存在する音楽

ジャンルに関係なく良いと感じた曲は聴く
誰かの心に存在する音楽は
実際に音が鳴っていない時にも聴こえてくることがある

中之島 散策 渡辺橋 付近

2008-12-29 13:49:23 | 日常
中之島線の各駅はどの程度個性的な趣があるのか不明ですが、
こんなに利用客がいなくて動かすのはもったいないのでは?

渡辺橋駅の住友中之島ビル側の出口はこんなに長い階段。

年寄りにはきついなあ。
ちなみに手摺りは、どの駅でも こういう階段の段差と平行して階段状でした。


大阪市立科学館でプラネタリウムを見てきました。
こちらは満席で、学芸員の語りも面白く、
今のガリレオ特集では福山雅治の「ガリレオ」サントラ曲も使用されていました。

写真は撮りませんでしたが、この科学館を撮影した側の通りにあるgrafbldというアーティスト系のお洒落なレストランでランチを食べました。
なかなか美味しいかったです。


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中之島 散策 なにわ橋周辺

2008-12-29 12:06:32 | 日常
年末で人気のない中之島をブラブラしてきました。
街は不況のせいか年末のせいか人はそう多くなくて歩きやすかったです。

大阪市中央公会堂
この西には大阪市役所と中之島図書館があります。

さらに東へ行くと 京阪電車が今年開通してできた なにわ橋駅があります。安藤忠雄が設計したことで有名らしいですが、驚くことに客は誰もいなかったです。
出来立てホヤホヤ
駅は人気の居ない博物館のよう。
ダークな木材が構内を囲んでいて、天井は骨組みがむき出しでした。






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100年インタビューセレクション「坂本龍一」再放送

2008-12-29 00:03:55 | 坂本龍一
BSハイビジョンでジュリー祭りの後に始まりました。

渡邊あゆみアナウンサーの質問が迫るものがあり、良い感じです。

朝6時から起きて仕事をしている教授。
「もうじじぃになってきたので」と語る。
911テロの時に日本だけではなく、アメリカでも音楽が無くなり、しばらくしてから「アメリカ アメリカ」と愛国心を煽る曲が歌われるようになり、

進化?
面白い幼稚園に通われたらしいですね。
玩具やお菓子も親が買い与えるのではなく、親が作らなきゃいけない。大変ですよ親も。

4歳の時に初めて作曲したということですが
でもみんなしたんですよ。
兔について詞を書いて曲をつけました。

ピアノの徳山先生が音楽の秘密などをちょっとずつおしえてくれ、音楽の聴き方を教えてもらったんですよ。
作曲家がどんな考えで音を積み立てていくのかというのを教えてもらいました。
僕よりも音楽的才能のある人たちはいっぱいいましたが、色んな条件が重なって僕の場合はこうなった。

作曲への道
何人かで一緒に行っていた友だちはみんな辞めてしまっていて、僕は親もゆっくりしているほうなので、気がつくとみんないなくなちゃって、ピアノの先生が「あなたは作曲をやりなさい」と言われたのだけど、そんなことが出来るとは思ってなかったし、何のことかわからなかったし、最初は半年とかだったのですが、嫌と言えない性格が災いしてというか功を奏して

単純なことから初めて段々難しくなりました。途中で一度逃げ出して、女の子にもてたかったし、当時は背が大きかったので、バスケットを始めて、何度もつき指とかして、音楽とどっちとるんだ?と言われてもバスケを選んだんですが、段々寂しくなってきちゃって、自分でお願いしてピアノをやらせて欲しいと。バスケットも先輩に殴られましたよ。やめちゃってピアノをやるようになりました。

坂本少年を育てた世界
父が文学関係の仕事をしていたので、三島や小田実さんと仕事をしていて、本のことはよく知っていました。
うちでは父は軍隊にもいたし、怖くて怖くて命令口調で、高校くらいまで怖くて目を見たことがないです。
母は帽子のデザイナーでした。
父は音楽は全然ダメだったんですが、母は音楽が好きで、60年代前半の前衛音楽のコンサートに僕の手を引いて行って、ピアノにボールを投げたりするようなもので、子供は僕一人でした。トイレで こんなの聴いてわかるの?ときかれ。うん と答えたのを覚えています。当時は、こういうのも音楽なんだと思いました。

初めて買ったレコードはローリング・ストーンズでしたが、直ぐにビートルズも買いました。よく友だちと真似をしてましたね。おじのところに行くと中学の頃にドビッシーの音楽に出会い、今まで知らなかった音楽で、全くどうやったらこういう音が出てくるのか想像できなくて、何度も何度も聴いているうちにはいちゃて、
何で僕はフランス人ではないんだろう?この時代の日本にいるんだろう?って思ってました。

新宿で過ごした青春時代
新宿高校時代は人間が人間を評価できるのか?ということを先生達に迫って、根本的なこと
先生方はとても紳士というか、何週間も話し合ったんです。

図書室貸し出しランキングは第1位だった。
家にあるのは文学で、そういうのはあんまり読まなくて、僕が読むのは社会学とか哲学とかで、そういうのは学校で借りていたと思います。
映画座みたいなものが沢山あったので、あの頃の日本の文化の中心てきな所だったんですね。安く映画も見ることができましたし、本当、色んな体験をさせてもらいました。

これだけ24時間を26時間ぐらいの勢いで時間を使って生活されているんですが

東京芸術大学で学んだこと
殆ど演劇の学部の方に行ってました。
怠け者だったので、必要最低限のことだけやった。

演劇を通して当時のミュージシャンと出会うようになり、お助けマンですよ。
やがてそれで、ミュージシャンから引っ張ってもらうようになりました。

当時、はっぴえんど というバンドとか知らなくて、
現代音楽は全国集めても五百人もいなくて、
当時はフォークを馬鹿にしてたんですよ。メッセージソングは嫌いで、今でも音楽にメッセージを載せないようにしようと気をつけています。でも後ろでピアノを弾いているバイトは良いかなと。

肉体労働もやったけど、親方に三日間ほどやらしてもらいましたけど、辞めさせられました。

YMOを振り返って

テレビを見ながら書いていたら、この時点で寝ていました(笑)

コメント (6)
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