始めた。武田泰淳、書店でその名をたまたま見つけたとき、実に久しぶりで懐かしかった。武田泰淳の小説をまとめていくつか読んだのは、勤めてまもなくの頃であったか。学生時代に魯迅をむさぼり読み、卒業直後から竹内好に傾倒し、その流れの延長戦で武田泰淳を読み始めたが、全集は手に入らず、当時出ていた文庫本や単行本を探した。この文庫に収められている題名は記憶にないが、読んでいないのではなく、記憶がないだけかもしれない。
実は武田泰淳に限らず、時代小説・探偵小説を除いて、いわゆる純文学といわれる範疇の小説を読むことも何年ぶりだろう。純文学とか大衆文学というような分類がはっきりいってあまり意味のない分類であるとは思うが、たまには昔読んだ作家の小説を再度読んでみようという気にさせてくれる数少ない作家の一人だと思う。
しかしちょっと刺激的な題名である。いかにも武田泰淳らしい表題だが、この本の最後に収録されている評論にこの名がついている。初めて読む題名だ。あるいはかつて読んでも、そのことを忘れているのかもしれない。それは読み進めてからの楽しみだ。発行が1月25日となっているから出版されたばかりだ。
話はガラッと変わって、本日は、神奈川大学の公開講座の「神奈川の自由民権運動」の第1回目。これから3月末まで5回の講座。2月7日締め切りで50名を募集していたが、2月20日まで延期してようやく13名の聴講生が集まり開講が決まったようだ。はっきり言って採算が取れるような応募人数ではないと見受けられる。応募者の数からはこの自由民権運動というものへの関心の風化がうかがえるのかもしれない。
本日の講義でも触れていたが、1981年に横浜市で「自由民権百年全国集会」が開催された。その時は私も2日間の日程で1日目の全体集会、2日目の第1分科会「現代と自由民権」と第3分科会「現代の自由民権運動」を掛け持ちで聞いた記憶がある。30歳になったばかりであった。たまたま当時の組合で聴講券を安く配布していたのを利用した。
当時、県知事であった長洲一ニ、その他松本清張、色川大吉、大江志乃夫、小田実、遠山茂樹の発言は、かなりの違和感は持ちつつも熱心に聞き入っていたと思う。その違和感はこの歳になっても、言葉で、かつ他人に伝わるようにはうまく表現できない。しかしその違和感は今でも変わらずに持っている。
学生時代に色川大吉の「新編明治精神史」をつまみ読みしていたので、自由民権運動にはとても関心があった。そして多摩地域から神奈川県央地域にかけて、自由民権運動の大変さかんであったということだけは一応知っていた。そんなことを思い出しながら本日の第1回目の講義を聴いた。
先ほど書いた違和感、これをこの講義を聴きながらうまく表現できるようになるだろうか。心もとない。この違和感は自由民権運動そのものに対する違和感ではない。
色川大吉氏などは私よりも26歳も上の世代だが、その著作にはずいぶん影響を受けた。そしてあの1981年の集会は自由民権運動が弾圧を受け、内部対立の果てに時の権力者から徹底的な迫害を受け、マイナス評価の果てに埋もれていたものを復権させ、浮かび上がらせたという意味では大いに評価されてしかるべきであることは承知しているつもりだ。
しかし当時の集会の時も多くの発言者が「国民運動」「民主主義運動」としての「研究」という把握をしているようで、それが前面に出てきてしまうと、私など団塊の世代に揉まれた世代には「民主主義」なるものの評価、感覚、体に染み付いた体験とはずいぶんと違うのではないかと思う。世代論というのはとても乱暴なくくり方で、一般化して語るのはとても危険なのだが‥。
この違和感と付き合うのはしんどいような、もどかしいような感じがする。5回の聴講を終わってどのような感慨・感想となるのだろうか。
しかし、こんなことばかり言っていては、それこそ地道な研究を続けておられる方々にはとても不遜に聞こえるだろうと思う。そして研究の先端ではそんな政治的な思惑や感想など寄せ付けない努力が続けられていると思う。外野で騒ぐな、邪魔をするなと批判されてしまうだろうとも思う。人の成果の上前をさらうだけの興味なら、余計なことはいうなと言われてしまうだろう。
だからせめて現在の研究の状況を謙虚に学ぼうという気持ちに立ち返って、謙虚に講座を聞こうとは思っている。