《世界遺産・首都「タリン旧市街」観光》(1)
旅行5日目の朝は、雪だった。それまでで一番暖かい服装をして外に出た。
気温はプラスになっていたので、道路は溶けた雪と降って来る雪が混ざり、ぐちゃぐちゃ状態だった。
まず、北の港のフェリーターミナルに案内された。
大型船が数隻停泊していた。明日の午前10時半には、ここからフインランドのヘルシンキ行きフェリーに乗るのだ。
①「歌の原」
次に向かったのは郊外の「歌の原」だ。
三国共、他国に支配されていた時代にずっと国民の愛唱歌を歌い続け、タリンでは5年に一度2万人以上の人々が集まってここで発表会が行われるという。歌は国民の密かな独立への意思表示だったのだ。
「歌の原」はちょっとした丘になっていて、下にホールと広場があった。傾斜した場所なので雪のために滑り、下りて行くことができなかった。
有名な第二の国歌『わが祖国・わが愛』を作曲した「グスタフ・エルネサクス」の坐像が頭と背に雪を載せて広場を見つめていた。
(今思えば、せめて像の前に行き、彼の顔を見てくるべきだったと後悔しているし、何故現地ガイドが悪天候の中でもそこを見せたかったのかが理解できた)
※ネットで検索すると…
「この合唱祭につきものの曲『我が祖国 我が愛』は、エストニアの第二の国歌とも言うべき歌です。
1945年にソ連に併合されて以来、この曲は当局によって演奏が禁止され、この曲の作曲者は合唱祭を含む公の活動が阻まれていました(*)。ところが、1960年の合唱祭で4万とも6万とも言われる聴衆から自然にこの曲の合唱が湧き起こったのです。6万人は人口の4%、25人に1人です。泣く子も黙る秘密警察も頭を抱えたことでしょう、「いくら禁止されてる歌を歌ったとはいえ、そんなに大勢の国民を逮捕はできない」と。同時に、きっと震え上がったことでしょう-----どんな恐怖政治を以ってしても、この国民から歌を取り上げることはできないし、歌の背景にある独立への願いを押し潰すことは出来ないのだ、と。
ともかくも、この合唱祭を契機に『我が祖国我が愛』は再び演奏を認められました。ソ連からの独立を勝ち取るより遥か昔にエストニアの国民が勝ち取ったひとつの、しかし偉大な自由でした。」
②「トーンペア城」
バスは城外の低地を城壁に沿って回り込み、1つの城壁の門をくぐり抜けて旧市街に入った。
そして海抜50m程の崖の上に建つ「トーンペア城」前で下りた。
建物は1500年に完成し、高さ50mの塔がある。この塔には歴代の支配者の旗が掲げられていたという。
現在は「国会議事堂」として使われている。
③「アレクサンドル・ネフスキー教会」
「トーンペア城」の向かい側に道路を挟んであるロシア正教会の大聖堂だ。
建物は19世紀末に建てられたので新しい。ロシア支配の象徴だったため、疎まれているらしい。
④「パットクリ展望台」
暫く歩いて北の端に行くと、断崖の上に展望台があった。相変わらず湿った雪が降っていたが、下を見渡すとタリンの「旧市街」の向こうに「新市街」、そして遥か遠くに朝行った港と「フィンランド湾」が霞んで見えた。
傍に揚げピーナツを売る屋台が出ていた。また近くに「首相官邸」もあった。
⑤「ネイツイトルン」(乙女の塔)
「アレクサンドル・ネフスキー教会」横の坂を下り、城壁の一部に開けられた小さな出入り口を抜けて右側を振り返ると、城壁の一部に四角い塔があった。そこは「中世の売春婦の牢屋」で、「乙女の塔」と呼ばれていた場所だ。
⑥「ヴィル門」
城壁の所々にある旧市街へ出入りする門の一つがこの一対の門だ。「旧市庁舎」前の「ラエコヤ広場」から東に真っ直ぐ伸びている道路の先にあって、新市街に抜けやすい門だ。奥に見えるのはホテルだと思う。
旅行5日目の朝は、雪だった。それまでで一番暖かい服装をして外に出た。
気温はプラスになっていたので、道路は溶けた雪と降って来る雪が混ざり、ぐちゃぐちゃ状態だった。
まず、北の港のフェリーターミナルに案内された。
大型船が数隻停泊していた。明日の午前10時半には、ここからフインランドのヘルシンキ行きフェリーに乗るのだ。
①「歌の原」
次に向かったのは郊外の「歌の原」だ。
三国共、他国に支配されていた時代にずっと国民の愛唱歌を歌い続け、タリンでは5年に一度2万人以上の人々が集まってここで発表会が行われるという。歌は国民の密かな独立への意思表示だったのだ。
「歌の原」はちょっとした丘になっていて、下にホールと広場があった。傾斜した場所なので雪のために滑り、下りて行くことができなかった。
有名な第二の国歌『わが祖国・わが愛』を作曲した「グスタフ・エルネサクス」の坐像が頭と背に雪を載せて広場を見つめていた。
(今思えば、せめて像の前に行き、彼の顔を見てくるべきだったと後悔しているし、何故現地ガイドが悪天候の中でもそこを見せたかったのかが理解できた)
※ネットで検索すると…
「この合唱祭につきものの曲『我が祖国 我が愛』は、エストニアの第二の国歌とも言うべき歌です。
1945年にソ連に併合されて以来、この曲は当局によって演奏が禁止され、この曲の作曲者は合唱祭を含む公の活動が阻まれていました(*)。ところが、1960年の合唱祭で4万とも6万とも言われる聴衆から自然にこの曲の合唱が湧き起こったのです。6万人は人口の4%、25人に1人です。泣く子も黙る秘密警察も頭を抱えたことでしょう、「いくら禁止されてる歌を歌ったとはいえ、そんなに大勢の国民を逮捕はできない」と。同時に、きっと震え上がったことでしょう-----どんな恐怖政治を以ってしても、この国民から歌を取り上げることはできないし、歌の背景にある独立への願いを押し潰すことは出来ないのだ、と。
ともかくも、この合唱祭を契機に『我が祖国我が愛』は再び演奏を認められました。ソ連からの独立を勝ち取るより遥か昔にエストニアの国民が勝ち取ったひとつの、しかし偉大な自由でした。」
②「トーンペア城」
バスは城外の低地を城壁に沿って回り込み、1つの城壁の門をくぐり抜けて旧市街に入った。
そして海抜50m程の崖の上に建つ「トーンペア城」前で下りた。
建物は1500年に完成し、高さ50mの塔がある。この塔には歴代の支配者の旗が掲げられていたという。
現在は「国会議事堂」として使われている。
③「アレクサンドル・ネフスキー教会」
「トーンペア城」の向かい側に道路を挟んであるロシア正教会の大聖堂だ。
建物は19世紀末に建てられたので新しい。ロシア支配の象徴だったため、疎まれているらしい。
④「パットクリ展望台」
暫く歩いて北の端に行くと、断崖の上に展望台があった。相変わらず湿った雪が降っていたが、下を見渡すとタリンの「旧市街」の向こうに「新市街」、そして遥か遠くに朝行った港と「フィンランド湾」が霞んで見えた。
傍に揚げピーナツを売る屋台が出ていた。また近くに「首相官邸」もあった。
⑤「ネイツイトルン」(乙女の塔)
「アレクサンドル・ネフスキー教会」横の坂を下り、城壁の一部に開けられた小さな出入り口を抜けて右側を振り返ると、城壁の一部に四角い塔があった。そこは「中世の売春婦の牢屋」で、「乙女の塔」と呼ばれていた場所だ。
⑥「ヴィル門」
城壁の所々にある旧市街へ出入りする門の一つがこの一対の門だ。「旧市庁舎」前の「ラエコヤ広場」から東に真っ直ぐ伸びている道路の先にあって、新市街に抜けやすい門だ。奥に見えるのはホテルだと思う。