花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

「ルーマニア・ブルガリア」旅行(10)

2013年06月08日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
≪ブルガリア/世界遺産「イワノボ教会」≫

旅行5日目はブカレストのホテルを出て真っ直ぐブルガリアに向かった。
東西に流れる「ドナウ川」がルーマニアとブルガリアの国境になっていた。
国境ではガイド氏と別れ、添乗員が全員のパスポートを集めて、事務所に行き、見せただけだった。
その後僅か15分程で両国の間に掛かる「友好の橋」を通過できた。
写真①はルーマニア側国境検問所 ②は国境のドナウ川 ③はブルガリア側国境検問所





ブルガリアに入って最初の町が1世紀のローマ時代に始まる人口20万人、ブルガリア第4の都市「ルセ」だ。
14世紀からのオスマントルコ時代には商工業都市として栄え、19世紀にはブルガリア初の鉄道が開通した。現在では、ルーマニア、ハンガリー、ロシア方面に行く国際列車が出ているという。
そんな町なので、友人と「ルセは滞在費が安そうなので、1~2ヶ月滞在して、ヨーロッパ各国に旅行するのに良さそうな町だね。」と話し合った。
「ルセ」で昼食を取った。

  

その後、25km南の「イワノボ」に行き、山道を登って標高32mの中腹に岩を掘って造った世界遺産「イワノボ岩窟教会群」を見学した。
ここに1320年代から17世紀までブルガリア正教会の修道士達が岩を削っていくつもの洞窟を造り、住んでいたという。
この教会のフレスコ画は13~14世紀に画かれた貴重なものだという。写真撮影は禁止されていた。
写真①は、教会の展望室から下の道路を写した。②はバスの駐車場からその展望室を写した。



③は修道士達が掘って住んでいた洞窟が沢山あった。





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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(9)

2013年06月07日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
≪ルーマニア/首都ブカレスト観光≫

シナイアから南に130km走って、夕刻ブカレストに着いた。
さすが首都、建物がぎっしりと建った大都市だ。

最初に「凱旋門」前でバスを降りた。この「凱旋門」は第1次世界大戦の勝利を記念して1919年に建てられたものだという。パリの凱旋門を思い出したが、僅かな彫刻が施された簡素なものだった。

次に降りた場所が「旧共産党本部」前だった。1989年12月22日に当時の「チャウシェスク大統領」がこのテラスで演説し、集まった大群衆からブーイングされて、屋上からヘリコプターで逃亡した建物だ。
現在は労働省として使われているという。
また、前庭には、革命の犠牲者の慰霊塔が立っていた。

 

次にチャウシェスクが日本円にして1500億円を使って建てた巨大な宮殿「国民の館」に行った。
部屋数3107あり、内部の天井、壁、窓枠などには純金が施してある豪華なものだそうだ。
現在は、政党の事務所が入り、国際会議、コンサートなどに使われているという。
余りの大きさに、建物全体を写真に取ることが難しかった。

その日のホテルの傍に大型スーパーがあったので行って見た。残念なことにユーロが使えなかったので買い物ができなかった。
意外にも入り口に日本の100円ショップ「ダイソー」が入っていた。品揃えを見たら、日本の店にあるものもあった。

 




翌日、ルーマニアからブルガリアに向かうバスの中で、現地ガイド氏はチャウシェスク独裁政権下の国情を話した。概要は次の通りだ。
『ニコラエ・チャウシェスクは貧しい農民出身で、靴屋で働いていた。旧ソ連のスターリン時代にソ連で学び、1965年共産党書記長になった。その後農業の集団化が推進された。そして1974年に大統領と国軍のトップになった
それからは貧しい人、理解力が低い人が昇進した。

食糧の配給制が始まり、券が配られた。しかし1Lの牛乳を買うのに、7時に開く店に3時から並ばなければ買えなかった。
反対した神父は獄死した。共産党に加担する神父も出た。神父がレポートを出した。調査時の話は録音されていた。

1989年にチャウシェスクに反対する牧師が演説をした。反対運動が盛り上がった「キミショアラ」で数百人が軍に撃たれた。マスコミも秘密警察に支配されていたので、ある市民が録音テープをドイツに持って行き、ドイツのラジオ放送で多くの人々がそのできごとを知った

チャウシェスクは1989年12月に夫妻で当時の共産党本部屋上からヘリコプターで逃亡後、捕らえられて殺され、軍人墓地に埋葬された。
3人の子の1人(養子)は彼に反対していた。今は核物理学者である。2人は死んだ。
(特に次男のニクは、レイプ事件を起こしたり、体操選手のコマネチを愛人にと迫ったりする放蕩息子だった)
国民の14%、320万人が共産党の党員だったが、現在は5000人だ。

チャウシェスクの支配下では、秘密警察は無料で住宅、食糧、衣服などが与えられていた。
革命時、銃を使った秘密警察は少なかった。革命後、秘密警察は良い職業についたり、利子なしで金を借りれた。

当時は離婚も人口妊娠中絶も禁止され、5人以上子どもを生むと公的に優遇された。』
(子どもを捨てる親が多数出て孤児が増えた。孤児院では子どもを死なせると職員が罰せられるので、大人の血液を輸血される子が多くいた。その子ども達はエイズを発症した。)

また現地ガイド氏は、現在のルーマニアについても、一部を話した。
『退職者は、年に1回国内旅行を半額負担ですることができる。また特定の店で買い物をしたら、価格の50%を政府が負担してくれる。年金は賃金の65%が支給される。
労働者には残業はなく、年間に休日は4~5週間ある。(ルーマニアの消費税は、現在24%だった)

学校は、小学校4年間-中学校4年間-高校4年間の12年間だが、その内、最後の2年間は義務教育ではない。
(10年間の義務教育が終った時に、その後高校生活を続けるか、専門学校に行くかを選択する。10年で就職した場合は非熟練労働者にならざるを得なく、普通の就職はできない)

小学校は、水曜、土曜、日曜が休みで、授業時間は2部制なので8時から午後1時までだ。給食はない。午後は、中学生が来る。
義務教育と公立大学は無償である。』 (教員は給料が安い)


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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(8)

2013年06月06日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
≪ルーマニア/シナイア観光≫

「ブラン城」を見学後、南東に50km走って「シナイア」に行き、この町にある「シナイア僧院」を見学した。
この僧院には、17世紀に建てられた古い教会と19世紀にルーマニア王国の皇帝になったカルロ1世が建てた新しい教会の二つがあった。
古い教会は小さいが、入り口のフレスコ画は保存が良く見事だったが、いつもの事ながら無宗教の私には内容が良く分らなかった。



カルロ1世の新しい教会は、壁の彩色が独特だった。

  

「シナイア」はカルパチア山脈の中の1つ「プチジェ山」の山麓にある高原に17世紀に開発された町で、18世紀には王侯貴族たちの別荘地として繁栄したという。
朝から快晴だったので、私達数人は添乗員氏の許可を得て、この町の「ペレシュ城」と「ペリショール城」の見学をする変わりに標高2000mの「プチジェ山」にロープウエイで登ることになった
ロープウエイ乗り場から乗り、中腹で1度乗り換え、頂上には25分程で着いた。頂上には残雪があり、気温が低かったが、ルーマニアアルプスを臨む景観は素晴らしく、また下に見える「シナイア」が山峡にできた町だと言うことが良くわかった。



 



 

 
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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(7)

2013年06月05日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
≪ルーマニア/ブラン城観光≫

4日目は、ブラショフの南西30kmのブラン村にある「ブラン城」の見学から始まった。
車窓にはのどかな田園風景が続き、広々とした牧草地に牛や山羊、羊が放牧されているのだった。
次第に「カルパチヤ山脈」が迫って来て、山岳地帯の風景になった。

 

 

  

ブラン村に着いた。チケットを買って「ブラン城」の門をくぐった。
この城はもともとブラショフに攻めてくるオスマン朝軍を発見するために1377年にドイツ商人が建てたものだが、14世紀末に「吸血鬼ドラキュラ」のモデルとなったワラキア公3世「ヴラド・ツェペシュ」の祖父が居城にしたのだった

「ヴラド・ツェペシュ」は、裏切り者やオスマン朝の兵士を串刺しにして処刑し、見せしめにしたと伝えられ、それがおぞましい「吸血鬼ドラキュラ」のイメージに重なったと言われる。現在では国の英雄として称えられている

「ブラン城」は、小さな中庭がある木造4階建ての建物で、王の執務室、居間、食堂、寝室など、部屋はどれも美しく整えられていた。
中庭の向こうに塔を見るベランダからの景色は、開放的で素敵だった。
甲冑や武器を飾った部屋と無数の針が付いた拷問用の椅子も展示されていた。

  

  

  

  
 
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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(6)

2013年06月05日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
≪ルーマニア/ビエルタンの世界遺産「要塞教会」≫

「ビエルタン」の町は、「シギショアラ」から南西に27km行った所だった。
オスマン朝の攻撃に備えて丘の上に三重に壁を巡らせた要塞の中に教会が建てられていた。町全体が見渡せる見張りの塔もあった。

  

 

教会の横に「離婚を望む夫婦の部屋」があった。鍵が掛かった4.5畳程の広さで冷たい土の上に半分だけ板が張ってあり、ベッド、寝具、食卓、食器、スプーンなどは1人分しか置いていない部屋だ。
夫婦が牧師に離婚を願い出ると、この部屋に入れられて2週間共同生活をしなければならない。食糧と水は届けられるそうだ。実際に離婚した夫婦はいなかったそうだが、私は離婚を望む女性側にとって、とても残酷な部屋に思えた。

  

城壁で囲まれた教会からバスが待っている駐車場まで5分程坂を下った。
駐車場の近辺に建っている家の屋根を見て驚いた。以前TVの旅番組で放映していた「目がある屋根」だった。
昔、屋根裏に穀物を保存していたため、換気を良くするためにこの様な窓を造ったのだというが、本当に屋根に見られているような錯覚を受けた。
この事にガイドは全く触れなかったが。

  
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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(5)

2013年06月04日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
≪ルーマニア/シギショアラ観光≫

歴史的な建物が多い美しい町であり、ルーマニア第二の都市である「ブラショフ」を後にして、120km南下し、「シギショアラ」に行った。

「シギショアラ」は人口3万人の中世の雰囲気が残る小さな町だが、1191年にハンガリー王の命でドイツのザクセン人が入植して繁栄し、15~16世紀には15ものギルドがある城壁で囲まれた城砦都市だったという。
「時計塔」は、町が商工ギルドの自治都市になったのを記念して14世紀に建てられた町のシンボルで、今でもその仕掛け時計は健在だった。

  

また、時計塔の傍に伝説「ドラキュラ」で有名な「ヴラド・ツェペシュ王」の生家があり、現在はレストランになっていた。
彼の父親「ヴラド・ドラクル」は、この家に1431年から4年間、ハンガリー王により幽閉されていたという。(右側奥の黄色い家)
私達はそのレストランで昼食を取ったが、『血のスープ』と名づけられたトマトスープは美味しかったし、続いて出たマッシュポテトと牛肉の煮込み料理の盛り合わせもなかなか美味しかった。

  

 

昼食後、写真奥に写っている入り口から、約700段ある屋根が付いた階段を登って、見晴らしが良い「山上教会」にも行った。

  

  

レストラン前の小さな広場では、風景画を描いて売る人や結婚式を前にしたカップルが色々なポーズをとって写真を写していた。楽しい雰囲気に溢れた町だった。

 


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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(4)

2013年06月03日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
≪ルーマニア/ブラショフ観光②≫

旅行3日目は、ホテルから10分程歩いたところにある「ブラショフ旧市街」の観光から始まった。
噴水が吹き上がる広場の周りに時計塔がある「市庁舎」や教会があった。

  

広場の南側にトランシルバニア最大の後期ゴシック建築様式「黒の教会」があった。(写真左は入り口から写した。写真右は広場側から背部を写した)
この教会は14世紀後半から80年の月日をかけて建造されたが、1689年にハプスブルグ家の攻撃で火災になり、外観が黒く焦げてしまったのだった。
中に4000本のパイプで造られたパイプオルガンがある事で有名である。
内部の撮影は禁止だったので写真はないが、ここも非常に荘厳な空間になっていた。また、パイプオルガンが演奏されると、木製の椅子の背もたれを動かして参列者が反対向きに座れる工夫がされていた。

  

「黒の教会」の直ぐ東側に、ドイツ人の子どものための小・中・高校があった。その昔、この町の基礎がドイツ商人によって築かれた歴史を思い出した。ガイドの話では、学校の改修費用はドイツ政府が支援していると言っていた。

 


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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(3)

2013年06月02日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
≪ルーマニア/ブラショフ観光①≫

「トランシルバニア地方」のルーマニア第二の都市「ブラショフ」に着くと、最初に先住のルーマニア人達が14世紀に造ったというルーマニア正教の「聖ニコラエ教会」を見学した。
「ブラショフ」の町をドイツ移民が造った時、先住民のルーマニア人が移住させられた地域が教会の建つ「スケイ」地区で、現在の建物は後に増改築されたものだが、入り口左右に残るフレスコ画が建設当時のものという。
私達が訪れた時、少人数でミサが行われていたが、古い教会の静かな佇まいに荘厳さを感じた。

(ガイドブック『地球の歩き方』に拠ると、ルーマニアは2世紀以降ローマ帝国の支配下にあったが、ローマ帝国が衰退すると異民族が侵入して南は「ワラキア」、北西は「トランシルバニア」、北東は「モルドヴァ」という3国に分かれて発展した。「モルドヴァ」と「ワラキア」は、15世紀には力をつけたオスマン帝国に侵入されてオスマン朝の自治公国になった。
一方で「トランシルバニア」は、11世紀からハンガリーの影響の下で特権を与えられたドイツ系サクソン商人が活動して「ブラショフ」や「シギショアラ」の町を造った歴史がある。
しかし、ハンガリーがオスマン朝軍に敗れると、「トランシルバニア」もオスマン朝が支配することになった)

 

  

(長い間オスマン朝の支配下にあったルーマニアが16世紀にワラキアのミハイ公の独立宣言で一時的に独立し統一されたが、彼の死後再びオスマン朝に支配された

「トランシルバニア」はその後の17世紀末にオーストリアの支配下に入った。1868年にはハンガリー帝国の支配を受けた。
「ワラキア」と「モルドヴァ」は、1861年に力をつけて来たロシアの援助を受けて連合公国になり、1878年には完全に独立を果たした。

1881年にカルロ1世が「ルーマニア王国」を宣言して王政となった
1947年、王政が廃止されて、ソヴィエト連邦の影響が強い「ルーマニア人民共和国」が成立した)

(1965年に「チャウシェスク」が独裁権を握ってからは、秘密警察、ハンガリー人の弾圧、女性に5人の出産義務、政府高官達の汚職などが相次ぎ、国民への恐怖政治が続いた。
1989年12月16日ハンガリー牧師退去事件を契機に全土で抗議運動が起き、共産党本部の屋上からヘリコプターで逃げた「チャウシェスク」夫妻は逮捕されて25日に処刑された

その後民主国家ルーマニアは、2004年にNATOに、2007年にブルガリアと共にEUに加盟した)

その日のホテルは、ブラショフ市の「市民センター」の前に建つ「キャピトルホテル」だった。ホテルの隣には「美術館」があったが、時間の関係で入場はできなかった。5階の部屋の窓からは、夜間ライトアップされた「市民センター」が美しく見えた。




翌日早朝、散歩に出たが、「市民センター」の前には、「ルーマニア」が「ローマの国」であるという歴史を現すローマ神話「ロムルスとレムスを育てたメス狼」の銅像があった。

  

「市民センター」の隣には、歴史的な建物を思わせる郵便局、反対側には良く整備された大きい中央公園があった。
公園にはデザインされた洒落たプランターが幾つもあった。6時半頃、犬を連れた市民が散歩をしていた。芝刈りや樹木の整枝係りの男性と出会ったが、夏時間の今は7時から勤務に就くのだと話していた。気持ちの良い散歩だった。

  

 
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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(2)

2013年06月01日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
≪ルーマニアの首都「ブカレスト」から北上≫

26日に帰国した後、庭の草取りや低温で遅れていた畑の植え付け作業をしていて、旅行の報告が遅れてしまった。やっと号作業が一段落したので今日から取り掛かりたい。

先ず最初に行った国「ルーマニア」から始めたい。
「ルーマニア」の首都「ブカレスト」は、北海道の北とほぼ緯度が同じだが、四季がある大陸性気候の国で、5月17日に訪れたのだがその日は24度、27~30度ある日もあった。

ルーマニアの面積は237,500k㎡で、日本の本州に匹敵する広さの国だ。
民族はルーマニア人、ハンガリー人、ドイツ人、トルコ人、ロマ人などで、宗教はルーマニア正教、ギリシャ正教、ローマカトリックなどだ。
国道沿いに屋根の形が珍しい協会があった。

 

首都の空港からバスで北に向かうと、直ぐに豊かな田園風景が広がった。5月の畑には菜の花が咲き、小麦が植えられていて、小麦は既に収穫を終え、その後に向日葵を植えつけてある畑もあった。畑にはビール用のホップも栽培され、果樹園では桃の花が咲いていた。
国道沿いの大半の家々の周りには大量の葡萄が栽培されていて、ニワトリが放し飼いにされていた。

国道や脇道では何台もの馬車も見掛けた。
路上販売の屋台をあちこちで見かけたが、苺、さくらんぼ、アプリコットなどを売っていた。蜂蜜を売っている屋台もあった。

さらに進むと丘陵地に草原が広がり、羊、山羊、牛が放牧されていた。山羊乳で作るチーズは、濃厚で保存性も優れ、ガイドは常温で1ヶ月持つと言っていた。

途中の草原で、水蒸気を出してパイプに通し、遠くまで運ぶ装置を見掛けた。

  

さらに北に行くと2000m級の山並みが連なる「カルパチア山脈」の深い森林地帯に入って行った。
途中の「シナイア」という町は冬のスキーのリゾート地らしく、ホテルが立ち並び、ゴンドラもあった。

 

 

バスで二つの国を移動中のトイレ休憩は、レストラン以外ではほとんどが「ガソリンスタンド」だった。
どの「ガソリンスタンド」もコンビニの様な造りになっていて、各種飲料、菓子類、パン類を売り、簡易な喫茶を併設していたが、残念な事にトイレは男性用1個、女性用1個しかなかった。今回のツアーは30人強の人数で、いつもの様に女性がその大半を占めていた。男性が済むと、男性用を女性も使わせて貰う等したが、いつも長い時間がかかった。
まだまだ大型バス1台で観光する観光客は、少ないのだろうと思った。因みに私達が日本人の他のツアーに会ったのは、最後のブルガリアの首都「ソフィア」でだった。

 

私達はさらに北へ進み、ブカレストから165kmの所にある最初の宿泊地「ブラショフ」の町を目指した。
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庭の華やぎ(2)

2013年06月01日 | ガーデニング・家庭菜園
昨日は当地も初めて最高気温が25度位に上がった。
お陰で生育が遅れていた庭の草花が、次々に開花し出し、一層庭の彩が多彩になった。
今朝の写真である。

①遅咲きチューリップ三種

  

  

②口紅水仙                   ③花ニラ

  

④銀盃草

 

冬、枯死した数本の薔薇の変わりに、5月5日に棘がない「アイスバーグ」の「ビビリアンピンク」と「つる白色」を買って植えておいたが、今朝、「ビビリアンピンク」が開花した。蕾が沢山付いているので、これからが楽しみだ。

  
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