花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

「コソボ・マケドニア・アルバニア」の旅(5)

2015年03月11日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅠ」ポーランド・コソボ,マケドニア,アルバニア

≪「コソボ」観光≫②

「デチャニ修道院」を後にして、バスは次の観光場所「プリズレン」まで1時間走った。「プリズレン」に近づくと今までのレンガを積み上げただけの建物とは違うしっかりとした建物が目に付き出した。







「プリズレン」の町の旧市街は、「コソボ」で最も美しい町と言われているらしい。
この町は「コソボ」の南にある人口22万人、ローマ時代からあった古都で、歴史的には常に「ブルガリア」「東ローマ帝国」「セルビア」「オスマントルコ」などの周辺国の脅威に晒され、代わる代わる支配を受け続けて来た町で、日本人である私にはその歴史的な過酷さは想像に余りある。
13~14世紀には「セルビア王国」の宮廷が置かれ、絹の生産を中心にセルビアのコンスタンチノーブルと言われる繁栄を見せた。
1545年に「オスマン帝国」の属州となってからは、交易都市として栄え、アルバニア人が多数移民して来た。
20世紀のセルビア軍の攻撃によって「セルビア王国」に組み込まれた際は、アルバニア人が虐殺されたという。
第二次世界大戦後、「ユーゴスラビア」の一部となった後、「ユーゴスラビア」の解体と共に「コソボ共和国」の一部になった。
「コソボ紛争」の被害は少なかったらしいが、アルバニア系の群集によってセルビア正教会などの建造物が破壊された。
2002年の民族の比率は、アルバニア人68.4%、トルコ人31.6%だ。

新市街の市役所前でバスを降りた。市役所の壁に「各国の復興支援に感謝する掲示板」が掲げられていた。日本に対する『ありがとう ございます ジャパン』のローマ字記載もあった。(赤線箇所)





それから40分程、町を散策した。
新市街と旧市街は、ビトリカ川の両側に分かれていて、モスクも沢山あった。16世紀に造られたという川に架かる堅牢な石橋が有名だ。その形は、以前「モンテネグロ」の「コトル」にある世界遺産の石橋にそっくりだった。

町の奥の小高い丘の上には、古い城砦が見えた。
橋を渡って旧市街に入ると、石畳が敷き詰められた広場があり、その中心に山から引いた水飲み場が造られていた。新旧の教会の他、イスラム教のモスクも幾つもあった。




 

 

大勢の人が店を覗いたりカフェで談笑していた。「プリズレン」の女性も男性もとてもお洒落で、大人びて見えた。特に男性は独特な髪型の人が多かった。「写真を撮っても良いか。」と聞くと、直ぐにOKしてくれて気軽にポーズを取った。路上でお金を取って体重を量っている男性がいた。

 

 


少し離れた所に日本で良く見る「ゴミ収集車」が2台見えた。添乗員氏から「あの収集車は、昨年日本がこの町のために20台贈ったもので、毎日大活躍していますよ。」という説明があり、私達とこの町のつながりを強く感じた瞬間だった。

最後に見たのは「コソボ紛争」で命を落した人達の慰霊碑だった。




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