Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

講演会「千恵の生涯」

2013年02月02日 18時35分37秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日は横浜市歴史博物館で行われた開館18周年記念特別講演会「千恵の生涯-生麦村「関口日記」から-」に参加した。講師は大口勇次郎氏(御茶ノ水女子大学名誉教授)。
 幕末期、生麦村の名主関口家に生まれ、江戸で武家奉公を経て、大奥女中まで勤めた千恵という女性の生涯を語る、というもの。特にこの時代に興味があるわけでもなかったが、横浜市歴史博物館の公開の講座にこれまで参加する機会がなかったので、たまたま日程が空いていることから申し込んでみた。定員170名とのことであったが、会場はほぼ満席であった。

 関口家の日記は当主である、千恵の父親・弟・甥の三代に渉って書かれて、その中にこの千恵という女性の動静が見えてくるらしい。一家を挙げてこの女性の動静に関わってきたともいえそうだ。
 身分制の強い江戸時代、町人の娘が大奥の奉公に上がっていたことは承知をしていたが、江戸の近郊とはいえ名主の娘がそこまで出来るのかと思っていた。話を聞くと奉公に上がっただけでなく、40歳を過ぎて村に帰ってからも、69歳の死の直前まで大奥に出入りをして相談事に携わったほど能力のあった女性であったらしい。
その間に結婚と死別・再婚・離縁、お目見え旗本との再婚話などもあったようで、一つのドラマになるような生涯が透けて見えるそうだ。

 町人の娘が旗本や大名の屋敷にあがり奉公するという、いわば当時の女性の職業の市場としては大変大きな労働力市場が存在しており、その市場に出るためにごく小さい頃から稽古事や習い事に、実家は多くの投資をしたらしい。千恵も三味線などかなりきっちりと仕込まれたようだ。奉公に上がって得る生涯の奉公賃を上回る支度金まで払っての奉公、これは講演者のいうようにステータスとしての奉公とだけ理解していいのか、ちょっと疑問ではあるが今後の解明が待たれるようだ。

 千恵は最初小さな大名家に奉公に上がり、その後商家に嫁ぐのだが、子をなすと同時に死別、その弟と再婚したらしい。講演では、生麦村の実家で取れた米の販売をその嫁ぎ先が引き受けていたとのこと、米だけではなく農業その他の生産物の販売も引き受けていたと私は推測するが、当時の結婚は、いわば家と家との婚姻であるといわれることのひとつの実際のあり様はこのようなものなのであろう。
 ある意味、お互い経済主体・生産主体同士の連携なくして婚姻は考えられなかったようだ。単に封建制的な女性蔑視の婚姻形態とだけ裁断してしまってはいけないのだろう。むろんそのような一面もあっただろうが、それだけでは十分な理解にはならない、もっと多面的な把握が必要なようだ。
 興味深かったのは、嫁ぎ先の家業が行き詰まり、千恵の実家の米の販売代金も払えなくなり、また妻の財産である嫁入り道具まで借金の方に入れてしまい、それらをすべて棒引きにするという離縁状が残っているとのこと。この写しを資料として配布された。離縁状はこの時代男側からしか出せないということで一方的な男社会の証のように理解されているが、このように離縁状に明らかに男の側の不始末、男の側に離縁の原因があることもキチンと記載されることもあるのかと、びっくりした。私の教わった日本史の授業ではこのようなことは触れてもらえなかった。
 おそらくこの離縁は借金で一家離散などどうしようもなくなる前に、債権も放棄しても娘である千恵の身の安全を確保した千恵の実家の力によるものであると私には推測できる。前夫との間の子について、講演では明確に触れなかったが(私の聴き落としか)、どちらが養育したのであろうか。一般的なこれまでの考えでは嫁ぎ先のような気もするが、離縁状の経緯から推測すると千恵の側のような気もする。時間が許せば質問してみればよかった。
 婚姻が先ほど述べたように、経済主体同士の結びつきだからこそのこの離縁状なのだろう。
 男が一方的に書くといわれたいわゆる三行半の離縁状というのは本当なのか、と思ったら、男が出すその三行半にもかならず「我等勝手に付き」という文言が含まれ、女の責任は問わないことが前提だったらしいとの話も聞いた。なかなか面白い話である。
 また40代も半ば近くになり、お目見えの直参との縁談もあったようだが、身分差を理由に断っている。幕末期、身分制の箍が崩れていたということを聞くが、やはりこれは越えがたいものがあったと推察される。おそらく奉公を続けた千恵という女性にはその苦労が直感的に理解できたのであろう。

 講演では、千恵が離婚後村へ帰らずに新たな武家奉公を始めたが、これは彼女の意志であったようだとの指摘がされた。このように当時すでに女性が自分の意志で職業としての女中奉公を続けて、一定の財産を自分で作るということができる社会であったとのことだ。この再奉公が大奥への奉公の道を開く幸運となったわけだが、これ以降は時間切れとなり駆け足で講演が終わったのは残念。
 大奥奉公のことは口外禁止の当時の状況から詳細はわかりにくいらしいが、日記からさまざまな推測ができるらしい。病気の祖母に将軍の御膳のお下がりをもらったり、母親が大奥の雛飾り見学を許されたり、というエピソードが紹介された。
 結局再婚しなかった千恵のために、父親は千恵の弟への家督相続にあたり田畑を一台限りで千恵名義にするなどの配慮をしている。
生麦事件(1862年)は数えで66歳、1865年に数えで69歳でなくなる。大政奉還の3年前のこと。

 江戸時代の具体的な婚姻の形態の根拠が垣間見える話、これは結構古い時代まで遡って婚姻の在り様を考えるのに参考になるような気がした。私自身の興味とはちょっとズレがあり講演会ではあったが、それでも十分に勉強になり、なかなかに興味の尽きない講演であった。