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『学習漫画 世界の伝記 マザー・テレサ』(集英社)
監修:沖守弘 漫画:高瀬直子
『シュバイツァー』など、世界の偉人を知るのにとても読みやすいのがこの「学習漫画 世界の伝記」シリーズ。
小学館などでも似たようなシリーズがあって、大人が読んでも面白くて、勉強になる。
名前はよく聞くのに意外とその活動、人柄は知らないもの。
最近、いろいろリンクしているマザーのことをもっと知りたくなって借りてみた。
【内容抜粋メモ】
1910年。
アグネス・ゴンジャ(のちのテレサ)は、スコピエに生まれた。
アグネスが9歳の時に、建築家の優しい
父が死去。政治活動の事件に巻き込まれた他殺とも言われる
「人は神さまから与えられたお勤めを果たすために生まれてきたのよ」母は熱心なカトリック信者だった。
その影響を受けたアグネスは、毎日のように教会に通い、聖フランシスコの逸話を聞いて
「修道女・宣教師」になる決心をする。
聖フランシスコ
富裕層に生まれながら、財産を捨てて修道者となり、
「貧しい人、病気に苦しむ人の中にこそ神がおられる」と説いた。
しかし、修道女は一生結婚せず、家族と一生会えないことも意味していた。
神父から
インドには貧しい人、病気に苦しむ人がたくさんいることを聞いて、
アイルランドにある
「ロレット修道会」が修道女をインドに送っているから、そこに行きたいと宣言。
ロレット修道会で「志願生」となったアグネス。英語などの授業を受けるほか、
食事中はひと言も話してはいけないなどの厳しい規律がある。
1928年。宣教地をインドに決めて出航
、1年後カルカッタの「ロレット修道会」に着くが、
ダージリンは高級避暑地にあり、そこではヒンズー語、ベンガル語を覚えた。
ここで
「テレサ」という修道名をもらう。修道名は、自分が尊敬する聖女の名前を名乗れ、俗名を捨てる。
シスター・テレサ
人の嫌がる目立たない仕事を出来るだけ楽しく喜んでしようと誓って生きたフランスの修道女。
1931年。テレサは20歳で
「初誓願」(修道女になるための最初の誓いの儀式)を迎える。
1.清貧(自分のものは持たない)
2.貞潔(心も体も清らかである)
3.従順(目上の者に素直に従う)
カルカッタ
蒸し暑い気候で世界一過ごしにくい町と言われる。
人口1000万人。そのうち
スラム人口は100万人、路上生活者は40万人。
テレサは、ロレット修道院附属の
「聖マリア女学校」で地理・歴史を教える。
女学校は富裕層の子女が入る寄宿制だったが、窓からは悲惨なスラム街が見え、悪臭も漂ってきた。
1937年。テレサはダージリンで
「終生誓願」を立て、正式な修道女となった。
生徒からの信望も厚く、女学校の校長となる。
校長は敷地外にある「聖テレサ女学校」にも教えに行くため、貧困の現状を見てショックを受けるが、
終生誓願を立てた修道女は自由に行動することは禁じられていた(なんだか矛盾してるね
1939年。第二次世界大戦勃発
同時期、
ベンガル地方が大飢饉となり大勢の死者が出て、無数の人々がカルカッタに逃れてきた。
1945年。終戦。ガンジーによる非暴力の活動で1947年、インドは長いイギリス支配から独立。
1946年。ヒンズー教徒
イスラム教徒の激しい対立によって4000人もの死者が出た。
テレサはダージリンに向かう電車内
で、もっとも貧しい者のために仕えようと決心する。
これを
「神からの真実のお告げ」と呼び、マザー・ハウスでは大切な記念日になっている。
修道院を出てスラムで活動することを神父に相談→大司教を通って→ローマ法王から許可証が届いたのは2年後の1948年。
テレサは黒い修道服を脱ぎ、白い木綿の粗末なサリーに、聖母マリアの美しい心をあらわす3本の青い線を入れ、
十字架を左肩につけ、外の世界に出た。38歳。
パトナの
「アメリカン医療宣教修道会」で医療の知識と技術を身につけようと門をたたく。
外国人のままではインド国民の気持ちは分からないと、国籍をユーゴスラビアからインドに移籍。
普通2年かかる医療知識をたった4ヶ月で習得。
プレゼントされたサンダルを履いて、スラムで子どもたちに無料で教える
「青空教室」を始める。
「聖マリア女学校」の教え子が紙、椅子、石鹸などを寄付。
富裕層の家を回って薬代に使う寄付金を集め、薬局に薬の寄付も求めた。
朝は4時半からミサに出て「聖体拝領」を受け、信仰を心の支えとした。
手伝うことを志願する子ども(シスター・アグネスら)も出たため、のちに
「神の愛の宣教者たち」と呼んだ。
3つの誓いのほかに、
「貧しい人の中でも、もっとも貧しい人々への心からの献身」を誓った。
1950年。「神の愛の宣教者たち」は、ローマ法王から正式な修道会として認められた。
そして、創立者であるシスター・テレサは
「マザー・テレサ」と呼ばれるようになった。
休むひまもなく働いても、ほかに何万と苦しむ人々がいると悩む修道女に対して、
「何千何万という貧しい人たちを考えるよりも、たった一人の、今目の前にいる一人のことだけを考えましょう」と説いた。
1953年。カルカッタの中央にある4階建ての家を安く譲り受け、
「マザー・ハウス」本部とした。
道端で料理し、道端で眠り、道端で死んでゆく人々を、家の中で安らかな死を迎えさせてあげたいと、
市役所に行ってヒンズー教徒の休憩所を無料で貸してもらい、そこで看護した。
「異教徒」だと嫌がらせも受け、市民から立ち退き要求も出たが、活動の様子を見た署長がとりはからう。
「この世でもっとも悲しいことは、貧しいことや、病気や飢えで死ぬことではありません。
だれからも相手にされずに、自分はいらない人間だと思い込んでしまうことなのです」
死を待つ人の家では、その人の宗教のやり方で手厚く葬られたため、その様子を見た市民は理解し、
反対していたヒンズー教徒も手伝うようになる。
1955年。
「孤児の家」を設立。中には届けられて数時間で亡くなる赤ちゃんもいた。
「たとえ1時間でも愛情を受けたことは赤ちゃんにも分かりますよ」
マザーは子どもたちの将来のために
「里親制度」を発案。
インド国内だけでなく、今では世界中から申し出があり、自立できるまでお金を出してくれる人、
障がい児も含めた孤児をひきとって育ててくれる人も増え、世界中からパン、牛乳などの寄付が贈られてくるようになる。
孤児の家の中庭では
給食が始まり、日曜日を除く毎日7000人分がふるまわれる。
コメと大豆をカレーで煮込んだ、質素であっても栄養のある食事に大勢が集まった。
平和の家に
「ハンセン病」者らが大勢、偏見から逃れて押し寄せてくる。
カルカッタには当時30万人以上の患者がいると言われ、早期治療で完治することを知らず、
病気を隠して手遅れになる人も多く、伝染病として誤解され偏見も強かったため、
最初は「移動診療車」
で治療をスタートし、ハンセン病の講義をして回った。
カルカッタから30km離れたチタガールに療養施設を建て
「休憩の家」と名付けて治療した。
病気の軽い患者は治療を受けながら、村に作られた工場で働き、
マザーは敷地を病棟、シスターの居住区、田畑
、患者とその家族の居住区に分けた。
「どんなに高価な薬より、家族の愛が最高の薬」
西ベンガルに知事が提供してくれた広大な土地にハンセン病患者の理想の村を作る資金集めには、
ローマ法王・パウロ6世がマザーに贈った高級車
を賞品として宝くじを作り、
くじは飛ぶように売れ
「平和の村」が完成した。マザー59歳。
1965年。インド国外にも修道会を開くことを許され、機内食
が大量に捨てられている現状を見たマザーは
インド中の空港に頼み、
欠航や遅れなどで手をつけてない機内食を孤児の家に払い下げてもらうことにした。
インド国内線はよく遅れるそうな
「孤児の家」で育った子どもは11,504人(1984年当時)。
修道女以外にも大勢のボランティアが協力して運営されている。
1981年。修道女として50周年を迎えたマザーは
初来日した。日本の印象を聞かれて
「物が豊かに満ち溢れた国。でも心の貧しい国だと思います」と答えたという。
「日本人の笑顔には、なにか淋しさがひそんでいるような気がします。
モノが溢れた日本では、快楽を求め、人生は楽しむものだと思っている人が多いからかもしれません。
自分だけの幸福を追って他人を思いやる心のゆとりがない人の笑顔はとても寂しそうです」
スラムの子のために脱いであげた子どもの衣服は受けとっても、有力者からの現金は受け取らなかった。
「この豊かな国で有り余ったモノの中から与えていただきたいとは思いません。
この坊やのように、自分が寒い思いをし、痛い思いをしてくださるものなら、
たとえひと切れのパンでも喜んでインドへ持ち帰ります」
痛い思い
与える時に大切なのは、お金や品物の量ではなく、愛の量
自分を犠牲にし、痛い思いをして与えるほど、豊かで大きな愛であると説いた。
「あなたの身の回りでできることをしてください。誰もが愛の心を持っています。
その心を行動に移して欲しいのです。
あなたに会った人がみな、前よりもっと気持ちよく明るくなって帰るように
」
マザーは東京都、愛知県に神の愛の宣教者たちの施設を作った。
施設は、全世界で400カ所近くあり、聖職者は3000人以上、共労者は7万人いる(1988年当時
「疲れた時にはすこし休みなさい。そして笑顔が戻ったら、また仕事を続けなさい。
すべての愛は笑顔からはじまるのですから
」
69歳で
「ノーベル平和賞」を受賞。祝賀会の費用でスラムの15,000人分の食糧が買えると言って、
賞金192,000ドル
とともに、すべて貧しい人たちのために使われた。
【沖守弘さんによる解説より抜粋メモ】
「神の愛の宣教者」たちはインドだけでなく、アフリカ、中南米ほか、
先進国であるアメリカ、イギリスなど貧しい人たちがいるところならどこでも出向いて活動している。
「インドより豊かな国の貧しい人々のほうが、耐え難い孤独と絶望に苦しんでいる」
沖守弘さんが取材を申し込むと、
「わたしの自叙伝を作るのではなく、私が世話をしている人々や、私の仕事を中心に取材してください」と希望した。
「悪夢の街」カルカッタ
かつてはインドでいちばん美しい都市
と言われていたが、
第二次世界大戦後、もともと仲の悪かったインド
パキスタンの宗教戦争によって
ヒンズー教徒が迫害を逃れてインドに流れ込んだ。
「宗教難民」らは住む家
も、働くあてもなく、大都会に集中した。
同時期に
干ばつ、洪水が続き、土地を持たない農業労働者も大都会に流れて、カルカッタに集中し、
駅構内、公園、学校、病院、はてはゴミ捨て場、道路上に住みついた。
路上生活者は悲惨そのもので、貧しさのために
産んだ子どもを道端やゴミ箱に捨てていくという状態だった。
しかし、天使のように笑顔を絶やさず奉仕しているシスターたちを見て、
沖守弘さんは、全身から血がひいて意識が薄れるほどの感動を覚えた。
物質的な豊かさと引き換えに、日本人が捨て去ったものが、そこにあると感じた。
「わたしは効果や結果を問題にするのではありません。
人はみな、神に望まれてこの世に生まれてきたのです。
それなのに、その人たちが路上で飢え、病気になって、誰からも顧みられず、寂しく死んでいくことがあってはならないのです。
ですから、臨終のとき手を握って、温かい愛情を与え、すべての人に、この世に深い愛情があることを、
わたしたちは伝えてあげたいのです。
この世の中の最大の悪は、こういう人たちに無関心で、愛が足りないことです。」
4歳の男の子が3日間ガマンした砂糖を小瓶につめて「マザーの子どもたちにあげる
」と言って差し出した。
「そのような喜びを、みなさんは体験されたこがありますか。
与えるモノが、たとえどんなに小さなものであっても、大きな愛からでなければなりません。
わたしは皆さんに、この日本の生活の豊かさの中の、有り余るものの中から与えていただきたいとは思いません。
自分が痛むところまで与える、そのことをお願いしたいのです。
豊かそうに見えるこの日本で、心の飢えはないでしょうか。
誰からも必要とされず、誰からも愛されないという心の貧しさは深刻です。
心の貧しさこそ、ひと切れのパンの飢えよりも、もっともっと貧しいことだと思います。
日本の皆さん、豊かさの中で、貧しさを忘れないでください。」